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ゆらりゆらゆら記 鬼海弘雄
第11回 鶏頭の花、号泣する中国おんな
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 やっぱり、酒はだめだ。
 深酒は禁物だということは分かり切っている。だが、またやってしまった。
 昨夜、久方ぶりの友人と暗くなる前から呑んだのがいけなかった。終電車ちかくに帰りすぐ床に就いたのだが、目覚めてみれば案の定、背中が苦しく泥につかったように気だるい。昼過ぎになっても、田んぼに打ち捨てられた秋の藁のように寝床のシーツにだらしなくからまっている。
 ふやけた頭は今まで何度も反故にしてきたフレーズ「酒やめる!」を吐息のように漏らしている。新聞を捲るのも面倒だ。
 歳のせいでアルコールがべっとりと朝まで残るようになってからだいぶ経つ。だが根が卑しいから、酔っぱらうまで呑まないと気がすまない。同じ失敗を性懲りもなく繰り返している。
 何年か前からは、深酒で内臓が疲れると、考えることごとが厭世観に包まれて、鬱の泥沼に何日も引きずり込まれるようになった。小人はついいらいらのはけ口を家人や猫のゴンにあたることになるので、ここ何年かは家に酒類を置かないようにしている。やはりこの年齢になって酒精に頭をおかされ、写真が撮れなくなるのは恐い。
 蕎麦でも食べようと散歩がてらに家を出た。以前は酒が残るとまったく食べられなかったが、近年はやたらと腹がすく。旺盛な欲はどんなものでも下品で自分を汚すと思っているのだが……。余分な摂取は内臓に無用な負担をかけるばかりでなく食べものに対して礼を欠くのはわかっている。それにしても腹がすく。
 商店街に向かって車の通らない路地を歩いて行くと、ちゃんちゃんこにハンチングの老人が手を後ろに組み奇妙な足取りで歩いていた。不思議に思って追いついてみると、老人は足先でカメを誘導しながら散歩させていた。懸命に首を奇妙に傾げて道を逸れようとする一尺ほどの亀は、間近でみるとなかなかすばしこい動きだ。
 金歯の入った老人は十八年前に縁日で買った一寸ほどのカメなのだと言い、いつも陽当たりの悪い小さな「水溜まり」で飼っているのでときおり散歩させるのだと続けた。長いつき合いなので、カメと名のつけられた亀は飼い主が分かるのかと訊くと、真顔でいやいっこうにという答えが「玉手箱」を期待していない老人から返ってきた。たしかに、動植物には、ひととの直接の交感はなくとも微妙な交流はあるようだ。本来ひとは生き物の動きをみたり気を感じるのが好きに出来ているのだろう。
 亀と老人の奇妙な散策に別れて先を行くと、曲がった道からばったりとふたりの中年の女が現れた。ふたりとも薔薇の刺繍の付いたジーンズを穿き、黒のトレーナーを着ていた。一見して双子だとわかった。なぜか後ろを歩くひとりは使い古しの扇風機を裸で抱えて運んでいた。振り返るとふたりのトレーナーの背中には太い緑色の文字で「Don't Worry」とプリントされていた。
 一戸建ての歯科医院の前を通りかかった。何年か前からその玄関脇には、いつも空の酒瓶が埃を被って見事なほど林立しているのが通りからみえた。玄関は診察室に続いているようなので、歯医者はだいぶ前から廃業しているのだろう。しばらくぶりに門扉から覗いてみると、いつもの空の酒瓶の林は消えていた。以前から人の住んでいる気配が薄い家だったが、今はすっかり空き家になっているようだった。
 住人の居なくなった庭の隅には、葉まで赤くなった数本の鶏頭が天辺に赤黒いビロードのような花を咲かせていた。成育の悪そうな鶏頭を観ていると、空からバタバタとかしましい音が近づいてきた。見上げると、路地の切り取られた矩形の空にプロペラが前後に付いた重そうなヘリコプターが空気を叩き、すぐに音だけを響かせて視界から消えていった。
 蕎麦屋で普段よりさらにワサビを強く効かせて大盛りを啜った。蕎麦屋を出ると、なんとなく遠回りしながら帰ろうとめったに歩くことのない路地に入った。しばらく行くと、前から女の人が携帯電話で話しながらやって来た。その三十半ばの女は、人目もはばからずおいおいと泣きながらしかも中国語で話しながら通り過ぎていった。ブロック塀に囲まれた路地を歩いたせいか、その人は異郷でどんな悲しみに打ちのめされているのだろうかと気になった。耳に粘る泣き声に、もう何年も自分は泣いたことが無いのに気付かされた。泣くことでこころが浄化されることもあるので、単に泣かないことが人にとって仕合せでもないなどと取り留めない思いにかられたりした。
 夕方、まだ気だるい気分でニュースとワイドショーが一緒になったようなテレビ番組をひっくり返って観ていた。数人の若い莫迦女たちがテレビ・スタッフに煽てられ一・五キロのハンバーグや何升の焼き飯やオムライスを「完食」するトレンディな「映像」が得々とたれ流されていた。食べる女も映像をつくる男たちにも腹が立った。体や食べものにもまったく失礼で愚弄する輩だ。罰が当たればいい!
 まだ酒が残っていたに違いない。罰当たりめ。


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東京夢譚 鬼海弘雄
『東京ポルカ』で発表された写真を含め、鬼海氏が30年にわたって撮り続けてきた「東京」シリーズ作品約120点を掲載。エッセイも大幅に加筆されて収録された写真集になりました。
東京夢譚

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