Web草思
ゆらりゆらゆら記 鬼海弘雄
第8回 女装するマッチョマンと贋看護婦
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 スピードをゆるめた電車が止まると、ちょうど窓越の正面にその男が立っていた。人込みのホームでも頭一つ高いので目立っていた。何か月ぶりの奇遇におどろかされた。ドアが開いて乗客が入れ替わったが、男は乗ってくる様子はなく、階段脇のホームに立って周囲に粘りのある視線を泳がせていた。さりとて、待ち合わせをしている気配は無い。日曜日、下北沢の駅、午前十時三十分。
 白いぴったりとした短パン、素足に踵の高い白のサンダル、腹部を露出させた水色のタンクトップにエナメルの黒いハンドバッグを肩に掛けていた。紅を引いた唇、くっきりと描かれた眉、厚めに塗られたファンデーション。造作の大ぶりな面差しの女装をする男。
 男は、背が高いばかりでなく実に立派な体格で、体全体に隆々と鍛えられた筋肉がついていた。歳はすでに五十近くなのだろうが、腹部にさえも少しのぜい肉もついていない。マッチョマン。
 半年前ほどにその男を新宿駅の昼のコンコースで見かけたことがあった。そのときは大腿部を露にした黒いミニスカートに虹色のモヘアのセーターで、片腕にそのハンドバッグを抱えて内股で歩いていた。プラットホームでも、同じように誰にとは定めない油膜のような微笑みをうっすらと浮かべ、まるでひとり芝居の舞台に立っているように見えた。
 電車がホームを離れてしばらくしてもその女装の男は頭から離れなかった。その筋のゲイバーで真夜中に働く人が昼日中にホームに佇んでいるのも奇妙に思えた。男はもしかして「趣味」と日常をくっきりと分けて暮らしているのだろうか。そう考えると、短い髪もうなずける。普段は押し込めざるえない「自分」を、許された休日にだけ羽化させているのだろうか。そんな想像を巡らしていると、秘密で借りるアパートの部屋からサンダルを鳴らして階段を降りる音が聞こえるような気がした。妙に妄想が滑るのは、電車の前の座席で若いバカ女が目をむきながらマスカラを塗っているせいだ。
 総武線の亀戸駅で降りた。
 カメラをデイバッグから取りだし、向島の方にのぼろうか南砂町へ下ろうかと迷っていると、目の前を通り過ぎた中年の女性の持った買い物袋から数個のマンゴーが覗いていた。高級果物をもった普段着の女は、南砂の方へ歩いて行ったのでそれに倣った。
 マンゴー。雨季のなかの今ごろのカルカッタでは、路上に並んだ屋外の八百屋にはピラミッドのように幾種類ものマンゴーが山積みにされているにちがいない。防水のいい加減な定宿にしている安ホテルの壁は、雨季の始まりの激しい雨にすでに汗をかき、大きな天井ファンがいたずらに湿気のこもった空気をかき混ぜては洗濯物を揺らしているだろう。
 この時期の旅は、カメラを黴から守るだけでも難儀なことなのだが、ここ二年ほど行っていないので、あの喧騒とむせ返るような匂いが無性に恋しい。滞在しているときは蒸し暑さと理屈っぽいインド人に攻め立てられて始終小言を並べているだけなのだが……。
 駅前の商店街や飲食街を縫うように徘徊してから、ただ漠然と南砂町へ向かった。何本目かの通りをわたり、住宅街の道を進んで行くと、角張ったコンクリートの建物の奥まった隅で、白衣を着た三人の看護婦たちが屈みこんでタバコをふかしていた。例のヤンキー座りだったので、白衣との取り合わせが奇妙に見えた。建物には歯科医院の看板が掛かっていた。院内は禁煙になっていて、彼女たちは昼食を掻き込んだ後に一服しているのだろう。
 白衣の姿に促されて、浅草で二か月ほど前にポートレイトを撮った女性を思い出した。その若い女は、境内を看護婦の格好で歩いていた。ナース帽にナース靴。目で追いかけていると娘にはどこか不思議な感じがあった。近づき、贋看護婦さんですかと話しかけてみた。すると、美しい女性は屈託ない造花のような笑みを浮べてコスプレですと答えた。たしかあの時も日曜日。
 マッチョマンも贋看護婦も、違った自分になるための小さな跳躍。若い娘の変身には、学芸会の仮装のような乾いた軽やかさがあったが、マッチョマンにはなにか一生懸命という一途さがこもるのは、性が絡まるせいだろうか。
 そんな余計なことを思いながら歩いていると、足許に蝉が鳴きながら落ちてきた。今季はじめて見る蝉だ。なんどか地面でもがくと、また低く飛んでいった。
 インドでは蝉を見たことがない。


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東京夢譚 鬼海弘雄
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東京夢譚

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