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そこから音楽はちゃんと聴こえてくる? マンガに聴くクラシック 鈴木淳史
 二ノ宮知子の漫画〈のだめカンタービレ〉が、今月16日からフジテレビでドラマ化されるという。この漫画は、音大生が主人公のラブコメで、講談社漫画賞受賞、発行部数1300万部を突破、現在も連載が続いているヒット作、などという言葉で紹介されていることが多い。
 こういう案内を目にすると、漫画をバリバリ読む習慣がないわたしは、「どうせ、主人公の自己実現のためにクラシック音楽という小道具を使っただけのハヤリものだろ」などとクールなヒネクレ目線で眺めがちになるのだが、今回は事情が違った。
 なかなか読ませるのである。クラシック音楽が小道具レベルで登場するのではなく、もっと根本的な次元に迫る勢いがあり、しかも、うるさ型のクラシック音楽ファンをも納得させるような、ディティールの細かさ(*1)だってある。
 もしも、クラシック音楽が聴きたいと思う人がいれば、名曲のサワリだけを集めたCDを聴くよりも、この漫画を読んだほうが、ずっと幸せな出会いができるのではないかというような気もする。こういうことを軽々とできてしまうこの漫画、いや漫画というジャンルに、わたしのような文筆の徒はもっと大っぴらに嫉妬すべきではないかとさえ思われるのである。
 音楽を音楽以外で描写することはむずかしい。そこでは、実際に鳴っていない音をあたかもそこで響いているかのように、受け手に伝えなければならない。
 原初的な方法では、「タラララーン」などというように、旋律やリズムを擬音にして書き込むというものがある。わかりやすいといえば、わかりやすい。ただし、その音楽が異様に安っぽく「聴こえて」しまうのも事実である。もちろん、その音楽がチープであることを積極的に伝えたいならば、絶大な効果がある。
 次の段階は抽象化である。音符を書き込んで、そこに音楽があることを示すというものだ。「ラ・シシシ・ミーレ」といった音階で示すのも同じだ。擬音で描くよりも洗練された印象はあるものの、一般的に流布している記号で表してしまったという安直さからは逃れられない。
 これらの擬音や音符を音楽の代替記号として用いた場合、オーケストラのような同時に異質な音が鳴る場面では、かなりやかましい書き込みになることは必至である。しかも、音というものはそれほど分離して聞こえないものだし。
 あるいは、音楽を完全に言語化してしまう方法もある。楽曲解説などで「第1楽章の21小節、チェロによる冒頭の主題呈示が一段落したところでヴァイオリンと木管がユニゾンで第1主題を歌い出す」などというもので、これも一種の抽象化ともいえる。ただ、これを漫画というジャンルでやると、かなり説明的で、小うるさいシーンになることは間違いない。
 これらの音楽の描き方は、〈のだめカンタービレ〉ではほとんど採用されていない。主人公たちが通う音楽大学の校舎から、音符マークが宙を飛ぶように描かれていたりはするけれども、これは「ここは音楽大学だから、日常的に音が鳴らされている」という状況説明にすぎない。擬音や音符が演奏会のシーンに用いられることは、まずないのである(*2)。
 では、〈のだめカンタービレ〉はどのような方法で、音楽を描くのか。
 それは、絵で表現される。まず、背景のトーンの変化によって、どのような音色がそこにあるのか示される。コマとコマにまたがる風のような線は音楽の流れを示し、コマには花や鳥の羽などが描かれることもある。つまり、音は比喩的に表現されているといっていい。
 これは、印象批評と一般的に呼ばれている方法に近い。「ロマネコンティを想起させる芳香さ」「阿修羅のごとき演奏」「ジダンのパスのようにクール」のような比喩表現がたっぷりと用いられた文章を思い出して欲しい。
 しかし、これらの言語表現は押しつけがましいところがある。「オレがこう感じた」などといった、オレオレ度が高い表現である。もちろん、批評とは本来オレオレでなくては意味がないジャンルなのだが、たとえ理に適っていたとしても、オレオレが忌避される「平等社会」日本では、そのやりすぎは間違いなく敬遠される傾向にある。
 しかし、それが絵という視覚表現で表されると、たとえ印象批評的な要素がたんまりと入っていても、オレオレ度は減少する。背景のトーンはあくまでも抽象的にアピールするし、そこに描かれた具体的な図柄も言葉ほどにはモノゴトを明確に指示しない。作者が描こうとする世界を読み手に伝えつつも、押しつけがましくなることはないのだ。とくに、音色のニュアンスを伝えるには、言葉の強さは仇になる。
 たとえば、〈のだめカンタービレ〉に出てくる音楽評論家・大川総太郎は、新聞にこのような批評を書く。
 「ライジング・スター・オーケストラ。/ひとりの指揮者のもとに結集した/煌めく新星たちよ。/あおぎ見る天に輝く希望の星たちよ。/我らを、はるか彼方 宇宙へと連れ去りたまえ。/情熱的に激動するシューマン。/静謐な官能がゆらめくモーツアルト。/絶望から歓喜へと奮い立つブラームス。/君らの奏でる音楽は神々への黄昏を/切ないまでの希望へと変える。」(第42話)
 楽壇の大御所といった風情の評論家がこのようなオレオレなポエム批評を新聞に載せるという、ありえなさにクラクラきてしまうが(*3)、これは言語による印象批評を戯画化しているといってもいいだろう。つまり、言葉の世界ではこれだけしかできないものを、漫画ではもっと豊潤に表現できるんよ、という漫画家の勝利宣言だ。
 そして、なによりも〈のだめカンタービレ〉の音楽がリアルなのは、そこに違う時間が流れるという点にある。
  この作品のコンサートなどの演奏シーンでは、極端にあらゆる言葉が切り詰められ、静謐な時間がそこには流れる。擬音や音符が小うるさくその存在を示していないから、まるで真空地帯に迷い込んだような心地がする。
 〈のだめカンタービレ〉は、コメディとして作られている。一般的に演奏家という種族は濃いキャラクターの人が多く、彼らが集まれば、その場は必然的にドタバタなコメディになってしまうものだ。俺様野郎と不思議チャンによる漫才風駆け引きは、妙にリアリティがあったりするわけである。
 そんな彼らも、音楽を演奏しているあいだだけは、何かに心を奪われるように、あるいは何かに憑依されたように、別人になる。この漫画でも、音楽が奏でられるシーンと、そうでないシーンとのギャップが激しく描かれている。非日常と日常がハッキリと切り離されるのである。 まるで、弛緩と緊張の絶え間ない交代を特徴とするクラシック音楽そのもののように。
  時間芸術と呼ばれる音楽は、時間の感覚を狂わせる芸術である。先日、ダニエル・ハーディング(*4)がマーラー・チェンバー・オーケストラを指揮したモーツァルトの交響曲の演奏を聴きに行ったのだが、終演後は時差ボケにかかったように、現実の時間と感覚の時間のすり合わせがつかなくなった。
 ハーディングのマニエリスティックな演奏にクラクラしているうちに、すっかり体内時計を狂わせられたらしい。モーツァルトの後期三大交響曲という統一感が強いプログラム??同じ作曲家の思考を時系列に辿ることができる??だったことも無関係ではないが、すばらしい演奏会ではいつもこのようなことが起きる。時間は静止したようにも感じられると同時に、逆行もし、そしてはるか前方に進んで行ってもしまう。つまり、時間という感覚が失われてしまうのだ。
 その時間が失われてしまったシーンに、この漫画の作者は、登場人物のシリアスな心情を描くことにも成功している。普段はおちゃらけたり、あまり本音を吐かない主人公たちが、演奏のシーンになると急にシリアスになり、または素直に感情を吐露したりする。これらを、音楽は演奏者のすべてを表現してしまう、などとまとめれば至極ありきたりな表現になろう。この時間が失われたような演奏シーンによって、登場人物のキャラクターに深みを、そしてそこで響いている音楽に意味を与えることに、この作品は成功しているのではないだろうか。
 少なくとも、わたしは、この作品の弛緩と緊張の絶え間ない交代が心地よい。時間が消えてしまう表現にうっとりする。まるで、〈キャプテン翼〉が、一試合を描くのに何話も使ったように(90分の試合を雑誌連載で読むと何ヶ月もかかってしまうのである)。
 ただし、もうすぐ放送されるテレビドラマでは、そうした〈のだめカンタービレ〉の美点が発揮されるのか、ちょっと疑問がある。
 映像では、音楽を再現することができる。実際のオーケストラを使って、演奏会のシーンが作れてしまうのだ。だから、千秋真一がウィルトール交響楽団を振って、いかに「哲学的に重厚」な音楽をやろうとしても、出演している奏者たちにそういう音楽ができなければ、まったく原作者の作り出す世界は作ることができないのである。それでは、物語にリアリティが生まれてこない。残酷なことに。
 原作のイメージに合うように、徹底的にオーケストラを鍛え上げる、なんてことは、予算も時間もテレビ局の範疇を超える夢物語である。国家予算をつぎ込んで、何年がかりでやっても成功するとは限らないのが、この世界の常識だからだ。
 それよりも、原作者が漫画から音楽を立ち昇らせたように、ドラマであっても具体的に音楽を鳴らす必要はないのだ。受け手がそこに音楽が感じられれば。そういう工夫が無いのなら、ドラマ版〈のだめカンタービレ〉からは、一切の音楽も聴こえてこず、したがって、すべてのストーリーさえ成り立たない。
 いやいや、こんな懸念するフリをしても虚しいだけだ。フジテレビのことだから、歌舞伎や浮世絵のリアリティで、この漫画をキッチリ、ドメスティックにドラマ化してくれるに違いない。その手法にこそ、期待しよう。なにしろ、竹中直人がヘンテコなカツラをつけて世界的指揮者フランツ・フォン・シュトレーゼマンを演じるというのだから(*5)。

*1……公立音大の管楽器専攻ならともかく、桐朋や武蔵野をモデルにしたと思われる私立音大に、地元商店街の食堂の息子がフツーに在学しているという「格差社会の隠蔽」や、楽譜を数回見ただけで難曲を暗譜で弾くという「通俗伝説」をそのまま採用するなど、不備が多いやん、と演奏家の方が講釈たれていたのを聞いたことがあります。とはいえ、彼もこの漫画を充分に楽しんでいたようでした。

*2……すべてのモノゴトには、例外があるものです。たとえば、第26話(単行本第5巻)、シュトレーゼマンの指揮で千秋がラフマニノフのピアノ協奏曲第2番を弾くシーンで、ピアノ譜の和音と共に「チャーン・ダーン」という擬音がコマに描かれている箇所があります。作者は、この冒頭の音の存在をどうしても表現したかったのでしょう。それが合図となって、聴衆が音楽に引き込まれるといった演出がなされているようにも思えます。

*3……クラシック音楽批評の一つの典型の誇張、というのなら、決して「ありえない」わけではありませんが、モノゴトには限度というものもありまして、これでは批評家があまりにもかわいそうです。というよりも、そもそも世間的には批評家というものはこういう文章を書く輩であると、一般的に捉えられているのかもしれません。自業自得ともいえないこともないのが、また悲しみを誘います。

*4……英国生まれの若手指揮者であり、マンチェスター・ユナイテッドの熱心なサポーター。20代の頃から世界中を股に掛け、早熟の天才といわれていましたが、カーテンコールではいつもブツブツと独り言を言っています。

*5……今回のドラマでは、キャスティングを見る限り、主人公たちがパリへ活動の場を移す「海外編」は取り上げられないようです。次回作では、カツラでインチキ西洋人に扮した役者が続々登場、オール国内ロケによる「海外編」を放映していただくことを切に望みます。

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