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世界はこんなふうにも眺められる 保坂和志
第19回 70年代の2人の小説家
 70年代、日本の文学はどうだったのか?
 私は69年中学入学、72年高校入学、75年大学入学なので、まずはそれを前提として読んでもらいたい。しかも中学のあいだ私は本というものをほとんど読まなかった。
 子どもにとって世界は家庭と学校だけで、社会は世界に含まれない、というか世界の外にある。家庭と学校は基本的に価値観が一緒で、勉強していい成績をとって、勉強にさしつかえない程度に遊ぶ。子どもはそういう閉じられた世界の中で充足していて難しいことは考えないわけだが、私の場合、中学2年の秋にロックを聴くようになってから、世界の扉が開かれた。
 ロックを聴くためにロック雑誌を買うようになったり、新曲を聴くためにラジオを聴くようになったりして、家庭と学校だけで充足していた世界がどんどん小さなものに思えてくるようになった。私にとって読書は完全にその延長としてやってきた。
 読書経験なしにほとんどいきなり、安部公房、大江健三郎、開高健という現代作家を読み出したと言っていい。定番作家として、夏目漱石、森鴎外、芥川龍之介、太宰治を読んでいる同級生もいたけれど、夏目漱石はあまりにオーソドックスで教科書的というか学校的というか、そこに自分が求めているものがあるとは思わなかった。それでも『坊っちゃん』以外に唯一読んだ『こころ』はとてもおもしろかったけれど、大江健三郎を読むときに感じるザラザラして気持ちが沸き立つようなものはなかった。
 最初に大江健三郎の何を読んだか憶えていないが(たぶん『飼育』の入っている文庫だと思う)、『芽むしり仔撃ち』を読んだときには本当にぶっとんだ。

 「夜更けに仲間の少年の二人が脱走したので、夜明けになっても僕らは出発しなかった。そして僕らは、夜のあいだに乾かなかった草色の硬い外套を淡い朝の陽に干したり、低い生垣の向うの舗道、その向う、無花果(いちじく)の数本の向うの代赭色の川を見たりして時間をすごした。前日の猛だけしい雨が舗道をひびわれさせ、その鋭く切れたひびのあいだを清冽な水が流れ、川は雨水とそれに融かされた雪、決壊した貯水池からの水で増水し、激しい音をたてて盛りあがり、犬や猫、鼠などの死骸をすばらしい早さで運び去って行った。」

 という冒頭から私はレッド・ツェッペリンの『胸いっぱいの愛を (Whole Lotta Love) 』のあのイントロを聴いて、いても立ってもいられなくなるときのような気分になった。
 さっき私は夏目漱石のところで、「そこに自分が求めているものがあるとは思わなかった」と書いた。それが何なのかと訊かれたら当時の私は答えられない。そのとき大人が登場して、
 「ほら、言葉にできないだろう? おまえが求めていると思っているものは幻想なんだよ。そんなものは本当はどこにもないんだよ。」
 と言われたら、私は返す言葉がなかっただろう。しかし「求めているもの」は言葉であらわすようなものではなかったのだ。ロックを聴いて体の中で何かが騒ぎ出す状態。それこそがまさに「求めているもの」の答えだったのだ。
 20世紀は2つの大きな暴力を経験したというのはよく言われることだけれど、その暴力が日本の戦国時代やヨーロッパ東部へのモンゴル人やタタール人の襲来よりひどくなかったかどうかはきっと断言できないところで、20世紀が生んだ暴力が音楽や美術を静謐なものから騒音的なものに変えたというような単純なことではないのだろうが、とにかく20世紀に入って音楽も美術も整然としたものから破調的・破壊的なものに変わっていった。
 大江健三郎の文章はそのような整然としたものの否定とじつに見事に響き合っていると、今あらためて思う。整然としたものの否定ということにおいてこの文章と双璧なのは小島信夫の文章ぐらいしか私には考えられないが、70年代前半の高校生にとって小島信夫という名前は、文学史年表にだけ書かれた忘れられた作家のように遠く、しかもくすんで見えていた。
 大江健三郎の文庫本のおしまいのページに書かれた初出誌によって、私は「文学界」「新潮」「群像」という純文学を専門に掲載している雑誌があることを知ったのだが、そういう雑誌を実際に手に取って、目次を開いてみると、そこには古臭いような名前しか並んでいなかった。
 それはもちろん、大江健三郎、開高健、安部公房の他にも高校生に読まれていた現代作家はいないわけではなかった。何しろ今から30年以上前のことだから、若い人たちには文学史上の遠い名前としか思われないような人たちが実際にまだ生きていた。小林秀雄、大岡昇平、武田泰淳、遠藤周作、吉行淳之介、福永武彦、辻邦生、倉橋由美子、深沢七郎……等々。しかし、文芸誌の目次にこういう名前があったとしても、文芸誌は全体として圧倒的にうっとうしいオーラを放っていた(「オーラ」という言葉は当時は知られていなかったけれど)。
 「文学の危機」とか「純文学の危機」とか「文学は死んだ」とか、そういうことは80年代からずうっと言われているが、文芸誌を手に取った高校生の気持ちとしては、「こんなの早く死んじまえ」みたいなものだったのだ。
 しかし全体のイメージとしてはそうだったとしても、個別には全然そんなことはなく、開高健の『輝ける闇』『夏の闇』、安部公房の『箱男』、大江健三郎の『洪水はわが魂に及び』を私は本当に興奮して読んだ。
 が、ここまでは純文学の話だ。
 70年代の日本文学というときに忘れてはいけない作家が2人いる。その2人は純文学の外、当時の言葉としては「大衆小説」ないし「中間小説」として括られていたが、2人ともそんなジャンル分けを蹴散らすように1人で1ジャンルだったと言っても言い過ぎにはならないと思う。
野坂昭如と筒井康隆だ。
 私は高校生で野坂昭如を読み、大学になって筒井康隆を読むようになったのだが、世間の趨勢もだいたいのところそうだったのではないだろうか。だいたいの記憶とカンで書くと、60年代末から70年代の前3分の1くらいが野坂昭如で、70年代半ばから終わりまでが筒井康隆だったのではないかと思う。
 つまりそれぞれ数年ずつということにしかならないけれど “1人1ジャンル” で純文学全体と対抗できるようなパワーが数年以上つづくはずがない。しかし、60年代末から70年代という時代にあって数年間というのは十分な長さだったと思う。
 一時期の「野坂」と「筒井」を高校生・大学生は次々に読んでいった。私たちは「野坂」「筒井」と名字で呼び捨てにしていたわけだが、それは親近感の表現だったのだろう。「漱石」「鴎外」など名字を省略する日本文学とは違うんだという気持ちのあらわれだったのかもしれない(最初に名字の呼び捨てになったのは三島由紀夫だろうか?)。
 野坂昭如と筒井康隆が次々に読まれた理由はなんだったのか? 最大の理由は荒唐無稽さだったのではないかと思う。
 今回私は野坂昭如の中で一番好きだった『騒動師たち』が岩波現代文庫から復刊されたので読み直してみた。60年代末の社会風俗がしっかり書かれているし、当時のニオイや体温みたいなものがしっかり伝わってくる(といっても私も中学生でそれにナマに触れたわけでは全然ないが)。しかもかなり綿密な取材や資料調査もされているから野坂昭如の作品を荒唐無稽と言うと反論が返ってくるかもしれないが、話としてはメチャクチャなのだ。しかしそのメチャクチャぶりが現実社会と全然無縁な妄想や作り事ではない。
 なんと言ったらいいんだろうか。いま、小説に社会的要素を入れるとすると犯罪ぐらいしか思いつかない。吉田修一の『悪人』でも桐野夏生の『メタボラ』でも何でもいいが、社会的要素=犯罪が小説に入ってくる場合、それは理詰めか理詰めの裏返しとしての因果関係の破綻か、とにかく息苦しい。解放感がない。それは人々の中にあるエネルギーが個人個人、1人1人という枠の中に閉じ込められて、連帯して集団のエネルギーにはなりようがない、という認識というか諦念を前提としている。
 もし革命に向かってズンズン進んでいく話を作りたいと思ったら、日本ではない架空の国を作るしかないだろうが、それではファンタジーにしかならない。もう少しリアルな設定で集団のエネルギーを設定すると、そのエネルギーは個人の場合と同様、 “負のエネルギー” に転換して、オウム真理教のようなものになってしまうだろう。
 となると、オウム真理教からインスピレーションを得たとされている『燃えあがる緑の木』を書いた大江健三郎を連想してしまうわけだが(ただし、この小説を私は未読なので違っていたらすいません)、67年の時点で『万延元年のフットボール』という、暴力による社会改革に対して、「それは違うんじゃないか」というメッセージともとれる小説を書いた大江健三郎はやっぱりすごかったと思う。『万延元年のフットボール』という小説は全編が激流か濁流のようで、暴力の抗いがたさを提示しているから暴力の否定とは感じにくいのだが、メッセージ(意味)の部分だけ抜き出すならそういうことになるんじゃないだろうか。
 そこに大江健三郎の何重にも内に折りたたまれた妄想ともとられかねないパトスとか倫理というようなものがあって、そういう面を思うと私は大江健三郎をやっぱりドストエフスキーとかフォークナーとかの名前に連なるに値する世界的な小説家だと思うのだが、『騒動師たち』のメチャクチャさは同じ日本社会の中で読まれるもう一方の極としてやっぱり求められていたんじゃないかと思う。というか、あの当時、荒唐無稽であることはリアルだったのだ。
 69年に東大安田講堂が落ちてもまだ人々は革命の夢を捨てていなかった。馬鹿と言われるかもしれないが、75年に大学に入学するときにまだ私はいつか革命が起こると心のどこかで思っていた。「いつ」「誰が」「どういう風に」革命をするか、なんてそんな具体的な項目はすべて空白だったけれど、それでもやっぱり革命にはリアリティがあったのだ。「リアリティがあった」なんて断定は今から見ると全然リアリティがないのだが、革命なんてものは自民党政権がどうでこうで、学生と労働者の数が人口に対して何割でという現実の分析からはじまるような現実追認型の思考法でない別のところに発想の根を持った思考法によって生まれる突然変異のようなものとして、思考の別の領域の中でリアリティがあったのだ。
 別の言い方をすれば、まともに考えたら70年代の日本で革命なんて起こるはずがない。しかしその「まともに考えたら」の「まとも」というのはどういうことなのか。たとえば「岸和田だんじり祭」とか「博多山笠」とか「三社祭」のようなお祭りの最中に、
 「このお祭りがあと1週間も2週間もつづいてほしいなあ。」
 と言ったときに、
 「何日もつづかないのがお祭りのいいところなんだよ。」
 と言うこと。あるいは、
 「このお祭りのパワーがこのまま革命にならないかなあ!」
 と言ったときに、
 「お祭りっていうのは所詮、支配者が民衆という弱者に許した期限つきのガス抜きなんだよ。」
 と言うこと。「まとも」とはそういう思考法で “分別” とも言う。
 それは、昨日までありえなかったことは今日もありえないし明日もありえないとする、事実のあてはめでしかなく、そんなものは本当の思考とは言わないのではないか。本当の思考というのは、昨日までありえなかったことが明日ありうるようにするためには、昨日までの考えが何を見過ごしていたかを発見することではないのか。昨日まで見過ごしていたことが発見できるということは思考の様態が変わっているということだ。
 私のこういう考えにリアリティを感じたり、自分の考えと響き合うと思ったりした人は、70年代に生きていたら「革命がいつか起こる」ということにあるリアルさを感じていただろう。
 野坂昭如と筒井康隆という2人は、そういうことにリアリティを感じている社会の中で、高校生や大学生たちから熱烈に支持されていたのだ。分別あるまともな思考では、荒唐無稽なことは「リアリティがない」と切り捨てるけれど、リアリティがなければ荒唐無稽なことだって成立しない。荒唐無稽なことは分別のはるか上空を駆け抜けるロジックとリアリティを持っている。野坂昭如と筒井康隆が支持された70年代というのは、そういう思考法が生きていた時代だった。
 中国文化大革命の時代に毛沢東のもと、 “造反有理” というスローガンがあり、70年代の大学キャンパスにはこの言葉があちこちに落書きされていた。 “造反有理” とは「叛乱には理がある」という意味だが、野坂昭如と筒井康隆に対する支持は、さしずめ“荒唐無稽有理”だったのだ。

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