Web草思
世界はこんなふうにも眺められる 保坂和志
第18回 70年代喫煙事情
 先日、高田馬場にある早稲田松竹に行った。20何年ぶり、ほとんど30年ぶりにあの映画館に入ったと言っても大げさではない。“三番館”のあの早稲田松竹の変わりように驚いた。と言っても、私の記憶は、新宿昭和館だの大井武蔵野館だの、東京中のあちこちにあった“三番館”の記憶がいろいろ混じり合っているのだが。
 映画はまずロードショーで公開され、次に地方都市などいろいろな町にある映画館で半年遅れぐらいで公開される。これが“二番館”。そして最後に、公開された時期に関係なく何年たってもある程度の客が集められると評価された映画が、早稲田松竹などでくり返し上映される。だから“三番館”で、これらは“名画座”とも言われた。
 70年代後半、三番館の入場料はだいたい500円くらいだったから、
 「夕方の待ち合わせまで2時間空いちゃったから、ちょっと映画でも観て時間つぶしするか。」
 という感じで気楽に入っていた(映画は上映途中に入場するのが普通だったのだ)。今は三番館の早稲田松竹でも一般1300円する。もっとも70年代の500円と今の1300円では、今の1300円がバカ高いとは言えないはずだし、まして金がない学生時代の私の500円と今の私の1300円では可処分所得に対する比率としては今の1300円のほうがずっと低いはずなのに、
 「1300円かよ。高いな。」
 と感じてしまうのだから、不思議というか、せこいというか、映画は不利だというか。
 早稲田松竹に入って、まず内装がきれいになったことに驚いた。ここで私のあちこちの三番館の記憶が混じり込んでしまうのだが、早稲田松竹の床は外から地続きのようなコンクリートではなかったか? コンクリートの床で場内が空いていたりしたら、ポツリポツリといる客が煙草を吸いながら映画を観て、吸い終わった煙草はコンクリートの床に落して靴でもみ消す。
 そんなことを考えていたら、70年代の喫煙事情が次々に頭に浮かんできた。
 まず駅はどこも全面的に喫煙可だった。地下鉄の駅も喫煙制限はなかった。朝7時から9時までのラッシュ時の禁煙タイムがはじまったのは、たしか1980年くらいで、その禁煙だって最初の何年かは守る人なんかいなかった。そして吸い終わったら足許に捨てて靴でもみ消す。
 電車も長距離はすべて喫煙可だったが、そこにはローカル・ルールがあった。東海道線、高崎線、常磐線など、長距離でありながら同時に通勤にも使われる電車のことを「近郊電車」とか呼んでいたと思うが、私の知っている東海道線を例にとると、70年代には東京~平塚間が通勤区間とされていて、その区間に限り1日中禁煙。平塚より先になると1日中喫煙可。
 横須賀線は長距離ではないので1日中禁煙だったが、土・日など、夜の9時頃に空いていたりしたら煙草を吸っていても文句を言う人はいなかった。
 ちょっと関係なさそうな話だが、横須賀線では70年代前半まで車内で授乳している人をたまに見た。つまり赤ん坊を抱いたお母さんが人前で乳房を出して赤ん坊におっぱいを飲ませていた。60年代では授乳の光景はもっと普通だったはずだ。地方のローカル線などでは70年代でもけっこう普通だったと言われている。
 話のついでに、70年くらいまでは女性のノースリーブの腋毛も珍しくなかった。腋毛が主流だったわけではないが、2~3割ぐらいは若い人でもノースリーブで腋毛を生やしていた(が、すでに「ちょっと……」という目で見られていたように記憶する)。性に目覚めた男の子(私のことだ)としては、けっこううれしくて、ちょろちょろそっちばかり見てしまったものだ。
 ノースリーブの腋毛よりもっと珍しくなかったのは男の立ち小便だ。労務者風のオジサンが酔っぱらって駅のホームの隅で立ち小便をしている光景はわりと普通だった(ところで「労務者」というのは差別用語か死語なのだろうか? 今でいうところの「ガテン系」だ)。私が最後に見た駅のホームの派手な立ち小便は82年だったか、埼京線開通以前の池袋~赤羽間というわずか10数分の短い距離を結んでいた2両編成の赤羽線が始発駅の池袋に止まっていたときのこと、車輛には出発を待つ客がそこそこ乗っているのに、酔っぱらったオジサンがホームから車輛と車輛の繋ぎの隙間に、ジャージャー。
 居合わせた人たちはさすがにあきれ顔だったが、私がその話をすると、
 「赤羽線だったらあるよ。」
 と、みんな答えたものだった。
 授乳、腋毛、立ち小便と、喫煙事情からどんどん離れてしまったが、70年代のあいだになくなっていったものが、性と排泄なのは必然なのか、たんに私の趣味で、もっといっぱいなくなったものがあるのに私がそっち方面ばかり記憶しているのか?
 もっとも70年代になくて今はあるものだってある。車内や街中での恋人同士のキス、車内での若い女の子の化粧、コンビニの前にべったり座り込んでする飲み食い。
 90年代あたりから、「公共の場がプライベート空間化してきた」というようなことが言われるようになったが、こうして両者を並べてみると、日本人には“公共の場”という意識が定着したことなんか一度もなかったんじゃないかと思えてくる。これらの行動はすべて日本人の“文化”なんじゃないだろうか。
 昭和20年代つまり戦後数年間の横須賀線にはもっと極端な話がある。夜の通勤帰りの時間帯の横須賀線の一番後ろの車輛が毎晩酒盛り車輛になっていたというのだ。夜のすべての電車でそうだったのか、本当に毎晩そうだったのか、正確なところはわからないが、コンビニの前に座り込んで飲み食いするのより上なのは間違いない。が、時代・社会が違えば普通(?)の会社員がそういうことをしていた。――とはいえ、一番後ろの車輛に集まった人たちは他の車輛に乗っていた人たちとはすでに違っていたわけだけれど。
 喫煙事情にもどろう。
 私は早稲田大学だったが、授業時間以外は教室内の喫煙は基本的にOKだった。このあたりのこととなると早稲田は何でもアリの大学だったから基準にはならないかもしれないが、授業時間になって先生が教室に入ってくるまでは喫煙OK。そしてここでもやっぱり吸い終わった煙草は床に捨てて靴でもみ消す。床が木ではなく石だったのだ。
 先生によっては授業中も煙草を吸っていた。
 ある日のこと、英語の先生が授業をしながら煙草に火をつけて、はっと気がついたような顔をした。
 「あれ? 言っていませんでしたっけ?
 私の授業は喫煙OKですから。
 私も吸いますから、みなさんも吸いたい人は吸ってください。」
 それで当然みんないっせいに煙草を吸いはじめたわけだけれど、今よりずっと喫煙率が高かったあのときに、教室の中の半数ちかくがプカプカ煙を出したんだから、気管が弱かった人にとって恐怖だったんじゃないかと思う。社会全体の風潮として、特に「禁煙」とされていないかぎり煙草は吸うものであり、そこで煙草を嫌がる人は気難しい人間として嫌われた。喫煙者として、ずいぶん迷惑をかけたものだと思う。
 しかしこれには複雑な思いもある。サラリーマン時代、隣り合わせの席で私の喫煙を忌み嫌っていた先輩社員の某氏がいたのだが、その人はすべてにおいて気難しくて狭量で偏狭な人だったのだ。しかしその某氏に対しても、今の基準で判断したら私には全然勝ち目がない。私の煙草の煙で不快な思いをした人たちに私は謝っていいと思っている。……が、彼にだけは謝りたくない。
 しかしそれにしても、どうして煙草だけがこんなにも悪者扱いされるようになってしまったのだろうか。煙草より先に、ファーストフードやスナック菓子やカップ麺の方こそ規制すべきではないのか。これは人から聞いた話だから確証はないのでいちおう都市伝説くらいに受け取っておいてほしいが、食物アレルギーの原因の一つは離乳食への早すぎる切り替えなのだそうだ。
 子どもがひどい食物アレルギーになってしまった知人がいろいろ調べていったら、離乳食への切り替え時期が世界の規準と比べて日本だけ早すぎることがわかった。そこで彼は厚生労働省に問い合わせたのだが、返ってきた答えは、
 「離乳食の業界への配慮。」
 だった。国民総健康志向に対するアリバイ作りとして煙草がスケープゴートにされているのではないだろうか。
 話を戻す。学校の職員室が喫煙可だったのは70年代どころか、つい最近までそうだったはずなのでわざわざ書くまでもないくらいだろう。
 私が小学生だった60年代後半、鎌倉の公立小学校では、授業中生徒に問題を解かせているあいだ先生は煙草を吸っていた。教室の隅に先生用の袖机があってそこに灰皿がいつも置いてあった。先生は給食の時間にも煙草を吸っていた。それが慣習というか文化だったから不思議に思う子どもなんか一人もいなかったはずだ。
 しかしさすがに、授業中に缶ピー、つまり缶に入った50本入りの両切りピースを生徒に買いにやらせていたのは、やりすぎだったと思うが、そういうことにしても子どもたちは疑問に思っていなかった(と思う)。
 だいたい缶ピーは叙勲のときに天皇が勲章と一緒に“恩賜の煙草”としてくれるものだったのだ。今はきっともう、そんなに「体に悪いもの」をくれたりしないだろうが、1983年頃、会社の先輩でお父さんが秋の叙勲の対象になった人がいて、叙勲の数日後、
 「俺は煙草吸わないからおまえ持ってけって、オヤジがくれちゃってさあ。
 ピースなんか吸わないだろうけど、話のタネに皆さんもどうぞ。」
 と言って、菊のご紋が煙草の一本一本に印刷されている両切りピースを持ってきた。平静を装いつつも彼が誇らしげだったことは言うまでもない。――と、ここまで書いてJT(日本たばこ産業)に問い合わせてみたら、缶ピーではなく「缶ピーによく似たオリジナルの煙草」だった、そうだ。
 というわけで、缶ピーが特別偉いわけではなかったが、嫌煙運動が勝利するまでは、ともかく煙草は社交に欠かせない小道具だったのだ。
 しかし同時に煙草には“力関係”がついてまわっていた。目上の人の前で煙草を吸うときには目下の人は、「吸ってもいいですか?」と訊くか、目上の人から「どうぞ」と言われるまでは煙草を我慢していなければならない。中国・台湾・韓国の映画を観ているとそれにちかいシーンが出てくる。社交の小道具であるということは、力関係の象徴にもなるということだ。
 しかし、アメリカやヨーロッパの映画でそういうシーンを見た憶えはない。特にアメリカ人は目下の人がポケットに手をつっこんだまま目上の人としゃべったりしているくらいで、社交と力関係は別物と考えているんじゃないだろうか。
 欧米と東アジアの慣習の違いを考えると、煙草の禁止が欧米ではたんに煙草の禁止に過ぎないことが、東アジアでは力関係を付随させてしまうことになる。煙草を許可したり禁止したりする人がこの社会では伝統的に目上なのだから。それが禁煙・嫌煙運動に対して喫煙者が不快感を持つ要因になっているんじゃないだろうか。
 「パパ、煙たいから煙草やめて。」
 という子ども=弱者の訴えから運動がはじまっていたら、喫煙者の感じ方はきっと違っていたのだ。
 弱者といえば、すでに信じない人がいるかもしれないが、病院・医院の待ち合い室も基本的にすべて喫煙可だった。病院・医院は80年代の前半から徐々に禁煙になっていった。つまり、風邪や気管支炎でゴホゴホ咳をしている人がいる同じ空間、それも待ち合い室という狭い空間で煙草を吸っている人がいた、ということだ。
 なんという矛盾! と思う人がいるだろうが、トーマス・マンの『魔の山』を読むと、結核のサナトリウムでみんな煙草を吸っている。
 「結核は不治の病だったから、好きにしていいということだった。」
 と解釈する人がいるが、そんなことではなかったんじゃないかと思う。『魔の山』の時代設定は第一次世界大戦の少し前、つまり20世紀初頭だが、その頃は煙草が肺に害があるとは考えられていなかったんじゃないかと思うのだ。
 内田百■(けん)が喫煙にまつわるエッセイで書いていたのだが、百■(けん)の子どもの頃は煙草は気管にいいとされていて、百■(けん)は気管が弱かったから4歳から吸っていた(!)というのだ。百■(けん)は1889年に生まれて1971年に死んだ。4歳から煙草を吸いはじめて、酒も毎日しっかり飲んで、死んだのが82歳。
 いや私は煙草の有害説に異を唱えるつもりはないので百■(けん)の享年はいい。百■(けん)は私がイメージするかぎり最もストレスの少ない人生を生きた人なので別格だ。煙草の害など超越している。
 今回は“現代”とか70年代とかをめぐるシリーズの中で最もどうでもいい内容になってしまったと思うのだが、70年代と今のことを考えるときに背景となる社会慣習や風俗が同じでないということは考えておく必要がある。あと10年もたてば、私の今回の文章は全編「ありえない!」「創作だ!」と言われるくらい貴重な記録、いや記憶になっているのではないかと思う。というわけで、忘れないうちに書いておくことにした。

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