Web草思
世界はこんなふうにも眺められる 保坂和志
第17回 60年代日本文学にとっての“現代”
 今回は、60年代70年代の日本文学について書く――と前回予告したのだが、考えてみると私はその時期の日本文学についてほとんど知らないのだった!
 私が中学生になったのは69年だ。早熟な読書少年だったらせっせと読んで1、2年後には同時代の作家を読むようになっていたかもしれないが、私は中学生のあいだ本なんてほとんど読んだことがなかった。
 中学3年の終わりくらいからようやく読むようになるのだが、そこで次に2つ目の困ったことが出てくる。70年代と今とでは読まれている作家が入れ替わりすぎてしまっていて、30歳以下の読者にとって、外国の作家たちの話よりも遠い話のように聞こえかねないのだ。
 もっとも前回のカフカとベケットにしても、この連載を読んでいる人の中で何割が読んでいるかと言ったら相当少ないと言わざるをえない。しかし、前回はいわば“原理的”なこと“理念的”なことだったから、実際に読んでいる人がいなくても、そんなことは関係なかったのだ。しかし、「60年代70年代の日本文学」つまり「日本文学にとって“現代”はどういう意味だったのか」という話になると“原理的”な話では済まされない。というか、
 「60年代70年代日本文学にとって、“現代”という概念は現代社会に言及するという意味しかもっていなかったのではないか?」
 という、原理なしの状況論みたいなことを一言書くだけで終わってしまうような気がするのだ。
 ここで読者の方は気がついただろうか? この世界には大きく分けて2つの文学観があるのだ。1つは、「文学とは言葉の闘いである」という文学観。もう1つは、「文学とは(現代)社会を写すものである」という文学観。
 前回のカフカとベケットは前者の「言葉との闘い」の文学観に基づいていて、基本的に私はこちらにしか関心がないのだ。
 が、いまだ一般には文学というものは後者の「社会を写す」ものだと思われている。たとえば芥川賞の選評でしょっちゅう出てくる「現代に生きる若い人たちの心のありようが見事に描かれている」という言葉もその一例だ。
 60年代はそういう文学の全盛期だった――70年代までが“政治の時代”だったということを思い出してほしい。埴谷雄高、武田泰淳、野間宏、大岡昇平など第一次戦後派といわれる作家たちが40代から50代という中心的な世代であったことは当然、社会性のある文学が全盛だったことの一因だったのだろうが、ヨーロッパ、アメリカという大きな広がりでみたときに、一番重要だったのは、ジャン=ポール・サルトル(1905-1980)がいたことだったと私は思う。
 サルトルは文学者(ないし哲学者)という枠をこえて社会的なスーパースターだった。これはもう今の社会では想像しにくいレベルと言っていい(と言っても私はそのおしまいのあたりをかろうじて知っているだけなのだが)。講演会はいつも聴衆であふれかえり、発言はすべてジャーナリズムを通じて世界に流れる。サルトルの人気を何に喩えればいいか? ビートルズが音楽の枠をこえて社会現象になったことぐらいしか、サルトルの人気ぶりと比較できるものはないのではないか。いやもう一人、キング牧師がアメリカにいた。それぐらいだろうか?
 日本にも三島由紀夫というスーパースターはいたが、サルトルの人気・注目度は三島由紀夫の比ではなく、ジャンルの枠をこえて知れ渡ったという意味では長嶋茂雄が最もちかかったのではないだろうか。しかし、それにしても、他に石原裕次郎とか高倉健とか美空ひばりとか、どれだけ有名人を並べていってみても日本では〈反体制〉の人がひとりも出てこない。
 反体制的な存在がサルトルやビートルズのように偶像視されてしまうことがいいことだと思っているわけではないが、学生全体に反体制の気運がみなぎっていた時代に、特に反体制ではない人にもその名が知れ渡るくらいの自前の反体制の有名人を1人も生み出すことができなかったのだから、60年代日本の反体制の広がりは、ヨーロッパ、アメリカと比べてかなり狭くて浅かったということにならざるをえないのだろうと思う。つまりそれだけの爆発的なエネルギーが60年代の日本社会には蓄積されていなかったということだろう。
 サルトルの著作は、小説(『嘔吐』『自由への道』等)だけでなく、哲学(『存在と無』等)、戯曲(『出口なし』『アルトナの幽閉者』等)、評論(『聖ジュネ』『シチュアシオン』のシリーズ等)と多岐に渡っているが、70年代にはほとんどの本が邦訳出版されていた。それが30年後の現在、入手可能なものはわずか数冊しかない。いや、「30年後」などと言わなくても、80年代には現在とたいして変わらない状態になっていたのではないかと思う。70年代までの“政治の時代”の終わりとともにサルトルも読まれなくなってしまったのだ。
 しかしサルトルが読まれなくなった理由は“政治の時代”が終わったことだけではないと私は思う。いまも入手可能な1冊『実存主義とは何か』という、実存主義をわかりやすく解説している本を読むとわかるが(と言っても私がそれを読んだのは高校3年のときで、わかりやすかったから今でも憶えているのだが、もしかしたら「わかりやすかった部分」だけを憶えているという可能性がないわけではない)、その解説の骨子としては、
 「ナイフなどの道具はあらかじめ決められたとおりのものにしかならないが、人間は自分の意志の力によって与えられた境遇を変えていくことができる。」
 ということだ。うーん、これじゃあサルトルにあんまりだと思うほど簡単なまとめ方で、やっぱり不安になってしまうが、ミシェル・フーコーが1966年に出版した『言葉と物』の終わりで「人間(という概念)はいずれ消滅する運命にある」という意味のことを書いたのに対して、サルトルが激しく反発したというエピソードは彼のヒューマニズムを物語っている。
 そういえば「ヒューマニズム」という言葉も最近ではあんまり口にされなくなったからわからない人がいるかもしれない。本来はそのものずばり「人間主義」、つまり「この世界は神のためにあるのではなく人間のためにある」というルネッサンス期に生まれた思想らしいのだが、一般には「人間性の重視」とか「人間の可能性を信じる」という程度の意味で使われていた。サルトルが定義した“実存主義”の概念も大枠としてはこの線だ。そして、この思想が“政治の時代”にマッチしたということもひじょうによくわかる。
 「人間とは自分自身に対して主体的かつ能動的に関わることができる」と考える人が、政治に対して主体的・能動的に関わる、というのはとてもわかりやすい。
 それに対してフーコーの構造主義の考え方は、人間の主体性・能動性を否定する。たとえば「人間は言葉をしゃべっているのではなく、言葉にしゃべらされている」「人間は制度に対して能動的な立場にあるのでなく、制度に対して受動的な立場に置かれる」というようなことだ(これが前回のカフカとベケットに繋がる)。しかし、「制度に対して受動的な立場に置かれる」と考えるからと言って、フーコーが体制支持者だったわけではまったくないし、事実としても構造主義の本もまた左翼学生に熱心に読まれたということは確認しておきたい。
 ついでに言っておくと、サルトルによる「人間の主体性の肯定」という実存主義の定義はかなり特殊で、実存主義として分類されていたニーチェにもハイデガーにもそのような楽観的な人間肯定思想は書かれていない。だから80年代以後もニーチェとハイデガーは読まれつづけているのに対して、サルトルがぱったり読まれなくなったのだと思う。実存主義という言葉も60年代から70年代半ばまではものすごく流行していたが、70年代後半からぱったり聞かなくなってしまった。が、90年代の終わりくらいから若い人のあいだで“実存”という言葉が口にされるようになったらしい。言葉というのは自分でも少しは口にするようにならないと意味がわからないようにできていて、私は“実存”という言葉をたまに読んだり聞いたりすることはあっても自分では言わないからよくわからないのだが(ここでも「人間は言葉にしゃべらされている」ということが証明されている。言葉というのは意味を理解してから使うのではなく、ろくにわからずに使っているうちに意味がちゃんとわかるようになるものなのだ)、90年代末からの“実存”はどうも「自分が存在していることのリアリティ(またはそれを求めること)」というような意味らしい。
 さて、サルトルを日本で最も熱心に読んだ作家が大江健三郎だ。60年代70年代を代表する作家でいまでも本がふつうに流通している作家というと大江健三郎と安部公房と三島由紀夫、それから評論の小林秀雄ぐらいしかいないのではないか。
 といっても、私自身は三島由紀夫が嫌いで、小林秀雄は関心を持ったことがないからよくわからない。しかし事実としては、三島由紀夫と小林秀雄が今後30年ぐらいは読まれつづけるポジションにあることは認めなければならない。「読まれつづける」ということは、「その人に影響を受けた作家・評論家が生まれつづける」ということだ。
 三島由紀夫の人間観は明晰で雄々しいものとしか私には思えず、カフカとベケットを心の底からおもしろいと思って読む観点からみると劇画的な感じがしてしまう。三島由紀夫が東大で左翼学生と討論している映像を見たことがあるが、主張が明快で、文学者という感じではなかった。が、当時の左翼学生たちのあいだで人気がなかったら彼が学生との討論に呼ばれることはなかったわけで、三島由紀夫の読者層の幅広さを証明している。三島由紀夫がサルトルのような反体制の作家だったら、左翼学生たちはどんなに幸せだっただろう! などということまで書いてしまったら、歴史の歪曲になってしまうのだろう。しかし、三島由紀夫は三島由紀夫で社会を変えたいと考えたから「楯の会」を結成したわけで、「変えたい」という能動的な意志のあり方においては、左翼学生と三島由紀夫は通じ合うものがある。
 話を大江健三郎に戻す。
 サルトルは文学者の政治参加(アンガージュマン)を訴えた。大江健三郎は純粋な小説家としてサルトルから影響を受けたと同時に、政治参加する文学者という生き方の影響も受け、『ヒロシマ・ノート』『沖縄ノート』をはじめとするたくさんの政治的発言のエッセイを60年代から70年代前半にかけて書いている。
 このように三島由紀夫と大江健三郎の2人を並べてみると、やはり60年代においては、部屋にこもって小説を書くだけでなく社会に出て政治と関係を持つことが、なんというか“望ましい文学者像”だったことがわかる。
 パリ五月革命が起きた年であると同時にキング牧師が暗殺された年でもある1968年という年で計算してみると、三島由紀夫は43歳で大江健三郎は33歳。日本文学で最も注目されていた作家の中の2人の年齢が33歳と43歳だったのだから、社会としての若さを感じる。
 とはいえ、注目されていた作家全員が政治的発言をしたわけではない。安部公房は直接政治に関わるようなことはなかったと思う。しかし、安部公房の作品が、ソ連、東欧圏のつまり社会主義国家で60年代あたりから現在にいたるまで広く読まれていることは注目に値する。
 社会主義体制下の人間存在の不条理さが安部公房作品の世界と激しく響きあうところがあったということなのだ。日本人が読むと政治に関係ないとしか思えない文学も、それを受け入れる社会環境が違っていればじゅうぶんに政治的な文学になるということをこの現象は示している。
 しかし、こうして60年代の日本文学と政治との関わりを書いてみると、これら以外にもいろいろなことを書くことができるだろうな、とあらためて思うものの、それが“文学として”現在に影響を及ぼしているのかと言うと、私にはあるようには思えない。……のだが、70年代から80年代へと至るどこかで、ある、大きな転換が起こったのではないか? という気持ちになってきた。
 現代音楽にしても現代美術にしても、文学における「言葉」に相当する“語法”――音楽の調性や絵画の遠近法など――とだけ闘ったのではなく、芸術のすべての分野が政治・社会・制度との闘いをしていたことは間違いない。それが70年代から80年代へといたるどこかで、「社会との闘い」が切り捨てられて、「言葉との闘い」だけが“現代”であるかのように変わってしまったのだ。
 ……しかし、「社会との闘い」はあくまでも“闘い”であって、「社会を写す」のではない。私はどうやら最初の問題設定の段階で混乱していて、それをずうっと引きずってしまったみたいだ。「言葉(=小説)が社会を写す」という言語観(小説観)は素朴すぎる。これは間違いない。しかし、「『言葉とは、発言者(書き手)の立場に影響されない透明な伝達手段である』という言語観が、そもそも支配者が作り出した幻想である」と考えてみれば、「言葉との闘い」はそのまま「社会との闘い」になる。私はそういう観点から考えるべきだったのだ。
 次回は、今回のやり直しをすることになるかもしれない。

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