いま書かれたり作られたりするもののすべてが“現代”でないことは言うまでもなく、韓流ドラマなんかは時代でいったら「現代」の作品だが、手法も内容も思いっきり古くさい。しかし韓流ドラマの監督のインタビューをこの前テレビで見たら、彼には「古くさい」という意識がどうもないみたいなのだ。彼は演出やカメラの手法として「これこそがすばらしいドラマを作る手法である」と信じているみたいだし、ドラマの内容も「不滅のテーマであるがゆえに現代的だ」と思っているみたいだった(「不滅」というのはいつも怪しい)。
古くささというのは、作り手がその古くささを自覚していないことが最大の原因になる。しかし韓流ドラマが多くの視聴者の支持を得るということは、多くの視聴者にとって“現代性”などというものがまったく求められていないことを意味しているのだと思う。日本の多くの視聴者はドラマが発達したり進化したりすることなど望んでいず、60年代から70年代前半くらいまでの大げさなドラマが一番おもしろいと今でも思っている。だから国産のドラマの方も『白い巨塔』や『華麗なる一族』など60年代ドラマのリメイクを始め、実際それがヒットすることになった。
これが「現代」の現象ではあっても、現代音楽の“現代”ではないことは言うまでもない。ついでに言えば、『白い巨塔』や『華麗なる一族』はそれが小説として書かれ、テレビドラマや映画として作られた60年代においても“現代”ではなく古くさかったのだ。
この、ドラマと同じことが日本の文学の世界においても綿々とつづいている。文学の動向などに関心のない人たちは、年に二回の芥川賞と直木賞が日本で一番の賞だと誤解していて、その受賞作を読んで、「これが最新の小説」と思ったりもするのだが、そんなことは全然ない。だいたい選考委員を見てみればわかる。石原慎太郎や宮本輝に“現代”がわかるだろうか? あなたは石原慎太郎が推薦する本を読もうと思いますか? 芥川賞を受賞するというのはそういうことだ。
直木賞にいたってはもともと創設のコンセプトからして、“現代”でなければ「現代」ですらない。第一回の受賞者が川口松太郎で、川口松太郎は新派の脚本やどっぷり人情に訴える小説を書いた人で、映画として大ヒットした『愛染かつら』の原作者でもある。『愛染かつら』は韓流ドラマの源流のようなものだ。
現代音楽や現代美術は(不幸なことに)私たちがふだん接することが稀だから、周辺の事情など説明せずに、それとして単独に取り上げて書くことができるけれど、文学はなまじみんなの日常に入ってきているために、その辺のことを最低限整理しておく必要があって、どうしても面倒くさいことになってしまう。
たとえば私がこれから書くことをカルチャーセンターのような場所でしゃべる光景を想定してみて、ここまで書いたようなことをいっさい省略していきなり本題だけをしゃべったとして、その後の質問で、「宮本輝の『泥の河』はどういう位置づけになるんですか?」なんて訊かれてしまったら、私にはもう返す言葉がない。
現代音楽や現代美術の“現代”という言葉には理念がある。19世紀から20世紀にかけて確立して揺るぎないと見える音楽や美術に対して疑問を投げかけるところからスタートしている。
現代美術といっても戦後のジャスパー・ジョーンズなどの完全に形のない抽象画だけでなく、私の場合はピカソやジャコメッティやクレーなども含めて考えているのだが、とにかく彼らの絵は一目見て、私たちが小学校中学校で描いた風景画や静物画と違う。彼らはまず遠近法にもとづいて描いていないし、静物や人物なども写真に撮ったようには全然描いていない。
しかし文学では相変わらず19世紀の風景画や肖像画のような描き方しかしていない。たとえば黒田清輝が描いた『湖畔』という、浴衣を着ている女性が団扇を持っている有名な絵があるが、あの絵の筆致のままモデルのファッションがいまどきのたとえばパンクファッションになって団扇のかわりに機関銃でも持って腕にタトゥーが入れてあって、背景の風景が荒廃したビルにでもなっているのが、ほとんどの日本の「現代小説」だ。それらの小説では題材が「現代」になっただけで手法はまるっきり変わっていない。
見えるもの(現実の世界)をそのまま描く(書く)、というときの「そのまま」とはどういうことなのか? 「そのまま」と思い込んでいること自体が自分が育った文化という檻によって作られた、バイアスのかかった見え方でしかないのではないか? アフリカでも中南米でも太平洋の島々でも、“未開”と呼ばれている人々の美術は遠近法を使わず、私たちの目から見てまったく写実的ではない。しかし、写真のようにしか世界を見ていない私たちの目の方こそがおかしいのではないか? 現代美術の出発はきっとこういう気持ちだ。
それが文学で起こるとどういうことになるか?
人によっていろいろな考えが出てくるだろうが、私は“現代文学”の起源をカフカ(1883-1924)とベケット(1906-1989)の二人としたい。
『審判』では、ある朝ヨーゼフ・Kの部屋に二人組の男がやってきて逮捕される。ヨーゼフ・Kは彼なりにあれこれ手をつくしてみるのだが、彼を逮捕した裁判組織の全貌はまったくわからず、最後は処刑される。
『城』では、城から測量師として雇われたはずのKが城の村に辿り着くところからはじまるが、Kは城の建物にいっこう到達できない。自分が城から測量師としての仕事を得られるように手をつくすのだがはかばかしい成果が得られない、というそのことだけが延々と書かれる。
この3作品は、主人公が完全に受身一方の世界に放り込まれていて、自らの能動性・主体性を発揮することがまったくできないということで共通している。これは小説の主人公=ヒーローという概念に反する、というか主人公の否定だ。小説において主人公というものは自分が置かれた状況に対して能動的に立ち向かって切り拓いていかなければならず、人々はそういう行為を主体性という風に信じてきた。
まあいちおう『審判』のヨーゼフ・Kも『城』のKも状況の打開を試みはするけれど、なんと言えばいいか、あんまりやる気が感じられず、目の前にいる女性と簡単にいちゃついたりしてしまう。カフカは70年代くらいまで、深刻な小説だと言われつづけてきたが、そういう先入観なしに書いてあるとおりに読んでみればカフカの小説世界にあっては、主人公は深刻に悩むことさえしていない。
カフカを深刻な小説として読んでしまっていたのは、70年代までの“政治の時代”の産物だと言っていいだろう。そういう読み方をしていた時代、読者は「カフカはこの小説で何を書こうとしたのか?」と、意味やテーマばっかりを問題にしていた。いわく、「『変身』の虫は何を意味しているのか?」、いわく「“城”とは何のことか?」。
しかしそれはさっきの黒田清輝の絵の手法のまま描く題材を現代の風物に差し替える発想と同じことだ。
どうして『審判』と『城』で主人公が目指す地域に到達することができないのか? というと、言葉がそういう風に出来ているからだ。主人公が出会う、組織の側と思われる人間たちはそろいもそろって、無限に仮定を増やして結論までの道筋を無限に引き延ばすようなしゃべり方しかしない。だから主人公は目指す組織に到達することができない。
ここで注意してほしいのだが、カフカは「現代というのはこれこれこういう時代だから、主人公は目指す組織に到達できない」という風に、たとえば官僚機構の自己増殖とそれに伴う複雑化などを念頭において書いたのではない。ただ無限に仮定を増やすようなしゃべり方をさせた結果として主人公が目指す組織に到達できなくなってしまっただけなのだ。
カフカにとって関心があったのは、現代社会でなく言葉の機能の方だ。言葉は写実絵画のように現実をそのまま写し取る透明な道具ではなく、言葉として独立して現実とは別の世界を作りうる。人間は言葉を意味伝達の道具だと思っているが、言葉とは本性において混線した電話や歪んだレンズやどこに弾むかわからないラグビーボールのようなものだ。だから言葉を使うということは言葉に翻弄されることなのだ。
官僚機構はその一つのあらわれにすぎない。官僚機構にかぎらずこの世界にあるすべての制度が人間を操っている。社会全体に行き渡っている契約書・企画書などの文書もそうだ。電話などの通信手段もそうだ(私たちはもはや電話のない生活を想像できないほど電話に操られている)。そして最近では何といってもパソコンだ。私たちはパソコンを操作しているのではなく、パソコンに操作するように仕向けられている。そういうことの根本原因が言葉との関係なのだと、カフカは見抜いたのだ。
言葉を使って作られる小説というものを書く小説家が言葉を自在に使いこなせるなんていうのは錯覚もいいところで、小説家は(小説家こそが!)言葉に操られている。そのような認識を持った小説家が書く小説の主人公が現実に対して能動的にふるまうことなど考えられるだろうか。
言葉というものは油断ならない。だからカフカの小説では目が覚めるシーンが多い。『変身』と『審判』はそれこそ朝の目覚めの瞬間の事件からはじまるが、『城』でも主人公Kは大事なところでしょっちゅう眠ってしまい、目が覚めると事態が一変している。その原因は何でも書けるという言葉の機能にある。
起きていたって油断ならない。Kが初対面にちかい相手とさんざんしゃべったあとで、その相手はこう言う。
「私はさっきから我が目を疑っているのですが、あなたは下着のままではないですか。」
原文は「下着」でなく「シャツ」だが、欧米人にとってシャツとはジャケットの下に着る下着なのだ。読者は書かれていないことについてはいちいち想像しない。服装について書かれていなければ、勝手にそれなりの服装だと思い込んでいる。しかし、書かれてみるまで本当のところは保証されていず、読者の思い込みと全然違う可能性がつねに潜んでいる。
言葉に対しての、このような周到な注意によって、必然的な結末として主人公は能動性を奪われる。
と同時に、カフカの世界では私たちがふつうに思い込んでいる因果関係も働いていない。朝目が覚めたときに虫に変身していることにも逮捕されたことにも原因はない。城に測量師として呼ばれたことの説明だってなされない。すべては理由なしにただそうなる。小説の中で、「ある朝目が覚めたら虫になっていた」と書けばそういうことになる。言葉というのはそういうものだからだ。
そして一方ではカフカはすでに書いたとおり仮定=可能性を網羅する。文学における劇的思考とは悲劇に至る因果関係の一本の太い線を引き、「それが避けがたい出来事だった」という了解を作り出すことだが、本当はそんなものはたくさんある可能性のひとつのあらわれでしかない。それゆえカフカの小説世界ではすべては理由なく突然起こる。
ベケットを一躍有名にさせた『ゴドーを待ちながら』が上演されたのは50年代後半のことだ。
ゴドーという人物を待っているウラディミールとエストラゴンという二人組が芝居の最初から最後まで舞台の上で無駄口ばかりを言い合っているだけの芝居で、人々はその“不条理”に驚き、“アンチ・テアトル(反演劇)”と呼ばれるようになった。
私は体質的にベケットがめちゃめちゃ馴染むからこの芝居のどこが驚きかぴんと来なかったのだが、日本を代表する不条理演劇の作家である別役実がこういうことを言ってるのを聞いてやっとわかった。
「ベケット以前、人間は理性的で論理的な存在とされていたんです。芝居とは理性的な人間が弁証法的に発展する姿を描くものだと思われていたんです。」
この演劇観は小説において主人公=ヒーローが現実の困難に主体的に立ち向かうという思い込みがあったのと同じことだと思えばいい。
『変身』や『城』と同様、『ゴドーを待ちながら』も長いこと、「ゴドーとは何のことか?」と言われつづけてきた。「ゴドー(Godot)とは神(God)のことであり、神が死んだあとの世界を生きる現代人の不条理」などと解釈されることが多く、「ゴドーとは何のことか?」という同じ質問ばっかりされてうんざりしたベケットは、
「私が愛する自転車レースの選手の名前だ。」
と答えたこともある。
半分はくり返しになるが、「ゴドーが何を意味するのか?」「“城”が何を意味するのか?」という質問は、作者に訊けばわかるという前提があるからするわけで、つまり「作者は答えを知っている」という、作者優位の作品観を意味している。「読者に対して作者が優位」なのではなく、「作品に対して作者が優位」、つまり作品に対して作者が能動的にふるまっているということだ。しかし小説家は言葉に翻弄される人間なのだから、作者だからといって作品の意味を知っているわけではない。そして同時に、主人公が何故そうなったのか? 彼ら二人が何故そこにいるのか? というような理由も作者は知らない。
カフカやベケットの作品の意味ばかり考える人は、“作品に対する作者の優位の否定”とか“人間が言葉に翻弄される”という能動性の放棄がどうにも受け入れられないということなのだろうと思う。画家が絵筆を思いどおりに動かせないなんて、そんな馬鹿なことがあるか! と感じるのと同じことだ。しかし、小説家は言葉を思いどおりに動かせない。——これが“現代文学”の出発点だ。
作品の意味を問うことには他にも重大な間違いがある。作品の意味を問う人にとって、ゴドーなり“城”なりの意味がわかったら作品はそこで終わってしまう、というか作品の持つプロセスがどうでもいいものになってしまう。『ゴドーを待ちながら』で約三時間舞台の上で二人が意味のないことをやりつづけていたその時間、『城』でKがいろいろな人のしゃべりを聞かされたり無意味なことにつき合わせられたりするのを読者として読むその時間、そういう時間が消えて、「ゴドーとは××だ」という一言になってしまう。
これは辞書を引くような頭の使い方だ。辞書には調べたい言葉の意味がすでにちゃんと書いてある。その言葉が現実の中でどのような使われ方をするかなど関係なく、ただ「××は△△の意」で終わってしまう。辞書を引いて言葉の意味がわかるということの前提には、世界の安定がある。
作品の意味を知りたがる人は、つまるところ物事を定義したいのであり、定義することによって世界は固定する——私はこれを“名詞的思考法”と呼んでいる。作品そのものは当然“動詞的思考法”で置かれている——。しかし20世紀に生きる人間は、正確なデッサンを描くように世界を固定することなどできない。
世界について、安定しているのか不安定なのかと問う以前に、それを問う道具であるところの言葉がそもそも人間を翻弄しているのだ。
次回更新予定日 9月27日
