Web草思
世界はこんなふうにも眺められる 保坂和志
第15回 70年代のビートルズ
 今回は70年代のビートルズのことを書こうと思う。
 といっても「ビートルズ」について調べ出すと資料が膨大で、特にビートルズ・ファンではなかった私にはとても手に負えない。と同時に、資料をあたっていくとロック青年として距離を置いて見ていたビートルズと違うビートルズ像があらわれてしまう。というわけで、私個人の記憶──よく言えば、70年代に中・高・大学生だったロック・ファンの、2次資料に脚色されていない感触──を中心にして書こうと思う。
 私がポップスを聴くようになったのは1970年の夏の終わりで、中学2年生だった。最初に衝撃を受けたのは亀渕昭信のオールナイトニッポンでかかった、オリジナル・キャストの「ミスター・マンデイ」だった。
 そのイントロが聞こえてきたとき、親に隠れて明かりを消していた部屋の闇の中で、別の世界が扉を開けて、光とともにぐんぐん私に押し寄せてくるみたいだった。
 で、私はポップスの虜になるのだが、中2の子どもとしてはなかなか入口が見つけられず、1、2カ月は深夜放送でハガキの合間にかかるポップスを聴くぐらいしかなかったのだが(と言っても、ほとんど放送が始まる前に眠ってたけど)、秋になると日曜日の朝9時か9時半からラジオでポップスのベスト10を流す番組があるのを友達から教えられる。そこからポップスに導かれた私のロック時代が始まることになるのだが、はじめて聴いたそのポップス・ベスト10の番組の、8位か9位か10位にいたのがビートルズの最後のシングル曲「ロング・アンド・ワインディング・ロード」で、その週を最後に「ロング・アンド…」はチャートから姿を消していった。
 これが私とビートルズとの出合いだ。
 ビートルズも確かにラジオのヒット・チャートで歌が流れていた時代があり、その最後の、去ってゆく後ろ姿を私はこの目で(耳でだけど)見送った。
 それは「ビートルズ」という名前は「ケネディ」や「ガンジー」と同じくらい有名だったから、日本中で小学生から70歳ぐらいの人まで知らない人はいなかったと思う。しかしビートルズにどんな曲があるかということは、ポップスを聴きはじめて1カ月そこそこの中学2年生はまったく知らなかった。本当に1曲も知らなかった。しかし「ロング・アンド・ワインディング・ロード」がラジオから流れてくるのを聴いて、聴きやすさに私はびっくりした、というか拍子抜けしてしまった。
 「これがビートルズなのかァ……。」
 素直な子どもだったら、そこで一気にビートルズにのめり込んでいっても不思議ではなかったが、その曲調のあまりの親しみやすさゆえに私の関心はビートルズに向かわなかった。私の気持ちは親しみやすさよりロックのざらざらした感じに向かっていた。(ところで、別のところで以前も同じこの出合いを書いたことがあるが、そのとき私は「ロング・アンド…」ではなく「レット・イット・ビー」だったと書いた。それは間違いだったわけだが、曲調の入りやすさということではどっちもまあほとんど変わりない。)
 1970年当時、ポップスとロックの情報源といえばひたすらラジオだったのだが、ビートルズは不思議なくらい流れてこなかった。ついでに言えばローリング・ストーンズも流れてこなかった。これは前にも書いたことの繰り返しになるが、70年代というのはひたすら前を向いて前に進んでいた時代だったから、過ぎ去っていった曲を再びかけようなんて思わなかったのではないだろうか。
 もしかするとポップスをかけるラジオ番組にはレコード会社各社から新譜の売り込み合戦があって、それを捌くので手一杯ということだったのかもしれないが、そういうカンぐり分を差し引いたとしても、エルトン・ジョンとかグランド・ファンク・レイルロードとかサンタナとかスリー・ドッグ・ナイトとか、“期待の新人”“注目のバンド”が目白押しで、もちろん今では誰からも忘れ去られたグループもたくさんあるけれど、その後10年間トップにランクしつづけるグループが実際あの頃、ぞくぞくと日本に紹介されていたと思う。
 つまり、極端な言い方をすれば、ラジオのポップス番組の範疇にかぎればビートルズは必要とされていなかった。もしビートルズの人気がずば抜けていたら、ラジオ局は随所でビートルズをかけなければリスナーを納得させられなかっただろうが、すでにそうではなくなっていた。ビートルズの曲をかけなくても番組は成り立ち、リスナーも満足していた。そしてビートルズ自身、何年も前からシングル盤重視をやめてトータルなアルバム作りに路線を変更していた。
 『THE BEATLES 1』という、イギリスとアメリカのどちらかのチャートで1位になったシングル27曲を集めたCDがあるが、それを見るとシングルのピークは66年で終わっている。67年以降に何週間もチャートの1位になった大ヒットは「ハロー・グッドバイ」「ヘイ・ジュード」「ゲット・バック」の3曲のみ。本国イギリスでは69年5月発売の「ジョンとヨーコのバラード」が1位になったのを最後にその後1位は無し! 「レット・イット・ビー」はアメリカでは2週1位になったが、イギリスでは2位どまり。「ロング・アンド・ワインディング・ロード」にいたっては、イギリスでは発売すらされていない。(契約等の問題も関係していたのかもしれないが)。
 「レット・イット・ビー」がその程度のヒットしかしなかったなんて、今から考えると信じられない。村上龍の『長崎オランダ村』という小説のラスト近くで、オランダ村に集まった世界各国の人たち全員で歌を歌う場面がある。まずその頃一番みんなが知っていると思った「ウイ・アー・ザ・ワールド」を歌おうとしたが全然ダメ。しかし誰からともなく「レット・イット・ビー」を歌い出し、それが自然に大合唱になっていった。というくらいで、「レット・イット・ビー」は今では「ヘイ・ジュード」や「イエスタデイ」より知られているんじゃないだろうか(これがまた信じがたいことに「イエスタデイ」もイギリスではシングル発売されていない)。
 ビートルズという存在そのものは、繰り返しになるがケネディ、ガンジー並みに有名だったけれど──07年に置き換えると、ディズニーとダライ・ラマだろうか?──、発売するシングルが解散時まで魔法か奇跡のように売れていたわけではなかった。だから1970年にポップスを聴きはじめた中学2年生の私は、ビートルズをすでに過去のバンドだと思っていた。
 私と同年代でビートルズを心の底から偉大だと思っている人がいるとしたら、姉さんか兄さんがいてその人たちが「ビートルズ」「ビートルズ」と熱狂しながらかけているレコードを横で聴いているうちに一緒に好きになった人だけだろう。(今の若い人たちのために注意書きをつけ加えておくと、ビートルズは兄さん姉さんたちが聴くもので、「ビートルズを聴くお母さんお父さん」というのはありえなかった。)
 しかしそれはあくまでも私と同年代の人たちの話であって、上のビートルズを聴いていた人たちにとってはビートルズは不滅の存在だと言っていい。しかし洋楽の流れはポップスからロックへと移り、ロックはビートルズのようなボーカル主体のものからレッド・ツェッペリンのような演奏主体のものへと移っていっていた。そういう意味でもビートルズは過去のバンドだった。(「レット・イット・ビー」の売り上げが証明するように、ポップスという切り口からもビートルズは効力が弱まっていた)。
 が、しかし、ビートルズを過去へと押しやることに一番熱心だったのはビートルズ本人だった。
 ビートルズが解散するとすぐにジョージ・ハリスンがソロで『オール・シングス・マスト・パス』という3枚組のアルバムを発表してそれが1位になる。シングル・カットした「マイ・スウィート・ロード」も大ヒットした(これはヒット中から盗作説が浮上し、最終的に裁判で盗作の判決が下りたけど)。ジョージにつづいてジョンも『ジョンの魂』を発表。このアルバムは「マザー」という歌ではじまり、「マイ・マミーズ・デッド」で終わり、ラストから2曲目には「ゴッド」という歌が入っていて、そこではI don't believe in magic, I don't believe in Bible,...in Jesus,... in Buddhaとずうっとつづいて、最後I don't believe in Beatlesが来る。
 当時はジョンが「ビートルズは嘘だ」と言うだけでセンセーションだったわけで、いまから見ると全体が週刊誌的ですごく幼稚なのだが、とにかくビートルズのメンバー自身がビートルズから離れよう離れようとしていて、その急先鋒がジョン・レノンだった。
 ジョンのビートルズ批判、とりわけポール・マッカートニー批判は苛烈かつ熱拗で、次の『イマジン』では「ハウ・ドゥ・ユー・スリープ?(眠れるかい?)」という曲で、「『サージェント・ペパーズ』はおまえには驚きだったろう」とビートルズを知る人たちには誰でもわかるような、ほとんど名指しの攻撃をしている。
 世間の風も完全にジョンに吹いていて、「ジョンもジョージもリンゴも、ビートルズから脱して次の、自分が望むステージに進んでいるのにポールだけはいまだにビートルズにしがみついている」というのが、世界中のポップス&ロック・ファンの統一見解のようになっていた。
 「(ポール一人、いまだに)ビートルズにしがみついている」という言い方が一回なされれば当然ビートルズも一回否定されることになる。それがつまり70年代におけるビートルズというもののイメージだ。「ポールのように何も考えていないヤツはいつまでたってもビートルズから脱け出せない」という言葉はそのままファンにも当てはまる。ファンだっていつまでもビートルズを聴いていないで次に進まなければならない。
 ジョージ・ハリスンはすぐに今度はバングラデシュ支援コンサートを開く。それには、エリック・クラプトン、ボブ・ディラン、レオン・ラッセルというスーパースターが参加して、ドラムスはリンゴだった。リンゴは『ジョンの魂』にもドラムスで参加しているから、完全にポールだけが蚊帳の外だ。そのポールはビートルズにしがみついているのだから、ビートルズのイメージはいよいよ色褪せていった。
 ポールだって、解散直後から「アナザー・デイ」とか「ラム」とかヒット曲は出すのだが、ポップスの域を一歩も出ていなかった。つづいて、奥さんのリンダもメンバーに入れたウイングスを結成して、ここでもヒット曲を出すし、アルバムも売れはするわけだけれど、数ある人気ロックバンド以上のものにはならなかった。
 いま、2007年の時点で資料を調べるともっと違った評価が出てくるかもしれないが、70年代の同時代の評価は間違いなくそうだった。「ジョンがどんどん変化していくのに対してポールはビートルズの縮小再生産しかしていない」と。
 しかしいまになって思うに、ポールを含めた元ビートルズの4人の解散後の活動が結果としてビートルズの価値を高めたのではなかったか。
 ジョンが「ビートルズなんか嘘だ」と言っても、それはビートルズを前提とした発言でしかない。彼ら4人の活動はどれひとつとしてビートルズを忘れさせるものではなかった──だいたい、「忘れさせる」なんてことができるだろうか。ジョン・レノンがどれだけ新しいことをやってみても、やっぱりビートルズだったのだ。そういう彼らの70年代があったから、『長崎オランダ村』のラストで「レット・イット・ビー」が世界各国から集まった人たちによって大合唱されることになる。彼ら4人が解散と同時にへなへなになっていたら、30年以上たった今ごろはおじさんおばさん達の懐メロぐらいにしかなっていなかっただろう。が、そうではなかったからいまのイメージでは「ビートルズは70年代も不動の人気があった」という風に、みんなの記憶が書き換えられているのではないかと思う。しかし70年代は、終わったものを激しい力で過去へと流し去る時代だったのだ。
 ジョンが拳銃で撃たれて死んだのは1980年12月だ。つまりビートルズ解散後のジョンの10年間がそのまま70年代だったということになる。ソロ活動期間がたった10年しかなかったというのは驚く(もっともソロ活動はビートルズの後半にはじまっているが)。ビートルズのレコード・デビューが1962年だからトータルしても19年間にしかならない。??ちなみにSMAPは1988年に結成されているから今年が20年目!だ。サザンオールスターズは「勝手にシンドバッド」でデビューしたのが1978年なので、なんと30年目。
 ソロ活動開始直後は「パワー・トゥ・ザ・ピープル」のような社会性を意識した曲も作っていたが、子どもが生まれるとジョンはハウス・ハズバンドになる。「ハウス・ハズバンド」(主夫)という言葉を私が初めて聞いたのはジョン・レノンのインタビューかそれにまつわる記事だった。(ハウス・ハズバンド期間中ジョンは活動を休んだから、実質活動期間は70年代の10年間から何年間か引かれることになる。)
 70年代に政治の時代が世界中で終わっていくことになったのはこの連載でもう何回か書いたけれど、“個”がはっきりと重視されるようになったのが70年代だったということは、ビートルズとジョン・レノンのことを今回こうして書くまで忘れていた。いまではあたり前すぎることだから、私は見落としていたのだと思う。
 ジョン・レノンがハウス・ハズバンドをしていることを知って私はぐぐっとジョンにのめり込んだ。『ジョンの魂』以来、私はジョン・レノンをけっこう好きだったが、ハウス・ハズバンドという言葉を知って以来、熱烈にジョンに関心を持つようになった時期があった。
 1981年に会社に入り、そこのカルチャーセンターで私は講座の企画をすることになるのだが、82年だっただろうか、その企画会議の席で10歳ちょっと年上の人に向かって、
 「××さんは天下国家を論じていれば正論のように思っているけれど、その姿勢が嘘なんですよ。天下国家を論じるのも個人を論じるのも同等の価値があるんですよ。」
 と力説した憶えがある(何についての話だったかは忘れてしまったが)。
 入社直後の組合研修では、育児休暇の説明があったときに、
 「育児休暇は男は取れないんですか?」
 と質問して、組合の人からすごく変な顔をされたりもした。
 私がこういう発言をしたとき、私の心の中にジョン・レノンがいたことは言うまでもない。そんなモデルはジョンしかいなかった。しかしジョンとジョンが否定しようとしたビートルズの関係と偶然にも似てしまうのだが、ジョンがハウス・ハズバンドをして“個”を打ち出したとき、その“個”は社会と対峙した“個”だった。社会に背を向けて家庭にこもったとしても、それはただ「家庭にこもる」のではなく、あくまでも「社会に背を向けて」なのだ。個人を論じるのも、天下国家を論じることよりも軽んじられていたからこそ個人を論じることに勇気がいった。それはただそのまま“私”のことをしゃべるのと意味が違う。
 ジョン・レノンが生きたのはそういう時代までだった。ジョンは何でも“身をもって実践した”感じがあった。それが70年代ということでもあったのではないかと思う。
 いまではそれがただ言葉として管理され、ジョンが遺したすべての言葉の使用がオノ・ヨーコによって厳密にチェックされている。だから、
 Imagine no possession.
 という「イマジン」の中一節もpossession=財産とみなされて所有権が発生し、看板か何かに大きく書いて掲出したら使用者はオノ・ヨーコに巨額の使用料を支払わなければならない。「『すべてのクレタ島人は嘘つきだ』とクレタ島人が言った」みたいな話だ。
 ま、ヨーコ批判をここでしても仕方ない。これが80年代以後の現実なのだ。
 ジョン・レノンという思想+美学の実践者を失って、ビル・ゲイツのような現実=経済の勝者ばかりになって、それに対抗できるモデルを発見できないまま迷走をつづけている……それがビートルズ以後の世界だ、という言い方もできるかもしれない。

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