Web草思
世界はこんなふうにも眺められる 保坂和志
第14回 「新しさ」が最高の価値だった時代の黒澤明と岡本太郎
 70年代後半に大学生だった私は、70年代を停滞の時期とあきらめ、80年代が来るのを待っていた。80年代というのはふたたびやってくる政治の時代であり、政治の時代になれば音楽・演劇・美術・文学・映画……etc.の芸術全般にふたたび新しいムーブメントが起こる。いや、芸術全般に新しいムーブメントが起こるから政治の時代になるのか、どちらが先だとか主役だとかいうよりも、政治と芸術全般は不即不離の同じものだと思っていた。
 では何故、政治の時代や芸術全般の新しいムーブメントが待望されたのか? といえば、この世界とは前へ向かって進むものであるということが、無条件に信じられていたからだ。現実には70年代後半に元号法制化だとか国民総背番号制(これは後に住民基本台帳法として実現)への動きだとか、政治や社会での動きは時代の逆行であったり現在の管理社会につながるものであったりすることの方が多かったのだが、能天気な大学生だった私は、そういう小さな個別事例はともかくとして、「動く」ということは前回引用したマルセル・デュシャンの発言と同様、人間が労働や貧困から解放された世界の実現へと向かう、前へ向かって進むこと以外にないと信じて疑わなかった。つまり、宗教的な死後の世界ではなく、みんなが生きるこの現実世界を楽園とする、という近代の進歩史観という大きなフレームのなかに生きていたということだ。だから「新しい」ということはほとんど無条件で「いい」ことだった。
 「新しい」ことがいいことであるとされるということは、伝統が否定されることでもある。能・狂言・文楽・歌舞伎、これら伝統芸能を当時の大学生であった私は見たいなんてまったく思わなかった。それどころか、「時代の趨勢で、滅びる運命にあるものは滅びる」というぐらいにしか思っていなかった。それがいまでは“伝統”に脚光があたって“現代”が滅びつつあるのだから皮肉だが。
 70年代の風潮というか時代の空気は全体として、こういうことだった。特に私は極端な方に属していたから、私の目に映るものはことさら「新しい」ことばっかりだったかもしれないと思う。私が「新しい」ことばかり見ていた70年代にも大学のサークルには能の観世流とか金春流とかがあったわけで、同級生でも一人、能のサークルに入ったやつがいた。彼とは1年生の最初の頃よくしゃべったが、そのうちに疎遠になってしまったから、「いま何やってんの?」「能のうたいっていうのをやってるんだ」と聞いて、「へー、かわってんな」ぐらいにしか思わなかった。
 一度彼が手でベンチを叩きながら謡の稽古というか鼻唄でもうたうような感じで謡曲をうなっているのを聞いたことがあって、そのときには「謡って迫力あるんだなあ」と、びっくりしたことをいまでも忘れてはいないが、しかしそれをきっかけにして私の関心が向いている方向が変わったりしたわけでもなかった。??というわけで、70年代の空気は全体として私が書くようなことで間違ってはいないはずだが、それはすべてではない。
 それで「全体として」の方の話なのだが、伝統が否定される時代にあっては巨匠も否定される。その代表が黒澤明と岡本太郎だったのではないかと思う。
 黒澤明は大学生としては、作品の中身をとやかく言う以前に「過去の遺物」という認識だった。しかも私はシネ研の分派活動みたいなことをしているサークルに所属していたから、いちおう「ヌーヴェルヴァーグ以降うんぬん」「アメリカン・ニューシネマ以降うんぬん」みたいな雑な知識だけは持っていて、『七人の侍』を名画座系に観に行ったりしても、ラストの志村喬の「結局勝ったのは我々ではなくこの百姓たちだった」とかいう台詞を聞いて、ゲーッと思ったりしていた。
 ところがあらためて黒澤明のフィルモグラフィーを見ると、1943年の『姿三四郎』から65年の『赤ひげ』まで、多いときには年に2本のペースでびっしり撮りつづけている。しかし『赤ひげ』を最後にパッタリと途絶えて、70年『どですかでん』、75年『デルス・ウザーラ』、80年『影武者』、85年『乱』、90年『夢』というペースになる。
 特に『デルス・ウザーラ』は評判が悪く、私自身映画館で予告編を観ただけでうんざりした憶えがあるのだが(結局いまだにこれは観たことがないし、観たいともやっぱり思っていない)、つまり黒澤明の最低最悪の時期に私の高校、大学時代が重なってしまったわけで、それが同時にそのまま70年代でもあったということになる。
 インターネット上の百科事典であるWikipediaを見ると(ただしWikipediaは項目の記事が一般人による自由参加であるために誤りもよくあり、先日はアメリカのどこかの大学の歴史の先生が学生がレポートの資料としてWikipediaから引用することを禁止したというニュースもあった)、『赤ひげ』の撮影で予算を大幅超過したために東宝との関係が悪化したということが書かれていて、もしかすると大手映画会社による反黒澤明プロパガンダがあって、当時の大学生たちはそれに洗脳されていたのかもしれない。
 が、しかし、黒澤明に対する評価は極端だったとしても、小津安二郎も溝口健二も成瀬巳喜夫も忘れられていた(と思う)。ATGや日活ロマンポルノから出てきた監督がいっぱいいて、私の中では「日本映画」といえばそっちしか指さなかった。そうそう深作欣二もいた。
 私の中で小津、溝口、成瀬という巨匠が発見されるのは80年代も後半になってのことだが(このへんは「無知」とそしられても仕方ないが、あの頃の映画ファンの常識としてはどうだったんだろう。よくわからない)、何度観ても黒澤明はおもしろさより欠点の方が強く感じられてしまう。そしてやっぱり、日本人から「黒澤明が好き」と聞くと、「ちょっと待ってくれよ」と思ってしまうのだが、そう思いつつ同時に自分でも「70年代の人間だな」という思いも感じてはいる。
 黒澤明は日本よりむしろ海外の映画監督から尊敬されているが、しかしそれだって「スピルバーグやコッポラでしょ?」と思って、またまたWikipediaを見てみると、スパイク・リー、チャン・イーモウ、ジム・ジャームッシュという名前まで並んでいる。「本当かよ?」と思うけど、まあ本当なのだろう。
 岡本太郎の方は、70年代の大阪万博のシンボルの太陽の塔の製作者として当時中学2年だった私は知ることになるのだが、国家的イベントに関わる芸術家にろくな芸術家がいるはずがないという思いから、すでに知ったときには岡本太郎は私にとって芸術家ではなかった。??あえて書く必要もないと思うけれど、〈国家=悪〉という図式が中学生の心の中にすっかり定着していたということだ。ついでにいえば小学生のときにはすでに天皇や皇族のことを「働かないで税金で食ってる連中」と思っていた。こういう反体制的な心情がどういう風にして植え付けられていたのかわからないが、自分ではほとんど生得的と言ってもいいくらいに自然なことに感じているし、これから先もこの気持ちが変わることはないと断言してもいい(しかし本当にいつそうなったのだろう? つまりこれが60年代ということだったのだろうか?)。
 全体に映画・音楽・文学と比べて美術というのは当時も今も馴染みが薄い。ダ・ヴィンチ展とかゴッホ展のような超メジャーな展覧会には人が押し寄せるが、少し下の知名度の展覧会となると閑散としている。画廊は入場無料だが、ふらっと入っていって他に客がいることなどめったにない。だから岡本太郎が日本の美術界でどういう位置にいるのか、万博のあとも情報はまったくなく、次に名前を見たのは、高校の国語の教科書に載っていた縄文土器を絶賛するエッセイで、その次に見たのは、
 「グラスの底に顔があったって、いいじゃないか!」
 というウィスキーのキャンペーンとして底に岡本太郎デザインの顔を掘ったグラスが当たるというウィスキーのCMだった。そういえば、
 「芸術は爆発だ!」
 という、きっとこれが私たちに一番、岡本太郎という人を印象づけたCMもあった。いつ頃オンエアされた何のCMだったか忘れてしまったが(同じウィスキーのCMだったんだろうか)、国語の教科書に載るということは70年代では「過去の人」という意味であり、CMでの使われ方はどう見ても巨匠に対する正当なリスペクトを欠いたものでしかなく、美術に関心がなかった大学生としては「古い芸術観に凝り固まった現役を降りた大時代的な芸術家」としか思わなかった。
 この「芸術」「芸術家」という言葉が70年代ではパロディでしかなかった。思えば「パロディ」という言葉が広く知られるようになったのも70年代後半のことで、出どころは萩原朔美と榎本了壱という二人の編集者(いや、CMプランナーだったか)が編集していた『ビックリハウス』という雑誌だった。その萩原朔美が萩原朔太郎の孫だというのも象徴的だ。80年代くらいから「芸術」でなく「アート」という言い方がされるようになり、「芸術」と「アート」の内実の違いはわかるようなわからないようなビミョーなところだが、ともかく私自身はここ数年つとめて「芸術」という言葉を使うようにしている。が、「芸術」という言葉を口にしたり文字にしたりするときにはいつも「大時代的な……」というためらいや抵抗がある。
 いま思えば、岡本太郎は「芸術」という言葉は誇大妄想的大時代的な失笑を買うかパロディでしかないか、どちらかにしかならないことを承知で真っ正直に真っ正面から芸術を復権させようとしていたのではなかったか? 何かを「復権させよう」と思うこと自体がまた大時代的なカン違いなのかもしれないが、芸術というのはそういう情熱でしか維持しえないものなのではないか。人が何かをしているときに、まじめになればなるほどチャチャを入れやすくなる。しかしチャチャを入れているだけでは何もはじまらないわけで、チャチャを入れる小賢しさよりもチャチャを入れられる愚直さの方に価値があると人に目覚めさせるのが芸術なのではないか。
 チャチャを入れる??今風にいえば「ツッコミを入れる」ということだろう??のは小手先のテクニックなので短期間に簡単にうまくなれるし、人の目を引きやすい。『ドン・キホーテ』は、騎士道に熱狂しているドン・キホーテとそれに対して足を引っぱったり、いろんな形でツッコミを入れたりするサンチョ・パンサという組み合わせで、サンチョのおもしろさはわかりやすいがドン・キホーテの偉大さがわかるには時間がかかる。ドン・キホーテは笑うべき狂人ではなくて偉大な人なのだ。
 パロディという言葉を日本に広く浸透させた『ビックリハウス』もチャチャを入れるサンチョ・パンサの仲間ということになるわけで、その小手先ぶりが大学生中心に人気を得た理由だったと思う。このあたりから本来の文化でなく、サブ・カルチャーが若者の関心の中心になっていったわけだけれど、萩原朔美が萩原朔太郎の孫で、しかももう一人の榎本了壱とともに寺山修司の芝居や映画に関わっていたということを考えると、その後の軽い受容のされ方とは別に『ビックリハウス』それ自体は現代芸術の一環のつもりで創刊されたのではなかったか? と、今になってみると思えないわけでもない。
 『老人力』という言葉を流行らせた赤瀬川原平は80年代には「超芸術トマソン」や「路上観察」という言葉も流行らせているが、80年代の二つにははっきりと60年代のハプニングなどにつながる前衛芸術の響きがある。私も写真で見ただけで高松次郎・赤瀬川原平・中西夏之のハイレッドセンター(三人の名字の頭の「高・赤・中」だ)の活動をよくわかっているわけでは全然ないが、白衣を着て東京の舗道を脱脂綿で消毒したりするようなものすごくバカバカしいことをやっている。
 これは64年の東京オリンピックの少し前からどんどんきれいに整理されていった東京に対する抗議が背景にあるわけで、その反体制の部分がなかったらただのお笑いになってしまう。??ということは、逆の方向からカンぐれば、社会全体を政治の時代から遠ざけていく「資本の力学」だか、もっとニュートラルに「時代の趨勢」だかが、バカバカしい行為から反体制という毒を抜くためにお笑いブームを演出したという見方ができなくもない。現在のお笑いブームはまさに70年代が終わった1980年の漫才ブームから始まっている。
 話を岡本太郎に戻す。私はカルチャーセンターに勤務していた85年に岡本太郎の講演会を企画したことがある。
 テレビで姿を見なくなった時期だったのだが、週刊誌のちょっとしたインタビューを読んで、「この人はものすごくおもしろい!」と思った(この動機そのものは芸術でなく「ビックリハウス」的なものだ)。
 やっぱり世間全体の認識が「岡本太郎? 過去の人でしょ」だったから集客はよくなかったが、内容というか岡本太郎その人の存在は圧倒的におもしろく、あのとき来た人は誰一人として生涯忘れないと思う。それはともかく、そのとき講演会まで時間があったので、私は岡本太郎につき添って、西武美術館で開催されていた印象派展に行った。
 岡本先生は小さいがいかにも精力的な体で、観客と展示がかかった壁の1メートルもない隙間をぐんぐん歩いていく。
 展示の絵に一瞬顔を近づけて(もっともうしろに人がいっぱいいるから離れたくても無理なのだが)、グッとにらみつけるように見たかと思うとすぐに次へと移っていく。観客の中には「あれ? もしかして、いまの人、岡本太郎?」という顔をする人もいるが、岡本先生はぐんぐん次へ次へと移動していく。つき添いの私は後を追いかけるだけだが、黙っているだけでは能がないと思って、「先生はこういう絵はどうなんですか?」と訊いた。すると、会場いっぱいに響くような声で、
 「くだらん!」
 これこそ生涯忘れえぬエピソードだが、印象派を「くだらん!」と一蹴する態度もまた「新しさ」こそに価値があった現代芸術のものではなかったのかと今は思う。
 人間全体が時代とともに進歩するという大きな歴史観に守られている中では、「新しさ」は、まだ実現されていない人類の楽園へ向かう前進なのだから、「新しい」だけで価値が保証される。
 岡本太郎は縄文土器を絶賛したが、これは形のないエネルギーの噴出という意味であって、レオナルド・ダ・ヴィンチの芸術を人類の最高峰としてしまうような硬直した価値観とは違う。縄文土器は岡本太郎にとって、「いま作られた」現代芸術と同じものだったのだろうと思う。
 しかし巨匠たる岡本太郎もまた、「新しさ」が価値である時代の中で忘れられたわけなのだが、もしかしたら岡本太郎本人はそれでいいと思っていたのかもしれないとも思う。86年頃、都庁移転の話が持ち上がって、有楽町の方にあった旧庁舎解体とともにそこに作られていた岡本太郎の壁画もいっしょに壊されるという話になったとき、インタビューに答えて岡本太郎は、
 「形あるものは滅びるのが運命だ。」
 と言っている(その壁画がその後どうなったかは知らない)。
 人類が楽園に向かって前進しているという歴史観は枠組みとしては絶対的なものだ。しかしその中で求められていた「新しさ」という価値は絶えず次の「新しさ」によって簡単に乗り越えられてしまう運命にあるのだから相対的なものでしかない。
 そういう状態を“不安定”と感じるか、“いきいきとした運動”と感じるか? それは個人の感じ方もないわけではないが、これもまた大きくは時代の産物であって、ほとんどの人は“不安定”ではなく、“いきいきとした運動”と感じていたと思う。
 そういう時代に育った私は、モーツァルトとかレオナルド・ダ・ヴィンチとか芸術史上突出しているとされている芸術家を、「突出している」という理由によって賞揚することにどうしても抵抗を感じてしまう。??そういう気持ちを基底音のようにしながら、“現代”という言葉が意味するものが何だったのか? まだしばらくつづけたい。


 追記のひとこと いま憲法改正に向けての手続きが着々と進んでいる。新聞・テレビ等のメディアは、ことあるごとに第二次世界大戦中に自分たちが戦争協力したことを深く反省しているようなことを言うけれど、「国民投票法案、本日成立の見通し」みたいな見出ししか立てず、立場を全然明確にしない腰の引けた報道の仕方しかしないのでは、戦争協力しているのと同じことだ。

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