といっても、私が中学生になったのは1969年だから、私自身の実感として知っているのは、時代が最も“現代”だった60年代ではなくて70年代なのだが、70年代の前半はまだじゅうぶんに“現代”で、時代の変化の速度がいまよりずっと速かった。
たとえばいまでも忘れられないのだが、69年の春に大ヒットした、いしだあゆみの『ブルーライト・ヨコハマ』という歌があった。「街の灯りがとてもきれいねヨコハマ、ブルーライト・ヨコハマ〜」という、40歳以上の人ならたぶん知らない人は一人もいないという曲なのだが、あの頃はいったんヒットチャートから姿を消してしまえば、その歌がテレビやラジオでかかることはほとんどなく、もちろんカラオケなんてこの世に存在しなかったから、実際の曲をそれっきり一度も耳にすることなく2年、3年と経っていた。
72年、私が高校一年のときだったと思うが、FMの洋楽中心のポップスの番組に懐メロ・コーナーがあって、3年ぶりに『ブルーライト・ヨコハマ』がかかった。私は曲名を紹介された瞬間に、「わっ、『ブルーライト・ヨコハマ』だ!」と興奮したのだが、イントロがかかってズッコケた。
テンポが遅くて、アレンジがさびれた温泉街の看板のように野暮ったくて、いよいよいしだあゆみの歌がはじまると鼻にかかった変な声で……。
この曲が大ヒットしてから3年間、たしかに私はレッド・ツェッペリンやローリング・ストーンズを聴くように変化していたけれど、この曲の古くささはそんな個人の趣味の次元をこえていて、
「3年経つっていうのは、こういうことなんだな」
と、私は激しく納得した。“3年”という時間は70年代前半には、一世を風靡した曲が古びるのにじゅうぶんな長さだったのだ。
それ以来、『ブルーライト・ヨコハマ』は私にとって、
『ブルーライト・ヨコハマ』に失望し、また何年か後にふつうの懐メロになっていた——なんて、70年代という時代の気分を語るにはあまりに個人的で小さすぎる出来事と思うかもしれないが、時代の中で同時進行として生きる個人が時代を実感するというのはそういう小さなことで、70年に日米安保条約が更新され、72年に連合赤軍事件があって、オイルショックがあって……というような大きな出来事は、“歴史”であって、個人の感じていたことはそこにはない。
考えてみてほしいのだが、土曜の深夜にやっている「カウントダウンTV」で、○年前のトップ10を流すコーナーがあるけれど、10年前のトップ10でも古くさくてがっかりしてしまうようなことはない。カラオケに行けばよっぽど若い子でも一緒にいないかぎりは、みんな5年前、10年前の歌を歌っているし、おじさん達なんかはサザンオールスターズの初期の曲を歌ったりしている。サザンの初期なんていったら25年以上も前なのに激しく古くさいわけではない(いい気になって歌うおじさんのうっとうしさは別として)。
小説でも映画でも、ある表現をほめるときに「新しい」という言葉を使うけれど、社会がひたすら新しさに向かって突き進んでいた時代は、おそらく70年代前半で終わってしまったのだ。新しさに突き進んでいた時代には、ちょっと前のものががっかりするほど古くさくなってしまって、「懐メロ」なんていう評価すら得られなかった。「懐メロ」というのはひとつのジャンルだから、ジャンルにくくることができればそれはそれなりに安定している。しかし「古くささ」が「懐かしさ」に変わるのと呼応して、新しさの本当の力はなくなっている。
「新しさを追い求める社会だからこそ懐かしさに価値がある」と言う人がいるかもしれないが、本当に新しさに惹きつけられていたら、過去のものなんか古くさいだけでしかない。その古くささというのは72年に『ブルーライト・ヨコハマ』に感じた生理的なものであって、「懐かしい」というような肯定的な気持ちが生まれる余裕がない。懐かしさをいいと思うのは、新しさを追い求める社会に疲れているか、そうでなくても追い求めることに心のどこかで疑問を感じていることのあらわれに違いないのだ。
私が聴いていたのはフリージャズかそれにちかいジャズで、そのほとんどは60年代から70年代の前半までに録音されたものだった。ジョン・コルトレーン、エリック・ドルフィー、アルバート・アイラーなど、60年代のうちに若くして死んでしまったミュージシャンはいたけれど、60年代のジャズの黄金期を飾ったミュージシャンの多くはそのまま現役で新譜も発売されていた。さらにまた山下洋輔を代表とする日本のジャズ界は今がまさに真っ盛りという感じで、夏になれば日本のあちこちで野外コンサートが開かれたりもしていて(私と友人も与論島までジャズ・フェスティバルを聴きに行ったりした)、現状を追いかけるだけでじゅうぶん楽しかった。——のだが、しかし、私と友人たちは「時代に乗り遅れた」という意識もまたとても強く持っていた。
ジャズがこんなに脚光を浴びていることがまず嘘くさい。それにだいたい、自分たちがふだん聴いているレコードは60年代から70年代前半に録音されたそれであって、ライブで聴くことができる現在のジャズは新しい大きな波が去ったあとの自己模倣か縮小再生産のようなものだから苦もなく聴くことができるのではないか? 彼らのジャズは本来もっと生理的な拒絶感みたいなものを伴う性質の音だったはずが、何年かの間に社会全体の音の質が変わって(つまり、都市の空間を行き交う音が騒音性や無調性の度合を増したために)、初期の衝撃が薄まっただいぶ耳ざわりのいい音として自分たちは聴いているだけなのではないか?
もちろんあの頃、ここまではっきりと言葉にすることができていたわけではないが、いまのジャズの受容のされ方は「なんか違う」という気持ちはぬぐえなかった。
この気持ちにはもう一つ、寺山修司と唐十郎という当時の言葉でいう「アングラ演劇」の二人の存在も絡んでいた。寺山修司は天井桟敷、唐十郎は
何しろ70年代後半の状況劇場には、初期の伝説の役者・麿赤児がいなくなっていた。アングラ演劇は全般的に役者の肉体に焦点をあて、これが戯曲と演出というプラン(知性)優位の演劇の流れに対する“アンチ”になっていたわけだが(ついでにいえばフリージャズも奏者同士の即興の応酬という肉体への強烈な関心・信奉という意味で、同じ基盤にのったムーブメントということができる)、麿赤児はそれでは満足できず、肉体への関心が一層強い舞踏へ行き、大駱駝艦という暗黒舞踏の集団の主宰者になっていた。
それで私は、大駱駝艦を観たり、山海塾の旗揚げ公演を観たりすることにもなるのだが、そこまで行く頃には私の中の“期待”はほとんど消えていた……。
70年代はテレビでオンエアされる音楽や演劇がいまと比べて格段に保守的で、舞踏はもちろんのことジャズもロックもテレビで出会うということはありえなかったと言っていい。ジャズやロックは専門誌があったが、唐十郎の状況劇場や寺山修司の天井桟敷なんかの存在をどうやって知って、どうやって公演の情報を得ていたのかと考えてみると……創刊間もないまだ薄っぺらで月刊だった「ぴあ」の片隅というのもたしかにあったけれど、口コミとチラシだったのではないかと思う。
インターネットの時代から70年代を見ると、「口コミなんて……」と、びっくりするかもしれないが、強烈な関心を持っている者同士が友達になって、それぞれが「うん? これは匂う」という情報に敏感になっていれば、必要な情報はちゃんと得ることができていた。何事もそうなのだが、便利になって誰でも簡単に手に入るようになってしまうと受け手(=観客・聴衆)を受動的にさせてしまって、本当に必要としている人に届かなくなる。もっとひどくなると“本当に必要としている人”という存在がいなくなってしまう。コンサートや芝居に行くというのは、現地に足を運ぶというだけで能動的な行為なわけだから、そこに行こうと思っている人には情報に対する能動性が備わっているからインターネットなんかなくても人は集まった。
大学の敷地内での公演にはそういう人たちが集まるようになっていたから、テレビでオンエアされるものとは全然違っていた。「大学の自治」なんていうと大げさに響くだろうが、テレビでオンエアされないものが大学の敷地内で催されるということは、大学と外の社会との一つの線引きになる。
しかし、この線引きは大学の外と内の両方の変化によって70年代後半あたりからなくなっていく。外の変化というのはテレビで、テレビでかかる音楽は演歌からポップス系の歌謡曲になり、歌謡曲はどんどんロック化していき、80年代に入ればテレビでロックがかかるのがあたり前になった。内の変化というのは大学生たちがプロデュース研究会みたいな商業主義的なサークルをはじめたことで、大学生が主催するコンサートや芝居がアングラ的なものから一般的なものへとシフトしていった。この二つが一緒になって、80年代になると大学の学園祭でもテレビで名が知られたミュージシャンしか出なくなってしまい、大学という場所が固有の領域でなくなってしまうことになる。
70年代までの大学生に対して、批判はいくらでもできる。
たとえば、大学生は「大学生だから」というエリート意識を持ち、社会からそのような目で大目に見られて、したいことをしていただけだ、とか。そのエリート意識によって、本当はよくわかりもしない音楽や芝居を無理して見たり聞いたりしていただけだったんじゃないか、とか。だいたい保坂自身がやっていたことがミーハーそのもので、ちょっと毛色の違う流行り物を追いかけていただけじゃないか、とか。
しかし動機とか心の中の実態はどうであれ、70年代までのそのような大学生のあり方が、結果として異質な文化や表現を創り出すことに貢献していた。
身も蓋もない言い方に聞こえるかもしれないが、音楽や芝居だけでなく小説も映画も美術もすべて含めて、何か表現に接するということは見栄を張ったり背伸びしたりすることなのだ。そういう無理する気持ちなしに、受け手としてすべて楽々理解できるものしか見たり聞いたり読んだりしないとしたら、その人は進歩しない。
「お前が本当に理解しているんだったら、俺にもわかる易しい言葉で説明できるはずだろ」なんてことを、さも正論のような顔して言う人がいっぱいいるが、何かを理解するためにはいままで知らなかった概念を必要とすることがこの世界にはたくさんある。というか、むしろその方がふつうだと思った方がいい。見栄も背伸びもしなかったら知識が増えないだけでなく、世界を受容するための回路が開かれない。
最近の大学生に関する話を聞いていると、大学という固有の領域がなくなったために、異質な文化に貢献することもなくなったように思える。もちろんこれは大学生自身が悪いというような簡単な問題ではないわけだが、ともかく事実として大学生による貢献がなくなると文化や表現全般の活力(ないし潜在力)が失われることになる。(つまりこれもまたグローバリゼーションのあらわれの一つであって、グローバリゼーションは、地域だけでなくすべての固有の領域を食い尽くして均一でのっぺりしたものにしてしまう。)
70年代後半の大学生であった私はジャズに熱中しながらも「なんか違う」と感じたり、「時代に乗り遅れた」と感じたりもしていたわけだけれど、しかし「時代が大転換したのだ」とは思っていなかった。
ジャズには10年おき周期説があると言われていて、1920年代(スイング・ジャズ)、40年代(ビバップ)、60年代(フリー)は変革期で活気があり、30年代、50年代はその狭間で停滞した。いまこの70年代もあいにく停滞している時期なのだが、しかし80年代になればまたジャズに新しい運動がおきるだろうと、私や友人はわりと暢気に素朴に信じていた。
80年代になってジャズに新しい運動が起こるということは社会が再び政治の時代を迎えるということでもある。と、これもわりと暢気に信じていた。ジャズの新しい運動とか再びやってくる政治の時代というのが具体的にどういうものかなんて全然想像できなかったけれど、新しいものなんていつも実際にそれが来るまでは想像できないものだったのではないか? フリージャズにまで解体されてしまったジャズのその先に何があるかなんて、ちょっと絶望的な気がしないでもなかったけれど、それでもやっぱりやる人はやるはずなのだ。
80年代に入ると私はフリージャズよりもビッグバンドを率いるギル・エヴァンスを圧倒的に好きになるのだが、ギル・エヴァンスがビッグバンドを推進させる方法論はフリージャズの発展形と言えなくもなかった。一方、フリージャズの創始者の一人であるオーネット・コールマンは独自路線で独特な音を響かせるようになっていた(去年3月の日本公演は感動したなあ!)。だから決してフリージャズは行くところまで行ってしまった、その先を持たない音楽ではなかったと思うのだが、「運動」と呼べるような“流れ”は全然生まれなかった。
というような80年代のことは今はいい。大事なことは「70年代はジャズや政治の停滞期だけれど、いずれまた新しいことが起こると考えていた」ということだ。停滞期の次に来るのだからそれは当然活気あるものであり、人間の解放へとつながる何かであるはずだった。20世紀美術を代表する画家のマルセル・デュシャンのロング・インタビューを収録した『デュシャンは語る』(ちくま学芸文庫)という本の中で、彼はこう言っている。
「私は、やがて人びとが無理して働かなくても暮らしていけるようになるだろうと期待しています。」
このインタビューは1966年になされたものだが、いつの時代までか人はみんな、未来になったら人間が労働から解放され、貧富の差もなくなると信じていたのだ。政治の時代が再びやって来るということは、そういう“明るい未来”に向かって世界が動き出すということでもあった。
70年代まで、そのような“明るい未来”を実現する具体的な選択肢はマルクス主義によって建設された社会でしかないと信じられていた。だから、音楽・美術・文学・映画……等々の芸術に関わる人はほとんど全員マルクス主義者かそのシンパだったと言っていい。21世紀の今、マルクス主義にそんな大きな期待がかけられていたなんて、信じられない人がいるかもしれないが、マルクス主義という対抗勢力がなくなってみると、グローバリゼーションがこんなにも猛威を振るっているではないか。
ひじょうに大ざっぱな言い方をすれば、近代というのは宗教を否定して、死後の世界でなく現実のこの世界を楽園にしようという世界観を持つ時代だ。科学・医学を中心とする人間のほとんどすべての営みは、自分たちが生きているこの現実世界を楽園にするための営みである。マルクス主義はそれをはっきり意識化した思想だけれど、資本主義の方だってそこはまったく同じで、「未来になったら世界はもっとよくなる」と、みんなが思っている(あるいは、「思っていた」。)
大枠としてその世界観があるから、新しい表現がつねに求められていた。いまでも「新しい」というのは褒め言葉だけれど、考えてみてほしい。どうして「新しい」というだけで褒め言葉として通用してしまうのか。「新しい」なんて、「不馴れ」とか「手になじんでいない」とか「使い勝手がわからない」とか、いくらでも悪い意味でも通用しうるのにそうはならなかった。
(話はとりとめなく広がる一方みたいですが、次回も続きます。)
シュテファン・ツヴァイク(1881−1942)も『昨日の世界』(みすず書房)という自伝の中で、第一次世界大戦以前のヨーロッパがいかにゆったりした時間に守られた世界であったかということを書いているし、指揮者のブルーノ・ワルター(1876−1962)も回想録の中で同じことを書いている。
しかしその世界は小作人や権利を守られない労働者に対する搾取の上に成り立っていた社会でもあった……。

JASRAC許諾番号:9010748001Y37021
次回更新予定日 5月31日
