Web草思
世界はこんなふうにも眺められる 保坂和志
第12回 いまや忘れられつつある“現代”
 現代音楽・現代美術・現代演劇・現代文学……などと言われるときの「現代」とはどういうことなのか? を書こうと思う。といっても、私は美術史や音楽史の専門家では全然ないし、現代美術全般に関することを体系立って教わったこともなく、ただ実際の作品に接し、いくつかそれに伴う論理を読んだことがあるだけなので、細部の正確さは保証できないが、その精神だけはちゃんと理解しているというか、いわゆる理解を超えて、体でわかっているというか、考えと感覚の全体でわかっているというか、とにかくそういう自負はある。
 “現代”というのは、ただ時間的な「いま」を指しているわけではない。英語の辞書を調べると、「現代」にはmodernとcontemporaryの2つの言葉があるが、現代芸術というときの“現代”は「近代」全般を指すmodernの方ではなく、contemporaryの方で、「同時代」とも訳される。
 そこには近代に対する批判や反省がある。しかしその批判や反省が最近、急速に忘れられつつあって、だから私がいまこうして書いている、という話なのだが、近代の何を批判したり反省したりしたのか? ということを、それを知らない人に説明するのはものすごく難しい。
 “現代”という言葉は、芸術とか表現とかにおいて、まさにキーになる概念なのだが、それがキーであればあるほど、その概念はただ辞書で調べたりインターネットでいくつか検索したりして項目として理解するレベルをはるかに超えて、時間をかけて醸成されるものなので、それを同時代的に経験していない人に説明することには、途方もなさを感じてしまう。
 近代の、重ったるさや、もっともらしさや、整然とした感じや、人間なんて中立無色透明に振る舞うことなんかできないはずなのに中立で無色透明であるかのような素振り……そういうことのすべてが嫌だったのだ。
 たとえば、去年はモーツァルト生誕250年で、
 「素晴らしい音楽は不滅だ(時代によって風化しない)。」とか、
 「天才は輝きを失わない。」
 みたいな言い方があちこちでされていたが、“現代”とは、
 「『素晴らしい音楽』って何だよ。『不滅』って何だよ。『天才』ってなんだよ。」
 と感じることだ。
 モーツァルトに対する最近の賛辞は、普遍性を疑っていない。普遍性というのは、ひじょうに荒っぽく言ってしまえば、「いいものはいい」ということであって、そこでは時代や社会や地域の差異や特性が無視されてしまっている。つまり、
 「誰がいつどこでどんな状態で聴いても、いいものはいい。」
 なんて、そんなことありうるだろうか。文章あるいは発言はたくさんの要素を背景に持つ。たとえば仮に小学6年生が、モーツァルトを聴いて、
 「素晴らしい音楽は不滅だ。」
 と言ったら、まわりにいる大人たちから失笑を買うだろう。「キミ、そんなこと言うけど、ほかの音楽を聴いたことあるの?」と言いたくなる。では、その同じ発言を一定の社会的地位を持つ文化人(と言われる人)が言ったらどうか。講演会など多くの場合、聴衆は黙って頷いているだろう。
 小学6年生だったら失笑を買う発言が文化人ではそうならないのは、彼の知識や判断力が信頼できる(と思われている)からだ。そこには講演者と聴衆の間に一方的とも言っていい力関係が生まれている。「素晴らしい音楽は不滅だ」という講演者の発言は形の上ではふつうに事実を述べる平常文だけれど、力関係の中で言われる場合、
 「素晴らしい音楽は不滅だ(ということにあなたも同意しろ)。」
 「素晴らしい音楽は不滅だ(と思え)。」
 というような命令文の意味合いを持つ。文化人の発言が、小学6年生の発言のように失笑を買わない理由は、煎じ詰めればその違いだけなのかもしれないが、この違いが重要で、力関係を背景に持つと、ただの事実にとどまらず“真理”という価値まで与えられかねないことになる。
 そこで、ふつう、たいていの人は、同じようにモーツァルトを讃えようとするときにも、少しのためらいの時間を置いてから、
 「月並みな言い方になってしまうけど、素晴らしい音楽は不滅なんだよ。」
 というような言い方をすることになる。
 「月並みな言い方だけど」。「手垢にまみれた言い方だけど」。あるいは場合によっては、「時代錯誤的な言い方しかできないけど」。??これらは、留保ということだが、「月並み」「手垢にまみれた」「時代錯誤的」という言葉の裏には、「これから言うのは空疎な表現でしかないけど」という意味がある。
 一方で文化人が講演会でしゃべった言葉は“真理”になり、もう一方でふつうの人が少しためらった後に言う言葉は、“空疎”という前提で語られる。ついでに言えば、小学6年生なら失笑ものになる。ここで一番の茶番を演じているのは誰か? 小学6年生の方ではなくて、講演会という力関係の中で得々としゃべっている文化人なのではないか? と考えたときに、“真理”というものが一気に相対化される。
 注意してほしいのだが、ここまで私はモーツァルトの音楽そのものをいいか悪いか論じているわけではない。私が問題にしてきたのは、モーツァルトに対する言い方の方だ。
 「素晴らしい音楽は不滅だ」。つまり、「いいものはいい」式の言い方は素朴すぎて何も言ったことにならない。ただし、「月並みな言い方だけど」という留保をつけた場合、「音楽そのものを前にしたら言葉は無力(に思える)」という反省的思考が働いていないわけではない。しかし、昨年モーツァルトが取り上げられた記事や番組は、多くの場合この留保が省略されていた気がする。モーツァルトの生誕250年を記念する企画なんだからあたり前だ? そんな単純なことではない。私には現代が“現代”を忘れつつある徴候のひとつに見えた。「月並みな言い方だけど」なんて留保はまどろっこしいから、そんなもの必要ない、結論だけを言ってくれればいい、と感じる読者や視聴者がいるからこそ、留保なしの「いいものはいい」式の言い方がふつうになってきた。 
 さてところで、モーツァルトの音楽のどこに問題があるのか? モーツァルトに代表されるクラシック音楽のあり方のどこかに問題がなければ、それに疑義を呈する現代音楽は出てこない。
 ──というわけで、これからクラシック音楽の具体的な“問題”を書き並べていこうと思うのだが、“現代”が忘れられつつある今、何が“問題”なのかピンとこないことが多いのではないかと思う。ある“問題”は本当に忘れられてしまったのだが、乗り越えられたり相対化されたりした“問題”もあるし、もともと的外れだった“問題”もある。読者の年齢によってはわからないこともあるかもしれないが、とにかく段落の頭に番号をつけて緩い箇条書きの感じで書き並べていくことにする。
 (1)まずクラシックの演奏にはきちんとしたコンサート・ホールが必要とされる。18世紀頃、民衆が食うや食わずだった社会の中で、税金が一部金持ちたちの娯楽を目的にして使われた結果がコンサート・ホールだ。何十人もの楽団員たちの給料も支払われ、ホールには着飾った人たちが集まり、楽団員たちもタキシードを着て演奏する。モーツァルト本人はそんなことは滑稽だと思っていたかもしれない。本当のモーツァルトのオペラは民衆相手の小さな小屋で下品な笑いを誘うようなものだったかもしれないが、全体としてみればモーツァルトは上流階級の音楽だった。
 (2)上流階級つまり社会の中心にいる人たちがクラシック音楽を聴いたということは、そこに権威が発生したということでもある。ヨーロッパにも当然各地に民衆音楽があり、ヨーロッパ全体に散らばったジプシーつまりロマの音楽もあったけれど、王立ないし国立の学校で教えられた音楽はクラシックだけだった。
 (3)他の音楽に対してクラシック音楽が権威を持ったということは、クラシック音楽の曲調が一番まっとうな音楽としてイメージされるという結果を生む。ハ長調、ト長調、ト短調、変ロ長調などの調性(キー)があって、それぞれの調性の中では和音(コード)を構成する主たる音とそうでない音に区別される。この曲調が人々のイメージの中で一番まっとうな音楽となることによって、各地の民族音楽などや伝統音楽や民謡などそれに沿わない音楽がなんとなく一段低い音楽として受けとられるという、(2)と同じことが一人一人の心の中で起こることになる。──この対比は遠近法がしっかりした絵は「ちゃんとした絵」で、アフリカや南米のプリミティブ・アートを「子どもの絵みたい」と感じる気持ちを思い出すとわかりやすい。
 とりあえず、本などを調べずに私が理解しているところを書くとこんなところだろうか? 書いてみると、特に若い人たちには“問題”としてピンとこないことだらけのように思えてくる。やっぱり、いい意味でも悪い意味でも“現代”は忘れられつつあるのだ。
 いま、民族音楽や各地の伝統音楽は決して軽く扱われていない。東京芸大でもジャワのガムラン音楽を教えたりしているのではないか。しかしそうなったのは、クラシック音楽の権威性に対抗した現代音楽の作曲家や演奏家たちがいたからであって、日本ではたぶん明治維新から1960年代くらいまでの約100年間はクラシック音楽一色で音楽界は推移していたはずだし、欧米でも事情は同じだっただろう。
 そういう状況の中で、クラシック音楽は世界各地の固有の音楽を駆逐するグローバリゼイションのような機能を果すことになる。つまり、モーツァルトを指して、「いいものはいい」なんてこれぞ“真理”のような言い方をするけれど、私たちがモーツァルトをいいと思う理由は、自分たちの祖先が長い歴史を通じて築いてきた音楽を忘れた(忘れさせられた)からではないか? ということだ。
 ところで、ジャズ、フォーク、ロック、リズム&ブルースetc.も、もとをただせばクラシック音楽への抵抗として間接的に現代音楽と響きあう形で出てきた。平たく言うと、上から押しつけられた音楽(別の言い方をすれば「その発達の歴史に自分が関わっていない音楽」)ではなくて、“自分たちの音楽”として発達した。自分たちの音楽だから、ジャズは黒人の公民権運動と結びつくことになるし、フォークは60年代の反戦運動と結びついていたし、ロックは若者全般のエネルギーが社会に対する抵抗に転化することになった(リズム&ブルースとソウルは私はあまり知識がなくてわからないが、いまやジャズやロックよりポップ・ミュージック全体がリズム&ブルースとソウルの影響を受けている。これらは公民権運動などの政治的なことでなく、黒人文化全体の価値の拡大に寄与したのではないかと思う)。
 “自分たちの音楽”という考え方を持つだけでそれが政治性を帯びていた時代がかつてあったということだ。現代音楽ではルイジ・ノーノの「力と光の波のように」という作品の中にはデモのシュプレヒコールが使われているし、高橋悠治はアジアの民衆音楽を演奏するための水牛楽団というものを作ったこともある。彼はどんなコンサートにもジーパンとダンガリーシャツというような服装で登場して、正装している人たちの中でそれだけで政治的な感じがした。
 そう、ジーパンはただのファッションではなくて、反権力の象徴でもあった。しかし個人資産が50,000,000,000ドルもあると言われているビル・ゲイツが公式な場にジーパンをはいて登場する今、1960年代を知らない人たちにジーパンが象徴していた音楽やイメージを実感しろというのは無理がある……。
 何が“現代”を殺したのか? もう少し丁寧に言うと、何が“現代”の精神を忘れさせたのか?
 ひとつには、“現代”自身が持っていた過剰な政治性だったのではないかと思う。社会全体の関心が、政治から経済にシフトしてしまったことは間違いない。公民権運動や反戦といった直接行動だけでなく、クラシック音楽を「上流階級の娯楽」「上からの押しつけ」と考える発想も含めて、政治的であることがそれだけで魅力があった時代は終わってしまったのだ。
 ある時代が終わる(過ぎ去る)というのはものすごいことで、その時代にあたり前と感じられていたことがまるっきり通じなくなってしまう。ビートルズだってそもそもの出発は、“反権力”だったのだ。解散後、ジョン・レノンは反戦や反女性差別などメッセージ性の強い歌を歌ったけれど、初期の「ラブ・ミー・ドゥ」や「シー・ラブズ・ユー」なんて好いた惚れたの歌を歌っていた時代から、音そのものが反権力で、髪型も服装もすべてが反権力だったから若者に熱狂的に支持された(と、言葉で書くだけでは何も伝わらないけれど、初期ビートルズ〔60年代〕や初期プレスリー〔50年代〕のコンサートの映像を見ると、そこには主催者側が制御しきれない、デモ行進以上の熱狂があって、コンサートが反権力そのものだった感じがかなりわかるのではないかと思う)。
 もうひとつは、“現代”の持つ難解さだ。“現代”がいきいきとしていた時代でさえも、現代音楽とか現代美術なんて言葉は、「難解」の代名詞のようだった。今では難解であったということさえも忘れられつつあるのだが、現代音楽や現代美術が好きな私から見ても、「行くところまで行ってしまった」感じが強く、「その先に何があるんだろう」と思わないではいられない。
 もっとも、現代音楽や現代美術を“難解”と人に思わせたのもまた、それ以前のいわば近代の勢力によるプロパガンダの成果だったという考え方もできなくはない。「音楽とは娯楽なんかではなく、その後の人生を決める強烈な体験なんだ」という考えがもし広くもたれていたら、誰もが一度はルイジ・ノーノの「力と光の波のように」やヤニス・クセナキスの「メタスタシス」を聴いてみて、本当にそっちの方に人生を方向転換した人が案外たくさん出てきたかもしれない。美とは整然としただけのものではなく必ず混沌をはらむものだということが、小学校や中学校で教えられていたら、現代美術はもっとずっと受け入れられていたのではないか。
 それにまた、本当の表現というのは「行くところまで行ってしまった」「その先に何があるんだろう」と受け手に感じさせるようにできているものであって、そこまで行けたからこそ作り手は次の作品に対して本気になることができる。そう考えた場合、現代音楽や現代美術の「行くところまで行ってしまった」感は欠点ではない。あまりストイックにならず、性急に結果を求めず、もっとゆっくり気楽にその先の展開を待つべきだったのではないか(いや、現代音楽も現代美術も終わったわけではないので、過去形にするのは間違いだが)。
 “現代”を殺したのは、ポップ・カルチャーなのではないか? 「上からの押しつけ」でなく“自分たちの音楽”として出発したものが、政治の時代が終わり経済の時代にシフトしたことで一気に巨大産業となった。“自分たちの音楽”と言っても、それが“上からの押しつけ”に対する抵抗・反権力の意味をも持っていたときには、“自分”とは等身大のただここにいる自分のことではなくてもっと大きなものだった。しかし「上からの押しつけ」がなくなってしまった後には、実も蓋もない等身大の自分しか残らなかった……。「いいものはいい」という歴史意識の欠如は、等身大の自分とたぶん同じことだ。
 ……しかし。
 これもまた市場原理という経済を経由しての判断にならざるをえないという留保つきではあるが、あと20年か30年したときに、ジャズで残っているのはマイルス・デイヴィスだけなのではないか。
 50年代か60年代か忘れたが、マイルスは自分のバンドに白人を加入させて、黒人たちから裏切り者よばわりされたときに、
 「白人のあいつよりいいミュージシャンがいれば黒人を使う。」
 と答えた。つまり、「いいものはいい」ということだ。他の全員が、黒人という政治性・社会性にとらわれていたときに、マイルスは音楽性だけを見た。そして、そのマイルスの音楽が、その後のブラック・ミュージックの方向を決定づけるほどの影響力を持ち、ジャズとしても彼だけが残ることになった(まだそう決まったわけではないが、きっとそうなるだろう)。
 クラシック音楽では、私自身としては現代音楽の先駆的役割を果たしたバルトークが20年以上にわたって好きで、モーツァルトに思い入れはないけれど、モーツァルトを否定しようとは思わない。
 音楽を政治や歴史など付随するいろいろな要素ぬきに、純粋に音楽として聴く環境が、いま生まれたということなのかもしれない。しかし、そんなことが本当に可能なのだろうか?
 “現代”の精神が忘れられつつある問題はいろいろに絡み合っていて、政治の時代のような教条主義的な答では答にならない。というわけで、次回は文学中心に“現代”のことを書こうと思う。

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