Web草思
世界はこんなふうにも眺められる 保坂和志
第9回 「いじめ」は単純に語れない
 いじめのことを書こうと思う。
 この文章が掲載される12月末までいじめ問題がマスコミをにぎわしているかはわからないが、いじめは何年かに1度ずつ半ば定期的にマスコミの話題になっているから、たとえば1年前の耐震偽装問題とか4月か5月頃に一瞬話題になった和田画伯の盗作問題のように忘れ去られるということはないだろうし、仮にマスコミから消えたとしても学校とその周辺で常時問題になりつづけていることは間違いない。
 いじめ問題で文部科学大臣や文部省の上の方の官僚や都道府県の教育長なんかがマスコミに登場してくると、私には「(話題になったから)しょうがなくでてきた」と言っているようにしか見えなかった。万引きでも浮気でも、談合でも贈収賄でも、ほとんどの事件はそうなのだが、見つかるまで本人は悪いと思っていない。見つかって追求されると「悪いとは承知していた」と口では言うが、本心では悪いとは思っていない。
 それはもちろん「見つかったら大変だ」という思いがあるから隠れてこそこそやっているわけなのだが、逆の言い方をすれば「見つからなければ大変なことにはならない」ということであって、本当の意味での〈善?悪〉とはだいぶ違った判断しか働いてない。つまり、神や自分の良心に照らして断固動かない〈絶対的な善悪〉でなく、見つかるかどうかという人任せの〈相対的な善悪〉ということだ。
 そんな言い方をしてしまったらすべてが〈相対的な善悪〉にしかならなくなってしまうか? そんなことはない。たとえば殺人は〈絶対的な善悪〉だ。ものを創る人間にとって盗作も〈絶対的な善悪〉のうちに入る。それはもちろん和田画伯のようにボコボコ盗作する画家もいるけれど、そういう人は画家として破綻しているというか、絵を描くということがどういうことなのか最初からわかっていない。彼にとって絵を描くということは、世界と人間の関係を考えることではなくて、賞をもらったり権威ある団体の会員になったりして有名になることでしかなかった。何しろ人の絵をそのままパクッたって描く喜びがない。一番の問題はそこだ。
 殺人だって戦争では大っぴらに人を殺して、たくさん人を殺したり敵の戦闘機を撃ち落したりした人が勲章をもらってしまったりするわけだが、戦争という前提がそもそも間違っているのだから、そこで起こる行為や賞罰は意味をなさない。
 例によって話が横に逸れてしまって、ついでにこれでは〈絶対な悪〉はいけないが〈相対な悪〉はまあ許されると言っているように聞こえかねないが、相対的絶対的という違いはあくまでも〈善?悪〉を判断する当人の心のメカニズムの問題であって、人間の中には、見つかるかどうかという他人の目を介在させないとスルーしてしまう程度の悪いことと、他人の目など介在させなくても絶対にしてはいけないとよくわかっている悪がある、ということだ。
 そして(ここでやっと本題に戻るのだが)、いじめ問題でマスコミの前に出てきた文科大臣はじめ教育関係の偉い人たちを見ていると、いじめ問題を〈相対的な悪〉ぐらいに考えているようにしか見えないのだ。彼らの発言や態度には説得力というか、聞き手を共鳴させる力がない。コンサートやライヴハウスで客を立ち上がらせるあの力だ。それがまったくないし、彼らには最初からその気がない。
 いじめによる自殺の連鎖がはじまって、次に文科大臣あてに自殺予告の手紙が届いたとき、文科大臣はその手紙を書いた子にテレビで呼びかけるのに、あきれたことに下を向いて原稿をただ読んだだけだった。誰かを励ましたり叱ったりすることに原稿を読む人がいるだろうか!
 「下手でもいいから自分の言葉でしゃべれ」という決まり文句は、こういうときのためにある。呼びかけ・語りかけで大事なのは中身でなく肉声なのだ。歌と同じことだ。後になって思い返したら馬鹿みたいなことでも、そのときには力を持つのが呼びかけだ。
 文科大臣がそんなことをするから、都道府県の教育長まで油断して原稿の棒読みをした。
 「何も俺がこの地位にいるときにこんな問題が起きなくたっていいじゃないか。」
 下を向いて原稿を読むおじさんたちからは、そういうメッセージしか伝わってこなかった。これは、大臣の立居振舞にまできちんと注意を向けて、「呼びかけをするのに原稿読むのはまずい」ということをアドバイスできるスタッフがいないことをあらわしている。そのスタッフというのは教育行政をふつうの生徒・保護者・教師の目で見ることができる人という意味でもある。
 今回のいじめ→自殺の連鎖は問題が大きくなって、小・中・高の各学校にまで文科省からの呼びかけの文書が送られて、それが生徒に渡されたらしい。鬱病の人に「元気出しなよ」と言うような、横断歩道も信号もない幹線道路を「気をつけて渡りましょう」と言うような、いかにも通りいっぺんのその場しのぎでしかないが、これによって現場の教師にはいっそうのプレッシャーがかかることになるだろう。教師の監視によっていじめは一時的には減るかもしれないが(もし減ったら、文科省は「効果があった」と馬鹿なことを言うだろう)、さらに陰湿になるだろう。
 じゃあ対策は?
 そんなに批判するんだったらおまえにはちゃんと考えがあるんだろうな?
 と言われても私には対策は思い浮かばない。いじめは社会全体の歪(ひずみ)の顕在化のひとつなのだから、教室の中や学校単位の努力でどうにかなるとは思えないのだ。
 都内の区立中学に通っていた私の友人は(私の友人だから1970年代前半のことだが)、クラスが高校受験の体制にシフトした中3の2学期にいじめが始まったと言った。私の友人はその標的となり、ロッカーに閉じこめられて倒されたり橋から突き落とされかけたりした。そのいじめの中心になった生徒は、教師による受験校のランク付けで私の友人よりひとつ下のランクに入れられた子だったそうだ。
 まあそれでも私の友人の場合は受験が終わるまでの短期間のいじめで済み、受験も無事に通り、都の学校群の振り分けによってあんまり希望しなかった高校に通うことになったそうだが、その高校というのがタガが外れたほど自由で、制服も髪型も校則も本当に何の束縛もないことで知られた都立高で、そこでは3年間を通して1度もいじめやそれに類したことはなかったそうだ。(ついでに言うと、当時の都立高というのはそれぞれに強烈なカラーを持っていて、教師の転任もほとんどなかった。)
 この話はひじょうにわかりやすく、子どもにストレスをかける環境がいじめを引き起こすということを物語っている。しかし、今は全体として話はもっとずっと複雑になっている。
 60年代末から70年代前半にかけて、日本中の高校生たちが自治会を作って学校と交渉してやっと勝ち取った「制服廃止」の流れがいつからか止まって、高校生たちは自分から制服を着るようになってしまった。自由というのはそれを勝ち取った者にとっては特別なものだが、次にやって来る者にとってはふつうに目の前にあるあたり前の日常であってありがたみがない。それで「毎日私服いろいろ考えるより制服の方が楽」というファッションの問題にすり替わってしまう。もともとは政治の問題だったのに。
 これは高校生にかぎらない。普通選挙法だって、昔の人たちがせっかく苦労して手に入れてくれたものを私たちはありがたいとも何とも思っていない。
 話を戻して受験のストレスということで言えば、少なくとも首都圏では小学4年生からの塾通いが標準となりつつある。受験は一過性のものでなく、学校生活のほぼ全時期を被いつつある。2004年に芥川賞を最年少で受賞した綿矢りさの『蹴りたい背中』には高校生の交友関係の息が詰まる感じが見事に書かれている。高校在学中に『インストール』(これも高校生が主人公)でデビューした綿矢りさがすでにもう大学生になっているのに、第2作として高校生のことなんか書いてちゃダメだよ、というのが私の作品全体に対する評価だが、あの息苦しさのリアリティは高校を取材したノンフィクションがいくつ書かれたとしてもかなわないだろうと思う(で、小説家としては、その息苦しさを疑わずに書いてしまっているところが嫌なのだが(もっともまるっきり疑っていない人にはそんなことを書けやしないのだが))。
 高校生のつき合いがあそこまで息苦しくなっているとしたら……、本当にもう1年や2年でどうすることもできないが、だからこそ、文科省には各学校に文書を送りつけるぐらいで何か手を打ったとは考えてもらいたくない。
 日本では自殺者が年間3万人(!)を超えている。いじめ→自殺が問題として急浮上するとあたふたとその場しのぎの対策を講じてみせるけれど、年間3万人の自殺者の問題は社会全体で放置している。そういう現状を、いじめられている子どもたちが知らないはずがない。仮に新聞やテレビのニュースを見ないような社会に疎い子どもであっても、自殺者の問題を放置している冷ややかな社会であることは敏感に感じているはずだ。
 弱い者・失敗した者・行き詰った者は救われない。いまの社会は全体でそういうことを語っているわけで、いじめ→自殺を単体としてクローズアップするのは、社会全体で起きていることをむしろ隠すようにしか作用しないのではないか?
 学校はあなたの一部にすぎない。勉強やクラブ活動なんかもちろん一部でしかない。「あなたは何よりも人間として肯定されている」という強い肯定を作り出すのはどうすればいいのか? いじめをする側だって自分に対する肯定感から身近な人間を否定するという屈折した形で、自分への肯定を作り出そうとしている。
 しかし、そういう肯定感を作り出すことこそ10年20年かかる……。
 もうずいぶん前のことになるが、侯孝賢(ホウ・シャオシェン)という台湾の映画監督が撮った『恋恋風塵』を観たとき、私はひとつのエピソードに新鮮な驚きを持った。
 休日に繁華街にオートバイの2人乗りで若いカップルがデートしに行くのだが、夕方になって停めていた場所に戻るとそのオートバイが盗まれている。
 それのどこが新鮮なの? と思うかもしれないが、映画や小説やドラマの中で、主人公がオートバイや車を気安く盗むことはあっても、盗まれる側になることはほとんどない。その流れは、ゴダールが1959年に撮った『勝手にしやがれ』の中で、ジャン=ポール・ベルモンドが気安くひょいひょい車を盗んで以来、止まらなくなったものではないかと思う。
 もし主人公が盗まれる側になるとしたら、観客を泣かせたいだけのヒューマン・ドラマか、被害者の痛みを知らせるというメッセージ性が強い社会派ドラマか……。いずれにしても、侯孝賢のように正しくヌーヴェル・ヴァーグ以降と位置づけられうる映画で、主人公を盗む側でなく盗まれる側に置くことはめったにない。
 何が言いたいの? と思うかもしれないが、映画や小説やドラマを作るとき、作り手は当然のことながらすべての立場や視点を網羅することはなく、かぎられた立場や視点だけを選ぶことになる。そのときに、オートバイを盗む側のある種の軽さを描くことはOKでも、盗まれる側を描いてしまうと重ったるさが入ってしまって作品としてのバランスを壊すことになってしまう。だから盗まれる側の視点はスルーされることになる。??すごく大ざっぱな言い方をすれば、「不良はカッコいい」ということだ。
 少し専門的(?)なことになってしまうが、盗まれる側を描くと、作品が変な風に意味を持ってしまうのだ。盗まれる側を中心に描いて「ヒューマン・ドラマ」なり「社会派ドラマ」なりのラベルを貼られてしまうことは、商業的に成功したとしても、ジャンルとしての衰退を意味する。
 『恋恋風塵』では、オートバイが盗まれるエピソードが、重ったるい意味を与えられずに映画の中に見事にはまっていた。そこには主人公を規定していたあるモード(様態)からの脱却がある。「カッコよくなくても主人公になれる」ということだ。
 文科省が呼びかけたって1年や2年ではどうすることもできないと私は書いたけれど、映画や小説やドラマに違うモードを持ち込むなんて、人間に対する肯定を作り出すのと同様、10年たっても20年たってもできないかもしれない(しかし、1人の天才があらわれれば、その瞬間に変わるかもしれないのだが)。
 しかし、オートバイを盗まれたり学校でいじめられたりする弱い立場のエピソードを入れて、それでも作品全体としてはそのエピソードに引きずられないようにすることを、作る立場にいる人間としては考えるべきなのではないかと思う。
 人間というのはある抽象を自分の心に持つことによって生きている。「金持ちになりたい」とか「カッコいいと言われたい」とか「不良はカッコいい」とか「スケボーがうまいのはカッコいい」とかそういうようなことで、こういう風に言葉にしてしまうとじつにくだらなく見えるかもしれないが、人間なんて案外そういう幼稚なところで生きているものなのだ。
 映画や小説やドラマはその抽象に働きかけ、場合によってはその基準を作り出す。映画・小説・ドラマが弱い立場のエピソードをきちんと入れていくと、人の心の中にある抽象が単純なものではなくなるはずなのだ。
 何を言ってるのかわからない? いじめの解決策にはならない? もっと明快にわかりやすく書け?
 大人の側のその単純さや性急さが子どもの環境を悪くしていることだけは間違いない。私は「10年たっても20年たっても……」と書いたけれど、時間がかかるからといってすぐに効果があらわれるようなことしかしていなければ、状況はさらに悪くなるだろう。

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