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世界はこんなふうにも眺められる 保坂和志
第6回 私が「ぶり」にこだわる理由
 込み入った話がつづいてしまったので、たまにはあっさりと「最近の言葉の乱れ」について書こうと思う。といっても、私は基本的に言葉の乱れをただしたり嘆いたりしない。言葉というのは時代とともに変化するものと思っているからだ。
 たとえば90年代半ばだったと思うが、可能の意味の「見られる」を「見れる」とする「ら抜き」言葉と、「きのう?カラオケ?行ってきました」みたいな「語尾上げ」のふたつについて、「間違っている」「不快だ」「おかしい」などさかんに新聞・雑誌のコラムに書かれていたが、私は「言葉っていうのはそういうものだ」としか思わなかった。(その当時は、滑稽なことに「ら抜き」はいいが、「語尾上げ」はダメだというコラムがあったり、「ら抜き」は文法上あってはならないが「語尾上げ」はしょうがないというコラムがあったりもした。)(ついでにいうと、「『きのう?カラオケ?行ってきました』みたいな」のところで書いた、いかにも雑な「みたいな」の使われ方がするようになったのも90年代に入ってからだったということを、記憶していますか? ふつうだったらここの「みたいな」のところは「というような」とでも書くところです。)
 話を戻すと、90年頃には「ら抜き」はすでにしゃべり言葉ではかなりふつうになっていた。だから私はデビュー作の『プレーンソング』(1990年刊)の中でよう子ちゃんという登場人物に「いいな。見れて」という台詞をしゃべらせていたのだが、雑誌掲載のときも単行本にするときにも、校正者から「見られる」と訂正され、そのたびに「見れる」に戻していた。たぶんいまではもう「見られる」と訂正する校正者はいないだろう(少なくともしゃべり言葉では)。
 菊地康人という日本語学者が書いていた、「ら」が入ると可能よりも受け身を連想しがちなために、紛らわしさを避ける配慮からも可能の「見られる」から「ら」が抜けるのは実際面で合理的だとも言える、言葉はそのようにして時代とともに変化してきた、という意見が一番まともだと思う。
 ちなみに上の一文も最近ではこのように書かれることが多い。
 菊地康人という日本語学者が書いていた、「ら」が入ると可能よりも受け身を連想しがちなために、紛らわしさを避ける配慮からも可能の「見られる」から「ら」が抜けるのは実際面で合理的だとも言える。言葉はそのようにして時代とともに変化してきた、という意見が一番まともだと思う。
 どこが違うかって? 1ヵ所「、」が「。」になってる。この1文の構造は、英語式に考えると関係節を使った複文になっているから、「、」の箇所を「。」にしてしまったらセンテンスとして完結していなくなってしまう。私は嫌だけれど、それも時代の変化ならしょうがないのかなと思う。「でも、そんな『。』の打ち方に馴れてしまうと論理的で長いセンテンスを読めなくなってしまうんじゃないの?」とは思う。しかし、もっと長いセンテンスの場合、「。」もありか、とも思う。
 論理的うんぬんといったところで、論理は結局のところ文の構造からだけで理解するものではなくて、内容を心の中に定着させることによってしか理解できないのだし。そして驚いたことに、永井荷風の小説にも「、」であるべきところで「。」を使っていた例を見つけた。私は荷風が大好きだから「荷風にそうされたのでは文句も言えないなあ……」と思ってしまう。フランス語に精通していた荷風は「日本語には複文はない」と思っていたのかもしれない。
 「語尾上げ」の方は最近聞かなくなったような気がするが、どうなんだろう。中年女性で相変わらず過剰に語尾を上げまくっている人はたまにいるが、全体としてはもっと平板なしゃべり方になったように思う。??以上は、今回の前振りであって、本題はこれからだ。
 私が最近、「糾すべきだ」と思っている言葉の乱れがふたつある。
 ひとつ目は「ぶり」。「4年ぶりの優勝」というときの「ぶり」だ。
 プロ野球で2001年に優勝したチームが2005年に優勝すると「4年ぶりの優勝」と新聞・テレビは言う。この「ぶり」は間違っている。
 「5?1=4」で一見正しいように見えるんだけど、このチームが優勝していないのは、2、3、4の3年だけだ。いまの「ぶり」の使用法でいくと、2年連続優勝は「1年ぶりの優勝」ということになってしまうわけだけれど、さすがに新聞・テレビもそうは書かない。まあ、「連続」の方がインパクトがあるから、仮にいまの「ぶり」の用法が正しかったとしても「1年ぶりの優勝」とは書かないだろうけれど、「1年ぶりの優勝」という言い方をしてみると「ぶり」の使い方がおかしいことがピンとくる。
 自然数には「0」がない。それと同じ理由か別の理由かは知らないが、“数え年”には「0歳」がなく、生まれたらいきなり「1歳」になる(「1歳」より「当歳」という言い方の方が正式みたいだが)。だから「ぶり」には「0」と「1」がない? そんなバカな!
 ただし、優勝というのをいわゆる胴上げの瞬間という風に解釈するならいまの「ぶり」でもしょうがないことになるけれど、優勝というのはシーズン全体を指して言っているはずだ。
 それでついには2005年の秋には、「巨人軍原監督 3シーズンぶりに復帰」という言い方まで出てきてしまったわけだけれど、これはもうどこから見てもおかしい。
 原は2002、03年の2シーズン監督をやって、04、05年の2シーズン堀内が監督をやって、06年からまた監督に戻った。ここでも新聞・テレビは「6?3=3」という引き算で「ぶり」を使ってしまったわけだが、原が監督をしていないのは3シーズンではなくて2シーズンだ。
 思うに、「ぶり」というのは、期間を指す単位の階層が違うときに使うべき言葉なのではないか? まどろっこしい言い方になってしまったが、「1年ぶりに焼き肉を食べた」という言い方は正しい。そのとき、「1年」の下にある「月」「週」「日」という単位が「ぶり」を支えて(?)いる。
 焼き肉は毎日でも食べることができる。ある人は週に1度かもしれないし、他の人は月に1度かもしれない。とにかくそのように「年」よりも短い単位でそれが起こりうるという前提があるから、「1年ぶりに食べた」という言い方が可能になるというか、保証されるというか。
 だから、怪我で欠場していた選手が「2ヵ月ぶりに試合に出場した」という言い方は間違っていない。選手は毎日試合に出るのがふつうだから、「日」よりも単位の大きい「ヵ月」に「ぶり」がつく言い方が通用する。でもそれが「日」のときに使われて、「2日ぶりに試合に出場した」と書かれると(「日」より下の単位はないのだから)、私は休んだのが1日なのか2日なのかわからなくなってしまう。いまの新聞・テレビの使い方では、火曜に出た選手が木曜に出ると「2日ぶり」になってしまう。この用法はあきらかに気持ちに反する。
 オリンピックやサッカーW杯でも「2大会ぶりの優勝」と言うときには、前々回に優勝していることになる。これも明らかにおかしい。
 ひとつ目はここまでにしておく。しかし、これだけ書いてやっぱり私は、言葉の乱れを糾したり嘆いたりするのは「不毛だ」という気持ちが強くなって、ふたつ目を書く気が失せてしまった。
 「ぶり」ひとつを例にとっても、その使い方に何も疑問や違和感を感じていない人にそれを伝えようとすることが、私にはやけに疲れ、疲れるわりに得ることがあるように思えない。だいたいこれだけの説明で、「ぶり」に何の違和感も感じていない人に、いまの使い方のおかしさが伝わったという実感も、こちらにはないのだが、これ以上書いたところでどうなるものでもない……。
 ただ、「ぶり」には“空白期間”を指していた本来の意味が、数字の引き算にすり変わってしまった嫌な感じが私にはつきまとう。言葉というのは、使う人間の気持ちを離れて、言葉として一人歩きしてしまう面があり、そこに無頓着でいることが私にはどうにも容認できない、と言えばいいか。
 先日あるエッセイでこういう箇所があった。小津安二郎の『長屋紳士録』(1947年)という映画の中で、役者がしゃべる江戸の下町言葉が快いというエッセイで、「まあ、出たいところだね」という台詞について、その著者はこう書いていた。
 「私は『まあ、出たいところだね』の一言に何だかとても懐かしい言い回しを聞いたように思い、すっかりシビレてしまった。」
 これを読んだら、筆者が東京の人だと思わないだろうか? そんなことを感じてしまうのは私だけだろうか?
 私の妻は浅草生まれだから、下町言葉にうるさい。テレビを見ながら私が「この人のしゃべり方、下町だなあ」と言うと、「これはちゃんとしてない」と、たいてい却下されてしまう。そして、本当の下町言葉を聞いたときには、「ああ、こういうおじさんが小さい頃、いっぱいいた」と感激したり懐かしがったりしている。
 私がそういう人間と一緒にいるために、この文章を読んでうっかり筆者を東京の人と早トチリしてしまった、ということだろうか?
 経歴を調べるとこの筆者は埼玉県生まれで、高校も埼玉の高校を出ている(ちなみに1946年生まれ)。生まれは埼玉ではあっても、すぐに東京の下町に転居して、中学ぐらいで埼玉に戻ったのかもしれない。あるいは、この筆者には下町言葉でしゃべるおじさんかおばさんがいたのかもしれない。せめてそれぐらいの関係が下町となかったら「懐かしい言い回し」というのはおかしいんじゃないか。
 そうでなければ「懐かしさ」が“ディスカバー・ジャパン”的なフィクション(作られた幻想)になってしまわないか。いや、実際にはほとんどの人たちが自分が生まれる前にあった時計や人形に「懐かしさ」を感じているわけだけれど、ここは敢えて文章を書く人間として、言葉と気持ちの接合点だけはいい加減に扱ってはいけないと私は思うのだ。
 そうしないと作られた幻想を、自分自身の経験や自分自身が感じたことと簡単に錯覚してしまう。いわゆる大文字の歴史として書かれている「戦争」が、直接の体験者である人たちから聞いていた戦争と違っているのに、それがまかり通ってしまうようなものだ。私が「ぶり」にこだわる理由も原理としてはそれと同じことなのだ。

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