〈単行本第三冊にあった「ぶしょうひげ」は、この文庫本では全文を削った。
この、ぶしょう(不精)、ぶきみ(不気味)、ぶさいく(不細工)、ぶきりょう(不器量)等の語の「ぶ」には、従来「不」を書くのがふつうであった。
ところが戦後の「当用漢字音訓表」で「不」の音は「ふ」のみを認める、ときめたために、これらの「ぶ」がいっせいに「無」に書きかえられることになった(ただし「不祝儀」などどうしても「無」にはしにくい二三の語を例外として)。それが、昭和四十八年の「当用漢字改定音訓表」で「不 」を許容することに改めたので、もとにもどした人もありもどさぬ人もあり、「不精髭」と「無精髭」とが並びおこなわれている。そういう現状をのべて、文部省の朝令暮改を批判したものであった。
それはその通りなのであるが、むかしの書物には「無」を書いたものもすくなからず見かける(たとえば『平家物語』巻八に「この身こそ無器量に候へば」とある)。
この問題は、たとえば、いつごろから、どういう語において、「不」にブの音が生じたのか、また、「不 」は「無 」に由来するのか、それとも「不 」が強調で濁音化して「不 」になったのか等、考察せねばならぬことが種々ある。それには相当多くの材料を集めねばならぬようである。「あとからひとこと——」で必要な補充を加えるには問題が大きすぎ、またとても間にあわぬので、いったん削って後日を期すことにした。〉
この、ぶしょう(不精)、ぶきみ(不気味)、ぶさいく(不細工)、ぶきりょう(不器量)等の語の「ぶ」には、従来「不」を書くのがふつうであった。
ところが戦後の「当用漢字音訓表」で「不」の音は「ふ」のみを認める、ときめたために、これらの「ぶ」がいっせいに「無」に書きかえられることになった(ただし「不祝儀」などどうしても「無」にはしにくい二三の語を例外として)。それが、昭和四十八年の「当用漢字改定音訓表」で「
それはその通りなのであるが、むかしの書物には「無」を書いたものもすくなからず見かける(たとえば『平家物語』巻八に「この身こそ無器量に候へば」とある)。
この問題は、たとえば、いつごろから、どういう語において、「不」にブの音が生じたのか、また、「
上のごときしだいで、この「
ともかくまず、いまつまり二十一世紀初めごろ現在で、人がふつうに口にしたり文章に書いたりし、書く時は「不——」と書くのが通常である「ブ——」のかたちの語をしもに列挙してみよう。
不恰好(不格好をふくむ)
不気味
不器用
不器量
不細工
不作法
不様
不祝儀
不精(不精ひげ、筆不精などをふくむ)
不粋
不調法
不風流
不用心
あと一つ二つあるかもしれないが、どっちにしても十いくつというところで数はすくない。しかしひんぱんにもちいられることばが多い。意味内容はみなマイナス概念である。これは、「不気味
不器用
不器量
不細工
不作法
不祝儀
不精(不精ひげ、筆不精などをふくむ)
不調法
不風流
不用心
これらはたいていみな、以前は「不——」と書かれ、戦後三十年ほどは文部省が「不」にブの音を認めなかったので「無——」になり、現在はおおむね「不——」にもどっているものである。ただ、「無——」の時期に学校へ行った人のなかには、その時の習性で「無器用」「無作法」「無用心」などと書く人が相応にあるかもしれない。
つぎに、これらの語を、江戸時代ないしそれ以前の文献ではどう書いているかを『日本国語大辞典』でしらべてみよう。
| 不 | 恰好—中華若木詩抄(一五二〇ごろ)「太不恰好ことあり」(高島注、太はハナハダ)。葉隠(一七一六ごろ)「不恰好の時は」。 |
| 不 | 気味—浮世草子・風流曲三味線(一七〇六)「不気味(フキミ)ながら有がたし」。歌舞伎・御摂勧進帳(一七七三)「不気味であった」。滑稽本・八笑人(一八二〇—四九)「ぶ気味に思って」。 |
| 不 | 器用—東野州聞書(一四五五ごろ)「歌道無器用」。假名草子・浮世物語(一六六五ごろ)「殊の外に不器用なり」。 |
| 不 | 器量—平家物語(十三世紀前)「無器量の者」。十善法語(一七七五)「不器量なる」。 |
| 不 | 細工—日葡辞書(一六〇三—〇四)「Busaicu」。俳諧曾我(一六九九)「不 細工に」。洒落本・箱まくら(一八二二)「無細工な」。 |
| 不 | 作法—わらんべ草(一六六〇)「必ぶさほうには」(高島注、必はカナラズ)。武家義理物語(一六六八)「下人の不作法(フサホウ)とは」。書言字考節用集「無作法(ブサホウ)」。浮世風呂(一八〇九—一三)「無作法(ブサホウ)なやつ」。 |
| 不 | 様—長唄・后の月酒宴島台(一八二八)「こんなぶざまの」。 |
| 不 | 祝儀—浮世草子・傾城色三味線(一七〇一)「不祝儀な事あって」。 |
| 不 | 精—清原宣賢式目抄(一五三四)「ふしゃうにあらざる忠」。運歩色葉(一五四八)「無性フシャウ」。日葡辞書「Bux |
不粋。例略す。音はブスイ、字は不粋、例はすべて江戸時代になってからのもの。
不調法。例は省略するが、多い。「無調法」と「不調法」と半々くらいである。
不風流。「無風流」「不風流」一例づつ。
不用心。「不用心」二例、「ぶようじん」一例、「無用心」一例。
みな口頭語であるから、資料も通俗なものが多い。また、書いた人が「無」か「不」かの問題にはさほど留意していないものが多いように見うけられる。
「
結局文庫本あとがきの、
〈「不 」は「無 」に由来するのか、それとも「不 」が強調で濁音化して「不 」になったのか〉
を一歩も出ていない。「その両方がありそうです」というだけのことである。この問題は、専門の研究者がしらべても明快な結論は出ないと思う。資料には「ふ」と「ぶ」、「不」と「無」が入りみだれて出てくるし、その資料も「ふ」と書いてあるから発音は「フ」だともかぎらない。濁点を省略することは甚だ多いからである。特に「ふ」は「不」の崩し字なのかかな文字なのか判定のむづかしい例も多かろう。
それに「ブ」はかならずしも「フ」の濁音だとも言えず、もしかしたら「ム」の濁音なのかもしれない。
江戸時代およびそれ以前においては、一部のマイナス概念の語は、「無」と「不」とが渾沌状態であり、近代になってそれがほぼ「
おわび。
筆者現在心神状態甚だ不振につき、この連載しばらくお休みさせていただきます。勝手の段深くおわび申しあげます。
