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新・お言葉ですが… 高島俊男
第4回 歌はみんなのもの
 東京大田区の後藤延一さんが、毎日新聞夕刊(07.2.14)の、文化欄記事の切りぬきをお送りくださった。東大渡辺裕教授の〈考える耳 西洋基準押しつける著作権意識 失われる日本の「替え歌文化」〉。
 これはよかった。共感して、くりかえし読んだ。
 日本にはむかしから替え歌の伝統がある。替え歌が、あるいは替え歌のみが、日本の音楽にほかならぬ、という趣旨である。

 〈日本にはもともと強固な「替え歌」の伝統があった。というよりもそもそも、「替え歌」に対して特権的な位置を占める「オリジナル」が存在するという考え方自体がなかった。〉

 言われてみればたしかにそうだ。ひと口に「美術・音楽」と言うが、日本では美術と音楽とは性格がちがう。絵には作者があり、しばしば落款がついているが、「佐渡おけさ」や「会津磐梯山」には作曲者名はない。だれも、これはオレの曲だ、と主張していない。

 〈歌詞と旋律とが一対一でひとつの「曲」をなすという考え方自体、西洋的なものであり、同じ旋律を共有財産として使い回す伝統が生きていた時代の日本文化にはまだ縁遠い感覚だった。〉
 〈原作者の権利ばかりを主張することは、西洋的な「曲」の概念をもってそれとは成り立ちの違う様々な文化を裁こうとする、西洋基準の押しつけという側面をもっているのだ。〉

 日本の文化と西洋の文化とは、そもそも成り立ちがちがう。根本的な性格がちがうのである。
 しかるに明治初め以来の日本は、社会を全面的に西洋化しただけでなく、従来から日本にあるものにも、西洋のモノサシ(渡辺教授の言う西洋基準)をあててその寸法をはかる習性を身につけてきた。いま、伝統行事だとか伝統藝能だとか言われるものも、西洋的なモノサシではかられ、西洋的な枠組みのなかに位置をあたえられて生きのびているのである。
 社会のものごとだけでなく、人々のものの考えかたもすっかり西洋型になっている。わたしという一人の人間をとってみても、形は日本人だが、頭のなかはすっかり西洋人である。ただわたしは、「日本文化は本来西洋文化とは性格がちがうのにモノサシは西洋ものしかないんだよなあ」ということに違和感と不安をいだいている。一般の人は、自分の頭のなかまでことごとく西洋化していることに無意識である。
 そう考えているところへ渡辺教授の文章を読んで、そうか、歌に関しては、すくなくとも六十年くらい前まで、日本文化固有の感覚が生きながらえていたのだ、と膝をたたいた。
 かつての日本人は、歌とは公共のものと思いこんで疑わなかった。だから西洋音楽を学びはじめた際も、初期の日本の唱歌はみな西洋の曲の使い回しだった。If a body meet a body coming through the ryeを「夕空晴れて 秋風吹き」とまるでちがう歌詞で歌ってだれもあやしまない。
 従前は、ちょっと知られた歌にはたいてい替え歌があって、たとえば「山のさびしい湖に一人来たのも悲しい心」を「昨日生まれた豚の子が蜂にさされて名誉の戦死」と歌ったものだ。それを戦後の知識人は「軍部に対する抵抗」などともったいぶって言ったものだが、なに、ただの替え歌だったのである。死ぬことを「名誉の戦死」というのは、ちょっとふざけてものを言う時のありふれた表現だった。歌は、ひとたび公表されればもうみんなのものだったのだ。

 渡辺教授は、内田吐夢監督の映画「たそがれ酒場」の一場面を例にあげて言う。

 〈戦時中の華かな時代をなつかしむ元将校たちが、窓の外から聞こえてきた歌に唱和して《万朶ばんだの桜》という軍歌を歌い出す場面は象徴的だ。実はこの歌は旧制一高寮歌《アムール川の》の替え歌で、他にもいろいろな歌詞のものがある。外から聞こえてきたのはデモ隊の歌う別の替え歌《聞け万国の労働者》の方で、軍歌は間もなく労働歌の響きに押しつぶされる。〉

 いまの人のなかにはこれらの有名な歌をごぞんじないかたがいらっしゃるかもしれないので、それぞれ一番のみをかかげておく。曲は省略するが、聞けば多分だれでもおぼえのある、勇壮軽快な行進曲風の曲である。
 まず「歩兵の本領」。「万朶の桜か襟の色 花は吉野に嵐吹く 大和男子おのこと生れなば 散兵線の花と散れ」
 つぎに一高寮歌。「アムール川の流血や 氷りて恨結びけむ 二十世紀の東洋は 怪雲空にはびこりつ」
 メーデー労働歌。「聞け万国の労働者 とどろきわたるメーデーの 示威者におこる足どりと 未来をつぐる鬨の声」
 この三つの歌、曲はおなじである。そしてふしぎなことにどの歌詞にも曲はぴったりあっている。
 わたしはむかしから、どの歌も知っている。したがって当然、この三つがおなじ曲であることを知っている。そして漠然と、万朶の桜は日清戦争ごろの歌、アムール川は明治三十年代、聞け万国のはメーデーがはじまった大正期の歌、と思っていた。
 ところが渡辺教授によると、万朶の桜よりアムール川のほうがさきである。
 さいわいちょうど、荒木健一さんが、一高同窓会『第一高等学校寄宿寮寮歌解説』という貴重な文献をお貸しくださったところだ。さっそく開いてみた。第十一回記念祭寮歌(明治三十四年)の項にこうある。

 〈ちなみにこの「アムール川の流血や」の行進曲風の快適なリズムは世俗的にも受けがよく、後に陸軍は「歩兵の本領」にこのメロディーを借用し、更に日本共産党も大正十三年第三回メーデーの労働歌「聞け万国の労働者」にこのメロディーを借用した。世間ではその原曲が「歩兵の本領」であったかのように言われがちだが、それは誤りで、この寮歌こそがその原曲であった。〉

 わたしとおなじように思いこんでいる人はほかにもあったわけだ。
 その原因の一つは多分、「春爛漫」が歌詞・曲ともに寮生の手になる最初の寮歌、とよく言われることだ。これも明治三十四年。つまり春爛漫とアムール川とは同年の作である。そして春爛漫が創作寮歌第一曲とさかんに言われるため、アムール川は曲が借用のように思われることが多いのだろう。
 つづいて手元の坂本圭太郎『物語・軍歌史』の「歩兵の本領」の項をのぞいてみた。

 〈陸軍を代表する軍歌である。作詞は明治42年、陸軍士官学校25期生の加藤明勝が作詞、曲は陸軍楽長の永井建子。実はこの歌曲は明治34年2月に発表された第一高等学校東寮々歌と同じもので(……)ところがこの曲は大正11年の第3回メーデーに「メーデーの歌」として三度デビューする。〉

 いづれを見てもアムール川がさきであることあきらかである。万朶の桜は日清戦争どころか日露戦争もすんだあとの明治四十年代の作であった。
 『物語・軍歌史』に「曲は陸軍楽長の永井建子」とあるのがおもしろい。いまでは「曲は……」と言えば作曲のことだが、むかしは「曲 永井建子」と書けば借用もふくまれたらしい。なんらやましい念はなかったようである。
 アムール川を作曲したのは栗林宇一というのちの二高教授だが、自分の曲が八年後に軍歌になっても、さらに十数年後に労働歌になっても別になんとも思わなかったのであろう。作ったのは自分でも、歌になってしまえば公共のものだったのである。いまだったら陸軍へ苦情を言いに行くところだったかもしれないが——。

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