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新・お言葉ですが… 高島俊男
第2回 雑話二則(2)
連日のように?

 ある日の新聞に、
〈連日のように「いじめ自殺」が報道されている。〉
とあった。
 なぜ、〈連日「いじめ自殺」が報道されている〉であってはいけないのか。なぜ「のように」がつくのか。
 「毎日」ならば、「毎日のように」という言いかたはごくふつうにある。
 「毎日」は文字どおり毎日、「毎日のように」は、毎日ではないがほとんど毎日と感じられるくらいひんぱんに、の意である。
 いやなやつが一週間にわたって毎日おしかけてきたら「毎日おしかけてきた」であり、一日だけ来なかったもののそのほかの日は毎日来てうんざりさせられたのなら「毎日のようにおしかけてきた」である。
 「連日」は「毎日」とおなじだが、「毎日のように」をも包含している。一週間のうち一日だけ来ない日があったもののそれ以外は毎日来たのも「連日おしかけてきた」でよい。
 それだけではない。「連日」というかたい字音語と、「のように」というやさしい和語とはそぐわない。「連日のようにおしかけてきた」では語の勢いがたるむ。
 いや、そもそも「連日のように」という言いかたはないのである。
 「連日」が使いたかったら「連日いじめ自殺が報道される」である。もしどうしても「のように」が使いたいのであれば「毎日のようにいじめ自殺が報道される」である。それならばどちらでもよい。
 「連日のようにいじめ自殺が報道される」だけはない。この言いかたをする人は「連日」という語の持つ語感がわかっていないのであろうと思う。

選ばなかった道

 朝日新聞の荒谷一成さんが、目下天下第一の新聞コラムと令名の高い讀賣「編集手帳」をお目にかけますと、コピーを二篇送ってくれた。
 「編集手帳」は一面下方横長のコラムである。「朝日の天声人語にあたる」と言ったほうがわかりが早いか。
 讀んでみると、なるほどうまい。むかしは天声人語が一番と言われたものだが、いまは編集手帳がとってかわっているのか。商賣仇がほめるのだからまちがいなかろう。
 その二篇のうちの一つに、皇后の歌を引用してあった。前後をふくめてしもに引きます。

〈誰にも人生の岐路で選んだ道があり、選ばなかった道がある。皇后陛下のお歌を思い出す。「かの時に我がとらざりし分去れの片への道はいづこ行きけむ」。選ばなかった分かれ道の片方には別の人生があり、行方は誰も知らない。〉

 この歌には心を打たれた。
 はじめて見た歌だから、もとより、いつどういう折につくった歌なのか知らない。あるいは歌会始に「道」という題が出た年があって、その時の作なのかもしれない。
 心を打たれたことはいくつもある。
 まず、「こんな歌をつくっていいのか?」というおどろき。
 皇族のことはいっこう知識も関心もないから知らないが、この皇后という人はずいぶん勇敢な、大胆な、また自由な精神をもった人なのであるようだ。
 ちかごろの宮中役人は、皇后がどんな歌をつくって公表するか、というところまでは容喙せぬらしい。昭和以前の皇后には、こんなのはとても無理だったろう。そもそも当人にそれだけの気概がなかったろうが。
 天皇も「こら、オレと結婚しなかったほうがしあわせになれてたかもしれんなんて、そんなみっともない歌を公開するな。やめとけ」とは言わないみたいだね。
 その天皇には、人生の選択の餘地はなかった。オチンチンをつけてオギャアとうまれた瞬間に皇太子であり、将来の天皇である。
 皇后のほうは、岐路があった。その時に、たいがいの娘さんなら忌避したにちがいないほう——山手線に乗ることもスーパーマーケットへ買物に行くこともできなくなるほうを選んだ。
 あの時に、ふつうの道のほうを選んでいたらどうだったろう。中央官庁につとめるエリートと結婚するか、大会社の社員と結婚するか、どっちにしても、時には学生のころからの友だちとおしゃべりしながら銀座をあるくくらいのことはできたろう。
 わたしが心を打たれたのは、第一にその大胆であったが、もう一つ、この歌から感じられる強い悔いの念である。
 あんなに美しかった人が、泣きそうな顔の、猫背の——これは身長の点でも天皇につきしたがう形をつくれ、と役人に要求されてのことだろう——老女になった。その悔いが、おそらく半世紀にわたって心身を苦しめてきたのであろうことがうかがわれる。
 しかし、わたしが最も強く心をひかれるのは、わが身にひきつけてのことである。
 わたしの岐路は何度もあった。心を苦しめてやまぬのは、片方を選んでいれば家族と家庭をもつことができた岐路である。
 悔いにはすりへりがない。毎日悔いて、悔いがすりへってしまいになくなってしまう、ということは決してない。悔いるたびに、そのつどその時のことを呼びおこし、肥大させてしまう。
 自分は生けるしかばねなんだ、心はないのだ、と自分に言いきかせてのがれようとするが、それでも悔いはやはり、家族を見るたびに頭をもたげる。
 夫婦あるいは親子——この世に生きているかぎり、これらを見ずにすませられるわけがない。逃れる道は死しかない。
 かの時に我がとらざりし分去れの片への道はいづこ行きけむ
 どこに住んでいるか、それは無論わからない。しかしわかされの道のさきでわたしは、書斎にいる。おなじ家のなかに家族がいる。そのわたしに、現実のわたしの人生をつねに支配してきた臨時感はない。わたしの気持はあかるく、わたしは自分のあゆんできた道に満足している。
 現実のわたしは、毎日、この想像にさいなまれている。
 縁もゆかりもない皇后に、わたしは、自分を見た思いがしたのだった。
 図書館で話をしたら、何人もの人から、あのかたは山歩きがすきだからこれはハイキングの歌かもしれない。すくなくとも表むきはそういう際のことをよんだ歌だということになっているのだろう。あの時右がわの道をおりたが、もし左がわへおりていたらどんな景色のところへ出ただろう、というふうな——。それなら宮内庁の役人云々は問題にならない。
 そうか。なるほどねえ。ぼくは自分の人生を悔いてばかりいるものだから、つい他人の歌まで自分にひきつけて受けとってしまったんだねえ。そうか。ハイキングの歌の可能性もあったか。考えもしなかったなあ。どうもありがとう、とお礼を申したことでありました。


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