はじめに
「お言葉ですが…」は、一九九五年から二〇〇六年にかけて十一年あまり雑誌『週刊文春』に連載したよみものである。一年分が単行本一冊になり、それが三年おくれで文庫本になった。
単行本は二〇〇六年初めに出た第十冊でおわりになり、連載は同年夏におわりになった。単行本第十一冊は連合出版が出してくれた。
多くのかたが「お言葉ですが…」をつづけるように言ってくださるので、インターネットでつづけることにした。同じものを印刷物にして郵送もする。
インターネットで新しい読者ができて、御意見をお聞かせいただけるとうれしい。どうぞよろしくお願いします。
見放されます?
産経新聞に「断」という題のコラムがあって、小生毎日愛読している。安部譲二さん、呉智英さんなど十人くらいの人が交替で書いていらっしゃる。これら辛口派の人たちが、政治、社会等々世間一般のできごとに関して、歯に衣着せず直言する、という性格のコラムである。
先日、「ぶりっこ国家は見放されます」という題で大月隆寛さんが書いていらした。ただし本文にはこの題とおなじ文言は出てこないので、これは新聞社の人がつけた題らしい。
この「見放されます」という文字づかいに小生いささかならず違和感をいだいた。「はなされる」の部分を漢字で書くなら「見離される」ではないか?
上の「見」はあってもなくてもこの際関係ない。問題は、「はなれる」「はなす」を漢字で書くならどう書くかということだ。
「故郷離れてはるばる千里」「肌身離さず持ち歩いている」「(駅伝で)第三区間で離された」だろう。「故郷放れてはるばる千里」「肌身放さず持ち歩いている」「第三区間で放された」ではおかしいんじゃないか?
もっとも「はなれる」「はなす」「はなされる」を「放れる」「放す」「放される」と書いた例はこれまでにも見たことがあるような気がする。
『日本国語大辞典』の「みはなす」をひくと「見放・見離」と両方書いてある。「見放」の用例はない。用例がないのに見出しにかかげたのは、新聞その他で見かけるからだろう。
その発想のもとは「矢をはなつ」などの「はなつ」を「放つ」と書くことにあるのではないか。「離す」と「放つ」と、漢字部分のよみだけを見ればどちらも「はな」である。そして、手書の際「離」と「放」とでは「放」のほうがずっと手早く書ける。それで「離す」と書くべきところ「放す」と書くことがしばしばおこなわれたのだろう。
なお、ずっと古くは「見はなつ」という言いかたもあったようだが、それが「見放す」になったということはなかろう。
やはり「見放されます」は「見離されます」と書いたほうがよい。そのほうが正当だし、雅馴である。
形のない商品
田中克彦先生の『国家語をこえて』(筑摩書房)を見ていたら、「借金旅行も今や商品」と題して、「商品」ということばについて書いた一篇があったので大いに心ひかれた。
ちかごろ、銀行員が種々の預金のことを「商品」と呼ぶのが小生気になる。外貨預金も投資信託も「商品」である。「これは元本の保証はないけど利回りのいい商品です」などと言う。小生は、「商品」と言うと、形あり重量あるものを思いうかべる。ダイコンとか、時計とか——。預金種類を「商品」と言われると違和感をおぼえるのである。
田中先生も小生とおなじ感覚なのだが、気がついた時期が断然はやい。この「借金旅行も今や商品」は、一九八四年、二十年以上も前に発表されたものである。これに小生感心いたしました。
ではちょっとしもに引用させていただきましょう。なおついでに、題にも出てくるこの先生の「借金」ということばの使用法にも注意してください。
〈満員電車は、私たちから手足の自由をとりあげた上で、天井からぶらさげた言語作品にひたすら注意を向けるよう強いる。吊り広告の文章は、現代コマーシャリズム言語文化の旗手たちがちえをしぼった苦心作だ。
きょねんの暮に見たのに、こんなのがあって、はっとさせられた。「中央線にまたまた嬉しい新商品——あずさパック」。あとは読まなかったが、想像するに、中央線にあずさ号という特急列車があって、国鉄はそれに客を乗せようとしてパック旅行を思いついたのだろう。はっとさせられたのは、旅行のことを平気で商品と呼んでいる感覚だ。「皆さんはこの旅行を【買いなさい:傍点】」とそれは訴えている。
手をとって眺めたり、めかたをはかったりできるものを商品と呼ぶ一般の感覚にさからって、たとえばガン保険だの、特別な利子のつけ方をした借金だのを商品だと呼ぶならわしは、次第に定着してきた。〉
きょねんの暮に見たのに、こんなのがあって、はっとさせられた。「中央線にまたまた嬉しい新商品——あずさパック」。あとは読まなかったが、想像するに、中央線にあずさ号という特急列車があって、国鉄はそれに客を乗せようとしてパック旅行を思いついたのだろう。はっとさせられたのは、旅行のことを平気で商品と呼んでいる感覚だ。「皆さんはこの旅行を【買いなさい:傍点】」とそれは訴えている。
手をとって眺めたり、めかたをはかったりできるものを商品と呼ぶ一般の感覚にさからって、たとえばガン保険だの、特別な利子のつけ方をした借金だのを商品だと呼ぶならわしは、次第に定着してきた。〉
「手をとって」は多分「手にとって」の誤植でしょう。田中先生も、「手にとって眺めたり、めかたをはかったりできるものを商品と呼ぶ一般の感覚」の持主であることがわかりますね。
すこしとばしておしまいのところをひきます。
〈ところで辞書は、こんな【商品:傍点】の現実に追いついているのだろうか。たとえば三省堂の『新明解国語辞典』は「売るために・作られた(陳列された)品物」としているのに対し、多少過激なところがあるので気に入って愛用している、同じ社の『三省堂国語辞典』は、「売り買いや取り引きの対象となるもの」というぐあいに、旅行や借金にも一歩近づいている。
私が問題にしているのは辞書の優劣ではない。コマーシャル漬けになったコピーライターという人たちの感覚が、知らず知らずのうちに、私たちのことばをも支配しようとかかっているということだ。〉
私が問題にしているのは辞書の優劣ではない。コマーシャル漬けになったコピーライターという人たちの感覚が、知らず知らずのうちに、私たちのことばをも支配しようとかかっているということだ。〉
問題がいくつかあります。
まず田中先生の言う「借金」。
これはやさしい。預金のことですね。「銀行のがわから言えば客からの借金じゃないか」ということなのでしょう。先生のツムジマガリがよくあらわれている。
だから題の「借金旅行」というのも、借金して旅行することではなく、「預金や旅行も今や商品」ということですね。口に出してよむとちょっとアクセントがかわってくる。
つぎに、一九八四年つまり昭和五十九年ごろには、旅行や預金を「商品」と呼ぶのはコピーライター、広告文句をつくるのを仕事にしている人特有の言いかただったらしい。いまはふつうの銀行員が商品商品と言っている。
つぎに辞書のこと。『新潮現代国語辞典第ニ版』の「商品」の項には、
(1)金銭と交換される物品。商売の品物。
(2)売買の目的物である財貨。
とある。「物品、品物、財貨」だ。つまり形あるものである。『広辞苑五版』と『日本国語大辞典ニ版』をひいてみたがおなじ。
引用を省略した部分で田中先生は、「こういう言いかたはまだまだ業者なかまのジャルゴン(隠語)という感じがつきまとっている」と書いていた。ほぼ二十年たったいまでも各国語辞典は、形のないものを「商品」と呼ぶのは隠語だと判定しているのであろう。銀行員たちは銀行員同士で言うべきことを、客にむかって言っているのである。
そのへやの窓からは、大きな鉄の箱が半分、外の空中にむかってニュッと突き出しており、夏になるとその箱はゴォーッとすさまじい音を発した。
それは、冷房機だったのである。
昭和四十年代のことで、研究室に冷房機をとりつけることは禁じられていたのだが、田中先生は平然と、かつ公然ととりつけていたのである。
もし他の先生たちが「研究室に冷房機をつけていいのだったらオレも……」とまねをし出したら学校の電気容量はたちまちパンクしてしまうから、事務の人が故障を言いに行くのだが、そのたびに先生に「ぼくが暑くて研究できないのは日本の言語学の停滞を意味する」と言い負かされて、頭をかかえて帰ってくるのだというウワサであった。まあつまり教員中の無頼漢、手のつけようのない乱暴者、という目で見られていたわけですね。
小生は気の弱い新米教員であったから、このコワイ先生にはちかづかなかったが、その話は何度も聞いた。会議の時に、一種のツヤのあるしゃがれ声で、とうとうと発言することがよくあったからである。
──いやそれは時代錯誤かな?
冷房機ゴーゴーは昭和四十年代の岡山での話。「商品」はその後大将が意気揚々東京の学校に転任して、満員電車のなかで吊り広告をにらみはじめてからの話だからなあ。
次回更新予定日 2月15日
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