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ベトナム秘史に生きる「日本人」 玉居子精宏
最終回 源流は大東亜戦争にあり──戦後日本のベトナム支援
「大南公司」と日本のベトナム再進出

 日本は1951年、サンフランシスコ講和条約で国際社会に復帰した。これを受け、東南アジア外交においては最初に「賠償」の問題に直面した。この賠償とは、同条約第14条により発生した義務で、「日本が太平洋戦争で相手国に与えた損害および苦痛に対して支払」われるべき(『東南アジアを知る事典』)ものだった。
 だが賠償が途上国である受償国のインフラ整備に大きく貢献したことを考えれば、賠償という言葉にまとわりつく「罪の償い」というマイナスイメージに寄りかかって「日本の旧悪」へと思考を進めることが、必ずしも正しい姿勢とは言えないだろう。
 こと対ベトナム賠償に関しても事情は同様であり、否定的になり過ぎるべきではない。むしろ賠償にあたり、戦中に日本人が築いた人脈が機能し、独立間もない国のインフラ整備に貢献したという、積極的な面を見てみる必要があるだろう。

 1954年、南ベトナム(当時ベトナム国、のちベトナム共和国)と正式に国交を結んだ日本は、大戦中に現地にいたある人物を介し、ベトナムとの関係再構築に乗り出した。
 その人物とは他でもない、17歳にして仏印に渡り、現地商社「大南公司」を築き上げた松下光広である。戦中の彼と大南公司、同社の独立運動関与については本小文第2回で述べた通りである。対南ベトナム賠償の裏面史もまた、彼を抜きにして語り得ない。
 (なお北ベトナム=ベトナム民主共和国は賠償について1956年、「賠償権を留保する」と発表した)

 1953年、大南公司を再建した松下のもとには、西川捨三郎など旧大南公司の面々や、西川と同じ満鉄東亜経済調査局附属研究所(通称大川塾)出身者が参じていた。
 松下と旧交のあったゴ・ディエン・ジェムは1955年、南ベトナムの大統領に就任した。大戦中、仏印政府の監視下にあったジェムを大南公司の宿舎に密かに匿うなどし、すでに信頼を勝ち得ていた松下は、その私設顧問の地位を得た。この関係を背景に、南ベトナムでも大南公司は圧倒的な存在感を持つことになったのである。

 1959年5月、日本と南ベトナムは賠償協定に調印したが、同年10月に始まった第33回国会の衆議院外務委員会の会議録には、調印をめぐり、松下を黒幕扱いする社会党議員の発言が残されている。
 「サイゴンの大南公司、これは松下光広が社長です。例の日本工営(=建設コンサルティング会社)の久保田豊をゴ・ディン・ジェムに引き会わせたこの松下光広という人は、もう御存じのように、ベトナムにおいて日本が何か仕事をしようとするためには、必ずこの人を通さなければ、向こうの政府と関係が結べないくらい大きな力を持っておると言われておる」
 社会党は、南ベトナムだけを相手にした賠償自体を、アメリカの軍事援助を受ける傀儡国家への歪んだ支援と見なし、そのあり方を厳しく非難していた。
 では、なぜ松下は槍玉に挙げられたのか? 結論から言えば、彼は他の日本人ではなしえない力業を、賠償にまつわる場で見せていたのである。

日本企業の大型ダム工事逆転受注、戦中の交流が起点に

 日本の対南ベトナム賠償の主幹は、「水力発電所建設」だった。これはサイゴン北東250キロに位置するダニム川に、ダムと水力発電所を開発するものである。
 日本との賠償協定が結ばれる1959年より前、このプロジェクトは、フランスが行うことになっていた。55年の時点で、フランスは南ベトナムで建設に向けた調査に着手済みだった。そこへ横から割り込む格好で日本工営がプランを南ベトナムに示し、最終的に受注となったのである。

 その逆転劇を演出したのが、社会党議員の指摘するように松下光広だと言われている。松下は日本工営社長の久保田豊をジェムに会わせ、プランを示す場をお膳立てした。無論ジェムの私設顧問たる彼にしてみれば、人一人を紹介するくらいはわけのない仕事だったに違いない。
 ダム工事は1961年に開始、3000万ドル(=当時の円に換算すると、126億4900万円)の巨費を投じ、64年末には16万キロワットの発電が可能な発電所が完成した。
 また建設に際しては、サイゴンに集まっていた元残留日本兵らが、ベトナム人スタッフとの間に立ち、現場作業における不可欠の媒介役となったことも触れられてよい事実だろう。

 当時松下の部下としてサイゴンにいた小田親(1920年ハノイ生まれ。ハノイのリセを卒業)は、ベトナムで一時代を築いた松下のメンタリティをこう指摘する。
 「思想的に言えば、松下社長はむしろ左寄りの人だったのじゃないかな。特にインドシナ三国ではね。急進的な人たちとの付き合いが好きだったのでしょう」
 社会党から名指しで非難されるようなフィクサー的存在だった松下が「左寄り」とは意外な響きがある。しかし、植民地時代から独立運動の有力者・要人と交際を重ねてきた人物は、むしろその取り組みの早さや革新性において「左寄り」の冠がふさわしいのかもしれない。

 「戦後」の対南ベトナム賠償ですら、大南公司や残留日本兵など、仏印時代に端を発する戦前・戦中の縁や関係が不可欠の潤滑油として働いていた。だがベトナムにおける戦前・戦中と戦後世界の連続性を明らかに示す例は、南ベトナム時代に限ったものではない。ベトナム版ペレストロイカとも称される「ドイモイ政策」で新生成ったベトナム(=ベトナム社会主義共和国)でも見て取ることができるのだ。

サイゴン現地校のOBが開設、学費無料の精鋭日本語学校

 1991年、ベトナム南部のホーチミン市総合大学内に、「学費・教材無料」という破格の日本語学校が誕生した。その名を「南学日本語クラス」といい、戦中サイゴンにあった日本の外地校「南洋学院」(第4回参照)OBの手によってつくられたものである。
 当時、首都ハノイには日本語の公的教育機関があったものの、商都ホーチミン市にはそれがなかった。ドイモイ政策が成功して日本企業のベトナム南部進出が相次ぐなか、日本語能力のある人材が求められていた。時宜を得た南学日本語クラスの開校は、現地で折衝を担当した蛭川弘尹(第三期生)の努力が実り、ベトナムの大学側も歓迎するところとなった。

 学校の創立に際しては、南洋学院OBが寄付金を出し合った。なかでも特筆すべきは弁護士の中村護(第三期生)が、事務所・教員宿舎の賃貸料(15年分)の一括前払いに際し、資金として数万ドルを私費で提供したことだろう。思い出の地、ベトナムのためとはいえ、一個人がそれだけの金銭を出すのは並大抵のことではない。だが中村自身はそれを特に誇ることはしない。創立に賛同し、出資した他のOBも、「青春時代にお世話になったベトナムに今度は支援の手を」との気持ちで一致していた。
 開校は広く注目を集め、定員20名のところに2000名の応募があった。南学日本語クラスの教育は非常に厳しく、学生は2年の年限において、月曜日から金曜日までの週5日、日本語だけを毎日5時間学ぶことになっていた。アルバイト禁止の規則まで設け、とにかく日本語漬けにしたのが実を結び、第一期の卒業生から日本領事館や大手商社に就職する者が続出、留学生も4名が来日した。

 「南学(南学日本語クラスの通称)があったから今の自分があります。南学のためにできることなら何でもしますよ。私、南学のファンなんですから」
 ベトナム中部のフエ外国語大学日本語学科で教鞭を執るグエン・ティ・フーン・チャーは、インタビューの打診に対し、開口一番、自分を育ててくれた南学日本語クラスへの思いを吐露した。
 ホーチミン市総合大学での開校とその成功に続き、フエ師範大学でも1993年、ベトナム側の学長による度重なる強い要請を受け、姉妹校として南学日本語クラスが始まった(以下フエ南学)。彼女チャーはフエ南学の第一期生である。
 チャーはクラスが始まった当初のことを、驚きとともに回想する。
 「ノート、ペン、その他学習に必要なものはすべて支給されました。教科書もオリジナルなんですよ! 書き込んだらもったいないと思ったくらいです」
 「教科書もオリジナル」と驚くのは、ベトナムではコピー文化が圧倒的で、「学校の教科書=コピー本」という図式があるからだ。だが南学日本語クラスは違った。本格的に日本語を教える、その姿勢を充実した教材で学生に強く印象づけたのである。
 無論、南学日本語クラスは物質面だけで学生を魅了したわけではない。ベトナム人ではなく、日本で選抜した日本語教授資格を持つ若い日本人を派遣し、教育に当たらせた。これも南洋学院OBらがサイゴンで、ベトナム人教師から直に語学を学んだ経験を持つがゆえのことだろう。

 南学日本語クラスの学生が熱心に学んだ理由を、初期フエ南学で教壇に立ち、今もベトナムで日本語を教える黒田朋斎は、別の角度から説明する。
 「何かの折にベトナムに来た中村さんが、学生を前に話をされるでしょう。そうすると中村さんは感極まって涙を流されるんですよ。自分たちの学費の面倒まで見てくれる人のそんな姿を見たら、学生は目の色が変わるんですよ」
 南洋学院OBの情熱、これが大きいと言うのである。

 2006年、惜しまれつつ南学日本語クラスは15年におよぶ歴史に終止符を打った。
 今やベトナムで大学における日本語教育はまったく珍しくない。ホーチミン市やハノイでは、中学校の一部でも日本語教育が始まりつつある。そんななか、時代に先駆けた南学日本語クラスの実績は際立っている。
 昨今ベトナム南部を中心に、日本企業の採用担当者が「ああ、南学ね」と言ってわかるほどに南学日本語クラスの認知度は高い。卒業生のなかには日本留学を果たし、大学で修士・博士号を取って大学教員となったOBもいる。南学日本語クラスは単なる日本語教室の枠を越え、ベトナムの人材を育てることに成功した。その原動力が戦中の現地校にあることは言うまでもない。

 2006年8月、「南学日本語クラス閉校記念パーティー」がホーチミン市で開催された。家族とともに参加した中村護は、「ここはベトナムですが、日本語クラスのパーティーですからみなさん、日本語でいきましょう」と述べてまず会場の笑いを誘い、次いで自ら支援し続けた教室への思いを、声を詰まらせながら語った。
 そんな中村だが、意外にも大戦中の南洋学院入学は、南方開発に尽くそうと強く望んだ末のものではなかった。学校の担任教師に勧められての受験であり、自身では「海外に出る好機だと思いました」と短く語るのみだ。
 それでも敗戦後、日本に戻ってからもベトナムを忘れることはなかった。そして約45年のときを経て、彼とその仲間たちは青春を育んでくれた地への恩返しを果たしたのだった。
 南学OBの熱意は、南洋学院に学んだという、強固な原体験に根ざしている。彼らが生んだ南学日本語クラスもまた、日本が現代ベトナムでなした一つの功績に違いないのである。

「日本人」が関わったベトナム現代史

 「私はベトナム生まれだからベトナムはもちろん第二の故郷です。あの国はこれから変わっていく、よくなっていくと信じていますよ。経済発展は改革の賜物、中国より良くなるはずですよ。ベトナム人は現実主義者で頭がいいですから」
 ハノイ生まれの小田親は、ベトナムの明るい未来を予見している。第三世界の開発コンサルタントとしてキャリアを積んだ彼は、1986年、ドイモイ政策が始まったばかりのベトナムを再訪、「大臣クラスならいつでも会える」という人脈を生かし、仕事を再開させた。彼の人脈とはもちろん現地に生まれ育ち、戦中・戦後と変わらずベトナムに関わってきたからこそのものである。

 西川捨三郎は2000年に『ベトナム人名人物事典』を刊行した。これはベトナム史上、中国の支配、フランスの侵略に対して戦った英雄らの事績を記したもので、じつにマイナーな一書だが、早くからベトナム独立への戦いをともにした経験を持つ西川らしさがよく伝わるものとなっている。
 西川は同書の他にもベトナムに尽くした日本人の事績を折に触れて書き綴ってきた。その彼は自分もまた、その日本人のうちに連なることを自覚していたはずである。

 「第二の故郷ですね。人生を変えたところです。大きな転機でしたから──」ベトミン軍に加わった加茂徳治は自らのベトナムをそのように位置づける。
 「クアンガイ陸軍中学の教え子が、ベトナム戦争のときには中堅幹部になっていたんですね。サイゴンに一番乗りした戦車に乗っていたのもそうですよ」
 1975年4月30日、ベトナム戦争終結の日、サイゴンに入城した北ベトナム正規軍戦車の姿は写真や映像で知る人も多い。加茂はその歴史的瞬間に秘められた日越交流の証跡を誇らしげに話した。けだしクアンガイ陸軍中学教官として独立の思いを共有した者しか語れないエピソードだろう。

 「私は暗いベトナムではなく、新しく明るいベトナムを求めているんですよ」
 南洋学院OB(第三期生)の徳田勝紀は、自身の「仏印体験」もそこそこに、南学日本語クラス創設の苦労と軌跡を語り、また「今のベトナム」を見据えた希望を明確に、熱っぽく語る。
 80歳を超えている徳田だが、最近では外務省関係者、ベトナム研究者らを巻き込んだ日越文化交流プロジェクトを企画、実現に向け、日夜奔走している。
 彼にとっては、テレビジャーナリズムが好んで取り上げたために日本人の間に定着した、「ベトナム戦争」や「難民」に代表される悲惨なベトナム・イメージはもはや古すぎるのである。25歳以下が全人口の6割超を占める今のベトナムと日本の新しい交流こそが重要事なのだ。
 この小文でその言葉を借りた人々は、いずれもベトナムの苦しく暗い「過去」を知るがゆえに、「現在」にも関わろうとしてきた。決して甘い追憶や一時の思いつきだけで行動しているわけではない。彼らは脈々と続く日越交流史のただなかにいる。各人の言葉が語る通り、これはベトナム戦争中、旧ソ連が武器を送り、アメリカが英語しか話さない大量の将兵を送り込んだのとはまったく異質なものだ。同じアジアの国の人間が、人と人との関係にまで踏み込んで関わっていたのである。
 今日、日本とベトナムが謳う「戦略的パートナーシップ」の背景に、戦前から続く日越交流の姿を読み込むことは、決して無益なことではない。何物にも代え難い愛着をもってベトナムに対した人々の言葉を聞き知るとき、日越交流史への新たな視点が生まれ出る──この小文がその一助になればと願っている。
(了)

主要引用・参考文献(順不同)

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西川寛生「秋霜 大川周明顕彰会報 No.37」大川周明顕彰会 2004年
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西川寛生「ヴェトナムの日本人──その知られざる記録(1)」アジア親善交流協会研究資料所収 1995年
白石昌也「ベトナム復国同盟会と1940年復国軍蜂起について」アジア経済研究所 1982年
池田二郎『新品将校奮戦記』共栄書房 1981年
中野實『佛印縦走記』大日本雄辯會講談社 1941年
井出浅亀『佛印研究』皇國青年教育協會 1942年
小松清『仏印への途』六興商会出版部 1941年
ビン・シン「小松清 ベトナム独立への見果てぬ夢」岩波書店 「世界」 2000年4月号
森達也『ベトナムから来たもう一人のラストエンペラー』角川書店 2003年
防衛庁防衛研修所戦史室『シッタン・明号作戦』朝雲新聞社 1969年
Trang Van Rang "Viet Nam Phuc Quoc Dong Minh Hoi & Cuoc Dao Chinh Phap", Xua va Nay, 2006
山田勲『白い航跡 大川塾卒業生が見てきた戦争と東南アジアの国々』文芸社 2004年
亀山哲三『南洋学院 戦時下ベトナムに作られた現地校』芙蓉書房新社 1996年
日置章 二期生会編『貿易風 元南洋学院二期生の記録』1991年
宮脇修『愛国少年漂流記』新潮社 2003年
徳田勝紀「ドイモイの生みの親──グェン・スァン・オァイン博士を悼む」2003年
徳田勝紀「ベトナム事情 グェン・スァン・オァイン博士を中心に」2003年
小倉貞男『ヴェトナム 歴史の旅』朝日新聞社 2002年
小林昇『私のなかのヴェトナム』未来社 1968年
小林昇『帰還兵の散歩』未来社 1984年
小牧近江『ある現代史』法政大学出版局 1965年
石田松雄『ベトナム残留日本兵』茨城図書 1990年
古山高麗雄『二十三の戦争短編小説』文藝春秋 2003年
NHKハイビジョン特集『引き裂かれた家族──残留日本兵とベトナムの60年』NHK 2005年
井川一久「ベトナム独立に貢献した「残留日本人」の軌跡」やすくに 2000年4月
井川一久「ベトナム独立戦争参加の日本人の事跡に基づく日越のあり方に関する研究」東京財団 2005年
井川一久「ヴェトナム独立戦争参加日本人──その実態と日越両国にとっての意味」東京財団 2006年
開高健『ベトナム戦記』朝日新聞社 1990年
司馬遼太郎『人間の集団について』中央公論社 1996年
『ベトナムの事典』同朋舎 1999年
『東南アジアを知る事典』平凡社 2003年

その他、関係者の手記、仏印駐屯部隊戦友会誌・会報、筆者によるインタビューの記録など
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