Web草思
ベトナム秘史に生きる「日本人」 玉居子精宏
第4回 現地校卒業生、命がけのベトナム残留
土地への思いを育んだ現地校、「南洋学院」

 「新ベトナム人」のすべてが日本軍を離脱した残留将兵だったわけではない。なかには、「ベトナム」という土地に早くから理解と愛着を持ち、半ば必然的にベトナム残留を決めた者もいる。
 新ベトナム人としてベトナム北部に長く残留し、帰国後「ベトナムの地に夢を抱き、そこに人生を託した」と、十代の日の鮮烈な心象を手記に残した新ベトナム人がいる。駒屋俊夫、大戦中のサイゴンに開校された日本の現地校、「南洋学院」の卒業生である。

 この南洋学院は1942年10月、外務省の管轄下、南洋協会(大正4年創立)の運営により誕生し、南部仏印の商都サイゴンに学舎を置いた外地校(高等専門学校)である。学生は台湾や満州を含む日本全国から選抜され、一期生30名、二期生30名、三期生52名を擁した。教科は「安南語」「フランス語」を筆頭に、「熱帯衛生」や「仏印経済」といった現地教育にふさわしいものが揃っていた。

 同校の募集要項には「南方開発の指導的人材を養成する」と記されていた。開校には時の国策、すなわち南進が影響していたことは疑いない。
 だがたとえ開校が国策によるものであっても、学校はリベラルな空気に満ちていた。OBらの証言によると、教授陣には、当時日本を含め世界で支配的だった「ブロック経済」の考え方を「戦争の原因」と退ける者もいた。
 一方の学生側は戦時の雰囲気が重苦しい内地を離れ、熱帯の外地に渡ることで、精神的な解放感を得た。あるOBは一学生が「クリスチャンとして戦争には反対する」と入学前の研修合宿で公言し、また「この戦争は負ける。アメリカに勝てるはずがない」とまで言い切ったのをよく憶えているという。
 このようなとらわれのない校風が後押ししたのか、OBの一人が「独立したいと思う安南人がいないはずはない、そう思っていました」と述懐するように、学生らは植民地の実状と苦境を察するようになった。そこにある視座は、資源供給地・兵站としてのみ仏印を眺める内地日本人が持ち得ないものだったのである。

 駒屋俊夫もまた、その学校に学んだ学生の一人だった。
 異土に抱いた希望が大きかっただけに、彼は祖国の敗戦に激しく動揺した。一時は自殺も考えたというが、現地で召集された者の除隊を許可する連絡が入るや、考えを変えた。大多数が内地帰還へと思いを馳せるなか、「ベトナムに残ろうと決心し」たのだった。

 「どのような方法で(ベトナムに)残るのか、考えるすべもなかったが、とにかく残留に一縷の望みを託した」と駒屋は書く。強い思いと不安を抱えての残留だったろうと推察される。
 実際、現地に学生時代から自由に親しみ、言葉にも堪能な南洋学院出身者であっても、激動のベトナムに身を置くのは非常に危険なことだった。
 駒屋以外の南洋学院生でベトナムに残ったとされるのは3名だ。一人は後年、無事日本に帰還、一人はハノイで同級生に会ったのを最後に行方がわかっておらず、さらにもう一人は「タイニン(=南部ベトナムの新興宗教カオダイ教団の本拠地)へ行く」と同級生に言い残してサイゴンを去り、それ以後消息を絶ったままだという。

評価された日本人としての知性

 駒屋は、同じく残留を決意した日本人らと現地自活を目指し、ハノイ北東約60キロに位置するバクザン省ボハ村に入植した。敗戦から間もない1945年10月のことである。

 「まず何より食うことだった」とは、彼の手記に残された入植当初の決心である。なりふりは構っていられなかった。仲間と農業に精を出したものの失敗、その後は炭焼きを生業として暮らし、どうにかこれに成功した。あるときなど、ベトミン民兵によって誤って捕縛され、銃殺刑目前のところ、必死で窮地を脱出するという苦難も経験した。
 決して楽な自活ではなかったが、駒屋は地元の民生に役立つ行いにも努めていた。
 「薬問屋の息子で薬に詳しかったです。熱帯衛生の教授にも可愛がられていましたね。衛生係軍曹なんてあだ名でした」と同級生が語るように、彼は南洋学院で受けた教育を活かし、マーキュロクロムの原料粉末から「赤チン」を作り、現地の人々の熱帯性潰瘍を治療するなどしたのである。当時ベトナムの医療事情は劣悪だった。駒屋のように薬品類に明るい人間が歓迎されたことは言うまでもない。

 1946年の終わり頃から駒屋らはベトミン民兵の「軍事教練」のため、近隣の村々を回るようになった。折しも抗仏戦争が本格化していた。クアンガイ陸軍中学を経て、元将校加茂徳治が北部へと移った時期とちょうど重なる。
 駒屋は教育にたいへんな労力を割いたという。文盲が大半を占めていたからである。それでも算術・国語を手始めに、測地・測量など、より軍事に近い科目をも教えるにいたった。
 「地図の読み方など知らない者が多いのには難儀した」そう駒屋は記す。彼は軍務の一環で地図の複写も行った。印刷などできない環境下、彼の複写した地図がバクザン省にいる各部隊の隊長に手渡されるようになっていった。
 付言すると、現在でもベトナムでは地図から過不足なく情報を読み取れる人は少ない。タクシー運転手に地図で場所を示しても、まず通用しないのだ。仮に彼のよく知る地元であっても事情は変わらない。まして60有余年前ならば、地図を読ませる駒屋の苦労はいかほどだったろうと推察される。
 駒屋は1949年、「北部軍管区参謀部作戦班」に勤めることとなった。地図をよくする彼の能力は最大限に買われ、戦闘報告をもとに「戦図」を起こす任務を与えられた。
 その後、「情報班」に所属を変わったが、この理由について、「駒屋ベトナム・モイの思考方法に大変興味を持っていた」と軍幹部に言われたことを、駒屋は記している。戦図作成だけでなく、情報の分野でも、先進国日本から来た人間として、その知性を評価されていたのだろう。

 1954年、他の残留者らとともに復員した駒屋だが、彼のベトミン時代の事績を現在のベトナムも顕彰している。一例を挙げると、ベトナムの国軍「ベトナム人民軍」が発行する月刊誌『SU KIEN VA NHAN CHUNG(事件と証人)』(1999年10月号)は、「抗仏戦争において多大なる功績があった」と賛辞をもって駒屋を紹介、「駒屋俊夫とその友人らによるベトナム独立に対する貢献に敬意を表するために執筆された」との一文で記事を結んでいる。
 また2002年、国営のベトナム・ニュースエージェンシーはその英字版で、駒屋がベトナム政府から勲章を授けられたことを伝えている。
 2005年の春、私は駒屋が深く親しんだであろう入植先のボハ村を訪問した。村の寺に集まっていた古老らに、「このあたりに日本人のコマヤトシオさんが昔、住んでいましたね」と尋ねた。70年輩の彼らは札遊びの手を休めず、「日本人ならいたよ」と素っ気なく答えるだけだった。「でもコマヤトシオという名前は記憶にない」
 コマヤトシオという名前が通じなくともよい、日本人がいたという事実だけでも確認したくて私は何度も念押しした。コマヤです、コマヤトシオという日本人なのです。同じ質問を二度三度と繰り返すと、そのうちの一人が怒ったように断言した。
 「日本人じゃない、新ベトナム人だ!」
 なぜ当たり前のことを、日本人のお前はわからないのだ、と咎めるようでもあった。それほどに新ベトナム人の存在が村では当たり前のことだったのだろうと、すでに物故していた駒屋の姿を想像せずにはいられなかった。

 ベトミン軍に参加した者たちはそれぞれ戦功を立て、現在では数十名がベトナム側から勲章を受けたことが明らかになっている。クアンガイ陸軍中学に代表されるように、彼ら新ベトナム人がベトナムに注入した日本および日本軍の技術は、長く、ベトナム独立闘争史に残されるべきものとなったのである。

草思社