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ベトナム秘史に生きる「日本人」 玉居子精宏
第3回 ホー・チ・ミンの軍隊で戦った日本人
独立闘争史に刻まれた功績

 ベトナム語で「ングォイ・ベトナム・モイ」、訳すと「新ベトナム人」となる。第二次世界大戦終結後ベトナムに残留し、第一次インドシナ戦争(1945?1954年。以下抗仏戦争)を戦った外国人の総称である。
 この新ベトナム人の大多数が元日本軍将兵であり、総数は約600名と言われている。
 彼ら新ベトナム人は、それぞれベトナム名を持ち、ベトナム社会に溶け込んでいた。同胞として、ベトミン(ベトナム独立同盟)に協力し、フランスの再侵略を退けることに尽くしたのである。
 フランスがインドシナの再支配を断念した1954年、彼ら新ベトナム人の多くが日本に帰ったが、ベトナム政府は彼らの抗仏戦争に対する貢献を積極的に認め、表彰している。近年日越共同の研究が進み、日本ではジャーナリストの井川一久が詳細な研究を明らかにした。だが今もってこの残留者たちの存在と事績は日本国内での認知が進んだとは言い難い状況にある。

 戦後ベトナムに残留した日本人はベトナム独立闘争史にいかなる足跡を残したのか? ここでは最初にベトミンの来歴を俯瞰し、次いで二人の新ベトナム人のベトナムにおける履歴を辿って行こう。

ベトミン、抗仏のために軍事力増強へ

 ベトミンの結成は、1941年、中国経由で祖国に帰ったホー・チ・ミンの呼びかけで始まった。彼らはアメリカOSS(=戦略情報局。CIAの前身)の支援も受けながら、北部仏印の山間でゲリラ戦を展開、「明号作戦」後の日本軍を悩ませるようになっていた。

 そのベトミンが1945年8月15日、日本の敗戦を機に一斉蜂起を決定、同月19日にはハノイ市中で大集会を開き、重要施設の接収を開始した。彼らはベトナム全土に生じていた権力の空白をついたのである。日本軍の武装解除を行うべき中国国民党軍はまだ、ベトナム北部に到着していなかった。南部の武装解除を担当する英印軍もまた然りだった。
 そして電撃的な権力奪取から間もない9月2日、ハノイでホー・チ・ミンが独立宣言を読み上げ、ベトナム民主共和国が成立した。

 ベトミンはすでに民衆の間に広く浸透していた。だが軍事力の点では力不足を否めなかった。竹槍を持つ彼らの姿は、初期ベトミンの一典型としてしばしば言及される。例えば敗戦直後、サイゴン近郊にあったのちの芥川賞作家、古山高麗雄は短編「墓地で」においてベトミンの軍事教練に触れ、「私は、竹槍をかついだ女や老人の教練を見た」と書いている。中国・雲南の激戦地で米式装備の敵と戦った経験を持つ作家の目を通すと、「モク、ハイ、モク、ハイ」(=いちに、いちにの意)とかけ声をかけて行進する人々は、いくらか可愛げすら帯びていたように見えてしまう。

 だがベトミンはやがて再来するだろうフランスに対抗すべく、軍事力の増強を懸命に急いだ。それももっとも直截的な方法で──
 彼らは敗戦の虚脱にある日本軍将兵を自軍に勧誘し始めたのである。

帰還を拒み、抗仏戦争を支えた元将校

 「日本に帰ってアメリカの兵隊の顔を見るのが嫌だったんですよ」
 ベトナム南部で敗戦を迎えた日本軍の元将校は、現地に残留した理由をそのように説明した。
 この元将校の名は加茂徳治。ガダルカナル島、ビルマ、中国・雲南、仏印と戦場を渡り歩いた第二師団に所属していた。軍で使っていたベトナム人通訳から残留を勧められ、軍刀と着替えだけを携えて軍を離脱(=脱走)、ベトミン軍に参加して抗仏戦争の戦列に加わった。

 「思想? そんなものはありませんでしたよ」と明言するように、加茂はベトミンを率いるホー・チ・ミンが奉じる共産主義思想に対するシンパシーなど持ち合わせていなかった。
 ただ祖国の敗戦に絶望していた。「ビルマ、仏印と転戦してきました。他国に占領されるのがどんなことか、自分が外地に出てすでに経験していたわけです」と彼は語る。敗北し、他国の支配を甘受せざるを得ない祖国。そこへ帰還する望みを断つ一方、それゆえに完全独立を目指すベトミンに共感を持ったのだろう。

 南部の町ファンティエットで軍を離脱した加茂はまず、他の軍離脱者と組んでベトミン民兵に訓練を施した。ほどなくして日本軍の軽機関銃や小銃を使い、仏印軍を撃破する実績を上げた。
 その戦闘に先立つ指示を加茂はよく憶えている。軍事に未熟なベトミンの実像──それが彼の証言にも表れている。
 「どこでもいいからとにかく撃て、喚声を上げよと、そんなことを身振り手振りで伝えましたよ。身振り手振りは万国共通ですから」
 民兵らにとって、自分たちの手で仏印軍を倒したことで得た達成感は、強烈なものだったようだ。「フランス人が殺されるのを初めて見た!」と興奮して話す者がいた。この成果により加茂らは「フランス人をやっつけた人たちだ」と他のベトナム人に紹介されるようにもなった。

教官はすべて日本人、創設されたエリート軍学校

 やがて加茂は中部における抗仏戦争の拠点、クアンガイの町に入った。1946年の4月頃だった。丁重に彼を迎えたベトミン幹部からは、「わたしたちのために、陸軍中学をつくって下さい」と言われたという。クアンガイでは、現代ベトナム独立闘争史上でも異彩を放つ、日本人教官による「クアンガイ陸軍中学」が創設されようとしていたのである。

 「教育はすべて日本人がやる、そう最初から決まっていました」と加茂は語る。
 このクアンガイ陸軍中学創設のため、同地には元日本軍将兵30名が集まっていた。総数約400名のベトナム人学生を軍の中級幹部に仕立てること、これが学校の目的だった。教育にあたって4個中隊がつくられ、加茂は第4中隊を担当した。教官は将校、助手は下士官が務めた。このあたりの編成・職制は、日本陸軍の制度を模したのだろう。

 「共産党員であること、戦歴があること、地方の党委員会による推薦を得ていること、だいたい年齢は20歳前後でしたかね」
 集まってきた学生像を加茂は思い起こし、「我慢強い、音を上げない、どんなつらいことがあっても人民のために、という気概を持っていた」と賛嘆する。軍の幹部候補生として、彼らの気構えは申し分なかった。だが一方で、軍事に関しては日本軍の新兵よりも未熟な状態にあったようだ。
 「学生はほとんどが中学を卒業した者です。当時のベトナムで中卒と言ったらエリートですが、とにかく動作が鈍いんですよ。気をつけもできない。だから教育は気をつけ、休め、回れ右、敬礼といった基本的な軍隊用語と動作を教えることから始まりました」

 加茂が語るように、陸軍中学の教育は基礎の基礎からスタートした。まず号令のかけ方、基本姿勢(気をつけ、休め、解け)、基本動作(匍匐、匍匐前進、横転、横進)を習得させた。
 次いで銃の操作、銃剣術、手榴弾投擲、散開、立哨、警備巡回といった個人的技術の訓練を施した。また昼間・夜間戦闘、白兵戦、奇襲、偵察、陣地構築、通信、兵站確保の他、分隊・小隊規模での軍事技術と指揮方法を教え、指揮官が必要とする技能と知識を学ばせ、最後に集中的に戦闘式の演習を実施した。

 「先生は軍事知識の基礎を教えて下さいました──」
 これは2005年、NHKがベトミンに参加したベトナム残留将兵にフォーカスした番組、『引き裂かれた家族──残留日本兵とベトナムの60年』中で紹介された、クアンガイ陸軍中学出身者らの言葉である。日本人教官が基礎の基礎から教え込んだことは、当の学生がもっともよく記憶し、感謝している、「私たちは日本人教官のご恩を忘れることはできません」と。

 クアンガイ陸軍中学の教育は同年11月には早くも終わりを迎える。フランス軍の北部ハイフォン上陸を受けて、ホー・チ・ミンが「全国抗戦宣言」を発し、ベトミンは北部山岳地帯での抗戦を決定したのだ。
 加茂は北上して抗戦拠点入りし、その後も教育に携わり、「軍訓局」という訓練専門の部署で働き続けた。その貢献が高く評価されていたのだろう、加茂に対する軍上層部の態度は常に礼儀正しかったという。
 そんな加茂に対し、ベトナム政府は第一級戦功勲章、第二級戦功勲章の二つをもって報いている。
 クアンガイ陸軍中学は戦局の影響から短命に終わった。だが同校は近代戦の経験者たる日本人将兵が、本格的な軍隊教育を施したという点で特筆されるべき存在である。
 卒業した者たちは抗仏戦争を戦い、続くベトナム戦争では将官、佐官になるものも現れ、連隊長や作戦参謀として第一線に立ったという。日本人の教えたものが最前線の知恵となっていたと想像するのは、あながち的はずれではないだろう。

 「新ベトナム人」のすべてが日本軍を離脱した残留将兵だったわけではない。なかには、「ベトナム」という土地に早くから理解と愛着を持ち、半ば必然的にベトナム残留を決めた者もいる。次回はもう一人の「新ベトナム人」について語ろう。

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