植民地支配下の人々と連携した日本人
ドイモイ(刷新)政策による経済成長を謳歌するベトナム。2006年、同国のグエン・タン・ズン首相と日本の安倍晋三首相の相互訪問を機に、両国は「戦略的パートナーシップ」を構築することを発表した。経済交流が加速し、両国の関係強化は着々と進んでいる。
近い過去を振り返れば第二次世界大戦に先立ち、通称「仏印進駐」を行い、日本はこのベトナムにも軍を進めていた。そして戦後、隣国中国と同じく共産党一党独裁の体制となった。だが現在ベトナムにおいては、中国や韓国のようなヒステリックな反日運動が起こったり、「歴史認識」が取りざたされたりすることはきわめて稀だ。
日本軍の仏印(ベトナム)進駐とその結果は、これまでに日本国内で「日本軍によるベトナムにおける200万人餓死」なる事件により、批判にさらされることがあった。これは、駐屯する日本軍が米を徴発したことを主な原因として、200万人ものベトナム民衆が餓死したとされるもので、主に左派の日本人ベトナム研究者によって指摘されてきた。だがこの200万という数字はベトナムの初代国家主席ホー・チ・ミンが独立宣言に盛り込んだものに過ぎず、その他の明確な根拠を欠いている。当時、ベトナムはフランスに支配された植民地だった。場所を間借りする日本軍が軍政を敷くことは不可能な状態にあった。行政権、警察権を始めとして主権はフランスが握っていた。しかも米の集散は事実上、華僑の手中にあった。200万人分の米を奪うような徴発などできようはずもない。
「親日」か「反日」か——ある国をそんな類別でのみ捉えれば、粗雑の誹りは免れない。それでもベトナムに在留する邦人の間で「嫌日」や「反日」を気にする声はほとんど聞かれない。
この事実の背景を、当時を知る人の証言を鍵として、ベトナム史に刻まれた「日本」の位置から今一度再考してみよう。そのためにまず、日本が「南進」を明確に打ち出し、現在のベトナムを含む仏領インドシナ(以下仏印)に軍を進めた1940年に焦点を絞る。そこから戦中・戦後と続く日本のベトナムに対する貢献が見えてくるはずだ。
フランスの侵略と支配は80年に及び、安南人(=仏領期、「ベトナム人」の呼称は使われていなかった)の抵抗運動も、仏印軍の前に無力に近かった。仏印政府は彼ら反仏分子を各地の監獄や洋上の孤島に送り、その係累も厳しく処断した。2人以上が無許可で集まれば反仏謀議の容疑で逮捕される時代でもあった。
「安南人はフランス人なんかと話せないんですよ。近くに行くとぶるぶる震えちゃってダメなんです」
「カチナ通り(=現ドンコイ通り。ベトナム南部ホーチミン市の目抜き通り)なんかで、安南人が裸足でぺたぺた歩いているでしょう、そうするとフランスの警察が来てそれをとっ捕まえるんですよ」
「サイゴン(=現ホーチミン市)市内のプールに日本人が行きますよね、するとフランス人から日本人が来たぞと怪訝な目で見られるんですね」
大戦中仏印にいた日本人は口々に語る。無法な法が横行し、人を人と見ない人種的偏見が蔓延する植民地の実状が感じられる証言である。
そんな時代に安南人の独立勢力と密かに連携する日本人がいた。その活動は曲折を経て日本軍による仏印政府打倒のクーデターに結実する。この一大事件は、植民地の桎梏に苦しむ安南人の意識を大きく揺さぶった。「同じ肌の色をした人間がフランスを倒した、自分らもできるのではないか」と——
これらの事実は年表に太字で残る事柄とは別に、語られる機会があってよいものだ。異土の人々に共感し、彼らとともに行動した日本人が、仏印にもいたのである。
仏印進駐、フランス支配を揺るがした事件
「あの頃ベトナムという言葉は口に出すのもはばかられました。なぜ? 独立運動と同じ意味ですから、禁句扱いなんですよ」
仏印時代を知るかつての若者は、戦後60有余年を経てかつての植民地支配の厳しさを端的に語った。彼は昭和史に名を残す右翼思想家・アジア主義者、大川周明の主宰する満鉄東亜経済調査局附属研究所(通称大川塾)に学び、卒業後はその仏語力を買われ、日本軍の軍属(=軍人ではないものの、軍隊に勤める者)を振り出しに、特務機関員、商社員を経て最後は徴集を受け軍人となった。
彼の名は西川捨三郎、対米英開戦へつながる転換点として史上に言及される「仏印進駐」の第一歩を、最先頭に立つ陸軍の斥候隊とともに踏みしめた人物である。
仏印進駐とはいったい何か? これは日本軍が中国大陸で戦っていた蒋介石軍の封じ込めを意図する策動に始まった。
1940年6月20日、「援蒋ルート」の監視と遮断のため、日本は仏印側に日本人の監視団の設置を求め、これを受け入れさせた。フランス本国の対ドイツ降服3日後のことである。フランスではビシー政権が成立していた。
援蒋ルートは大別して3つあり、そのうちの1つが「仏印ルート」と呼ばれていた。これが北部仏印の港町ハイフォンを経由し、蒋介石が拠点とする重慶へ補給物資を流していた。日本はこの補給路を断ち、中国戦線の好転を図ったのだ。
さらに「世界情勢ノ推移ニ伴フ時局処理要綱」(1940年7月)により日本は、仏印に軍を進めることを決定した。南方の資源獲得に向け、仏印をその兵站とするのが狙いである。8月に入ると軍進駐を仏印側に要求、交渉を開始した。
進駐に関する協定は、9月4日に第一次、同月22日に第二次が調印された。日本の中央政府は「平和進駐」のかたちを整えたかった。
だが翌23日午前0時、「平和」を根底から覆す事件が発生する。
協定により仏印国境を越えた南支那方面軍隷下の第五師団に対し、仏印軍は激しく抵抗、戦闘が発生したのである。「平和進駐」は一転して「武力進駐」の様相を呈した。日本軍は迅速に戦闘を展開し、25日には国境の町ドンダンとランソンを制圧した。
この「武力進駐」からほどない同月26日午前0時、印度支那派遣軍は平和裏に港町ハイフォン郊外に上陸した。世に言う「北部仏印進駐」はここに完遂された。その先頭の部隊に前述の西川捨三郎がいたのである。
「私は軍属でしたが、私も完全武装で行きましたよ、歴史的には平和進駐だなんて言っていますが、あれは戦争のつもりだった。まさに敵前上陸でした」
西川は自らの進駐体験をそう回想する。直前に起こった中国国境付近での「武力進駐」の報が全将兵を緊張させていたのだろう。
後日日本のマスコミはこの「北部仏印進駐」を「平和進駐」と報じた。だが現場にいた西川の目から見ると、実態はその形容からほど遠かった。陸路・海路を問わず、仏印軍の抵抗が予想されたため、日本軍は「武力進駐」を覚悟していたのである。
一方の仏印政府もまた、協定があったとはいえ、「平和進駐」を額面通りに受け止めていなかった。陸路仏印入りした日本軍に抵抗した由縁である。そもそも仏印側が日本に対して強い警戒心を抱くに至った経緯はその35年前に遡る。
1905年、安南人の間で民族主義者ファン・ボイ・チャウの主導する「東遊運動」が巻き起こった。運動の趣旨は「大国ロシアに勝利しつつある日本に学べ」と独立の志士(留学生)を日本に送り込み、先進の学術・軍事技術などを修得させようというものである。このため一時期日本は独立派安南人の梁山泊と化していた。これに対し仏印政府は独立の機運を高めるものとして仏印内の運動支援者を弾圧、日本にも在日安南人の取り締まりを求めるなど厳しい処置で望んだ。
そんな日本が今度は直接軍を進めて来るのだ。仏印側が警戒するのも至極当然のことだろう。
事実、フランスの主権下にある土地に軍を進めるにあたって、日本は周到に謀略的な準備を進めていたのである。
ここで1940年9月、進駐に先立つ動きを追ってみることにしよう。
進駐の裏面史、暗中飛躍した日本の軍民
日本軍の到来を目前に控え、現地では安南人の軍による反仏武装決起が企図されていた。
「進駐に合わせてチャン・チュン・ラップという将軍の率いる復国同盟軍が北部で決起したんですよ。ラップ将軍という人は非常に立派な人でしてね——」
西川は日本と安南人の独立勢力との連携を感慨深げに回想する。
ラップ将軍による反仏決起の軍、「復国同盟軍」の編成を援助したのが「印度支那産業」重役の山根道一だった。のちに特務機関「山根機関」を率いることになる彼は、反仏の志士として支援していたラップが日本軍と連絡を取り合う手引きをするなど積極的な事前工作を展開した。同社社員らも「対ベトナム民衆工作」に従事、同軍では顧問格となっていた。
ラップの復国同盟軍は、越境してきた日本軍と歩調を合わせ、約3000人の兵力で立ち上がった。日本軍の先導を務めただけでなく、事前に仏印軍兵営に潜入、仏印軍の戦力を殺ぐべく安南兵(=仏印軍内にいる安南人の兵隊)らの帰順も図った。
こういった特殊工作が機能し、日本軍は国境付近における仏印軍との交戦(=「武力進駐」)を短時日で有利に終えることができた。
武力衝突も辞さない覚悟で海路からの「平和進駐」に臨んだ西川らだったが、部隊は意想外にも整然と居並ぶ仏印軍に出迎えられたのである。先立つ「武力進駐」で軍事力をまざまざと見せつけたことが功を奏したと言えよう。
だが「武力進駐」及び復国同盟軍の決起を、日本の中央政府は歓迎しなかった。ビシー・フランスはあくまで友邦であり、仏印は南方の資源獲得に向けた「兵站」であるべきだった。兵站に大規模な戦力を割くのは不適切である。フランスの支配を温存し、あくまで安定を求めなければならなかった。
このため、現地の日本軍・民間の後押しがあって成立したにもかかわらず、復国同盟軍は結局見殺しにされてしまう。仏印軍は、進駐した日本軍の主力が上海へ去って行くのと同時に、復国同盟軍に大規模な弾圧・掃討を加えた。ラップ将軍はハノイ攻略と独立政権樹立を目指して軍を動かした末、逮捕され銃殺刑に処された。
「もし私に昔の同志達がいたら、決して捕らえられることはなかっただろう」ラップ将軍は最後にそう言い残したという。
西川自身、復国同盟軍の幹部と交わった経験を持つ。それゆえ彼らの悲劇的な運命を語るとき、無念の表情を隠さなかった。また西川の周囲にも同じ思いを抱く日本人がいたのである。
もし自国・自軍のために利用しただけであれば、憤りなど生じないだろう。よしんば利用する意図がまずあったとしても、その連携の過程で仏印にいた日本人たちの心中に、独立運動に対する強いシンパシーが生じていたことは容易に想像できる。だからこそ西川はその後の独立運動支援にも一心に挺身したに違いない。
次回更新予定日 8月23日
