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思い出は玉手箱? 岡野薫子
思い出いっぱい ふくろにいっぱい
時々とりだす玉手箱
大事にしまう玉手箱

 童話『森のネズミのおんがく会』のなかで、年寄りのもの知りもぐらは、こんな“思い出袋”の歌を歌う。歌のなかの玉手箱は、浦島太郎が竜宮城の乙姫様から贈られたという箱からきている。
 浦島太郎は、玉手箱の蓋を開けた瞬間、煙と共に、若者から白髪の老人へ一気に変貌する。玉手箱に閉じこめられていたのは、浦島太郎が龍宮で暮らしていた間の時間であり、現実の世界に戻った時、その中味は煙となって消えてしまう。いや、この瞬間から、浦島太郎の頭のなかに“思い出”となって定着したということだろう。
 “玉手箱”の意を広辞苑でひくと、「浦島伝説から転じて、秘密にして容易に他人に明かさない大切なもの」とある。“思い出”とは、本来そういう性質のものなのだ。“思い出”のしまい場所は、脳の記憶領野がその基地であることは無論だが、思いだすきっかけとなるものは様々ある。例えば、海辺で拾った貝殻や山で拾った石などからは、豊かな情景が思い出となって導きだされてくる。気に入って買いあつめた人形や壺、友人から贈られた品々もまた“思い出”のしまい場所である。
 思い出の品は年齢を重ねる毎にどんどんたまる。飾り棚のケースにおさめてもおさめきれずに、なおふえつづける。
 モノがあふれ返った散らかった家で、まるでモノに埋まるようにして暮らしている年寄りの話は珍しくない。それについて、精神科医の斎藤茂太博士は、著書『「捨てる」「片づける」で人生が楽になる』(新講社)のなかで、次のように分析する。モノが捨てられない人は、過去への執着が強く心身のパワーがなくなってきているからだ。モノを捨てるには体力だけでなく心の力もいるのだ――と。
 確かにその通りに違いない。しかし、逆に、執着心によるパワーに支えられて、本人が思い出の世界に生きているということだってありそうに思えてくる。ただ、この場合は、本人の目にしか見えない……本人の耳にしか聞えない……つまり実在しない思い出の世界と結びついてしまうため、生き生きした感じからは遠くなる。何よりも自然の流れに逆らった生き方をしているからで、そのことに本人は気づくべきだろう。人生最後の実を結ぶ時期にきて、過去の“思い出”に浸りきる時間などはあまりない筈なのである。しかしまた、時に、自由に散策できる“思い出”の小道の景色が、私たちにとっての慰めとなることも事実である。そして、その一方で、老年期も晩年に近づくと、モノへの執着から離れるというよりは、逆に、煩わしさを感じるようになるのが普通だ。旅立ちの日を前に、自ずと身軽になりたい思いが勝ってくるのである。
 “思い出”はモノだけでなく、場所にも宿る。私たちが生まれ育った土地に愛着をもつのは自然の感情で、共通の思い出や懐しさもそこから生まれてくる。同じ背景、同じ舞台を共有する者どうしの連帯感。“うさぎ追いし彼の山……”と、「故郷」の歌にある通りである。
 匂いもまた、過去の思い出を呼び覚ますきっかけとなる。屋台の焼きそばの匂いは忽ちに、幼いころ両親に連れられていった懐しい巣鴨の縁日へと、私を誘いこむ。焼きそばや焼きもろこし、スルメの匂い、薄荷パイプの匂い……。この快い感覚は、その場限りのものではなく、匂いの記憶となって、昔と今を自由に通いあわせてくれる。遠足の日に母がつくった海苔巻の甘酢っぱい匂い。夏蜜柑やキャラメルの匂いと一緒になって遠足の思い出につながる。こうして私たちを二重の幸せで満してくれるのは、一流レストランやパーティの料理でなくて、もっと日常的で素朴なものだ。
 “思い出”という言葉はそれ自体、やさしく懐しい響きをもっていて、“記憶”という言葉からくる印象とはまるで異る。私たちが“思い出”という時、それは記憶のなかにありながら、厳密な意味では、記憶のなかの浄化された部分というふうにもいえそうである。“記憶”という言葉には、厳しさとか深刻さ、思いだしたくないものまでが含まれてきてしまう。
 記憶はマゾだ――といった人がいる。

 記憶はマゾヒストである。あなたを辛い目に合わせるのが得意である。私たちが無意識になって簡単に忘れないようにしてくれる。私たちが実際に体験したことを、論理とは反対の方向に系統立て、解体し、私たちが行きたくないある道へ閉じこめてしまう。
(クロード・オリヴェンシュタイン『老いのレッスン』鳥取絹子訳 紀伊國屋書店)

 忌まわしい記憶を私たちは“思い出”とは呼ばない。ところが、忘れ去りたいという努力が必要なほど、そうした記憶は脳髄への刻みこみが強い。ぐさりと心をつきさされた言葉もまた、その場の情景と共に私たちの脳に保存されてしまう。ただ、こうした記憶も決してそのままではいない。人によって昇華し、成長のバネともなるし、時を経て“思い出”にも変化する。
 子ども時代の記憶が鮮明なのは、瑞々しい脳に刺激が加わって、新鮮な力強い記憶となるからだという。しかも思いだす度数(反復による学習)に比例して、記憶はいよいよ鮮明になっていく。鮮明になるとはいいながら、私の場合、色は褪せてしまい、まるでモノクロの映画を見るようだ。それで、記憶のなかの光景には色がつかないと、これまで思いこんでいた。しかし、まわりの友人たちに聞いてみると、誰もが色つきで憶えているという。子どものころ、赤んぼうのお守りをした時の、おくるみの色や柄まではっきり憶えていた人もいた。この場合、戦時下で、空襲時に防空壕に赤んぼうを避難させる度に必ず着せたおくるみだった。それでなおのこと、印象に強くのこっていたのではないだろうか。また、別の友人は、登山をしたおりの山の景色や咲いていた花は、全て頭のなかのカラーフィルムで保存されているといった。
 改めてふり返ると、私にも、色つきで思いだせる昔の光景はあった。例えば、戦時中、布地の不足していた時代、母が、朱色のカーテンを藍色に染めて、私の防空服を手縫いで仕立ててくれた時のこと。また、勤労動員で工場に通っていた日々、巡回の憲兵が着ていたカーキ色の軍服と赤い肩章、腰に吊した銀色に輝く軍刀。また、少女時代、お気に入りのピンクのワンピースに、黒い点のような小さな水玉の柄があったこと。学生時代、初めて信州の清里高原に植物採集に行った時に見たマツムシ草の涼し気な花の青い色……。特定の場合に限って色がついている。
 記憶力の程度により、情報量が多すぎてカラーでの保存が繁雑な場合、自然とこんなふうに、脳のなかでのコントロールが行われているのかもしれない。
 童話『ふしぎな森のしゃしんやさん』は、モノクロ写真にこだわりつづけている写真屋が主人公の物語である。そのなかで、モノクロおじさんは歌う。

きのうは きょうの むかし
いろいろな色は 消え去り
永遠(とわ)に のこるは
美しい モノクローム
光と影と きらめきの おりなす世界
写真のなかに とじこめられて

 モノクロームの光と影の世界は、ときに、カラフルな世界よりも多くのことを私たちの心に呼びかけてくる。過ぎ去った思い出は、色は褪せてしまっても、白黒の世界で、しっかりとイメージとして定着する。映画にしても、心理的な作品の場合、モノクロームのほうが観る側に強く迫ってくるようなところがある。ベルイマンの『野いちご』をはじめ、ヒッチコックの『レベッカ』、溝口健二の『雨月物語』、成瀬巳喜男の『浮雲』、内田吐夢の『飢餓海峡』等々、思いだすまま挙げてみても、それらの名画はモノクロームであったがために、より集中的で効果的な映像の世界をつくりあげたといえそうだ。
 “思い出”や“記憶”について、あれこれ考えをめぐらしていたおり、たまたま友人の画家・美崎太洋氏の個展を観る機会に恵まれた。氏は和歌山県出身で、海や船を描くのを得意としている。今回も会場には、港町横浜の風景が数多く展示されていた。画廊の一隅にはいつものように、子どものころの心象風景を描いた抽象画に近い作品が並んだ。今回は、そうした手法のものとは別に、『漬物小屋』という作品が展示されて人々の目を集めていた。
 それは、一軒の古びた小屋で、影法師のような一人の男が、幾つかの漬物樽を前に立ち働く光景を描いた小品で、背景の空は強烈な赤一色に着彩されていた。しんとした静けさのなかに草いきれや暑さを感じさせる絵だった。その前で足をとめた人々は、口々に、
 「どこの漬物小屋ですか」
 「何を漬けているんですか」と、尋ねる。
 「タクワンとか福神漬けで、量り売りの漬物を、昔はこうして樽からだして売っていたんです」と、画家は答えている。
 聞けば、それは現実に存在する漬物小屋ではなくて、彼の子どものころの印象をもとに描いた架空の世界のものだった。小屋の近くの草むらにキリギリスがいるのを、少年時代よくとりにいったと、画家は絵の片隅の緑の部分を指し示した。暑かった日を思いだした時、空はひとりでに、強烈な赤になったのである。
 このように、幼年時代は独り独りの原風景として、私たちの心の奥に焼きついている。それらを日記に書きのこしておけば、過去の自分の姿が、より正確によみがえってくることはいうまでもない。子どものころの日記とか作文とかが保存されていれば、後々、思いがけない自己発見の手がかりともなる。
 “書く”という行為によって、記憶はより確実のものになる。そして、それには、記憶を封じこめて日常的には忘れるという、全く正反対の効果もある。
 身内の亡くなったおりに配る“思い出の記”には、のこされた者自身への癒しの要素が自ずと入ってくる。
 そしてまた、“書く”という行為は、“考える”という頭の働きがあってのことなので、思いもよらない発見に己れ自身が傷つく場合だってあるのだ。
 私が小学校4年生のころ同じクラスに、M子ちゃんという、ちょっと変わった女の子がいた。彼女は目のパッチリした派手な顔立ちで、性格も勝ち気で明るいのに友だちは一人もいなかった。――というのも、彼女がいつも垢まみれで、頭にはシラミがたかり、近寄ると浮浪者のような臭いがしたからだ。やせ細った体にだぶだぶの服をだらしなく着ていて、怒るとべらんめえ調でまくしたてる。悪童たちは彼女を“お化け”と呼んでからかったが、それくらいでは彼女は笑っていて相手にしない。ところが、何か禁句のひと言があるらしく、それを耳もとでいわれると、突然、彼女は人が変わったようになった。M子は男の子に掴みかかり、のびた黒い爪で相手の顔をひっかいた。
 昂然と細い肩をそびやかし、目にいっぱい涙をためながら荒い息をついている彼女を、私たちは遠巻きにしてこわごわ見ていた。
 そんな或る日、担任の女教師がM子ひとりに、作文を書いてくるよう命じた。当時、豊田正子の『綴方教室』が評判になり、映画化もされていた。貧乏暮らしにも明るさを失わない少女が正直に綴った手記で、作文の指導をした教師のことも話題になった。クラスの担任は、M子を第二の豊田正子に育てたかったのだろうか。彼女が書いてきた作文を、皆の前で本人に朗読させた。彼女の両親が、広々とした屑の仕切り場で働いていることを、私たちは知った。いつも彼女が着ているだぶだぶの服は、屑の山の中からみつけたものだっただろう。
 いつもの元気はどこへやら、彼女が消え入るような声で読んだことを私は憶えている。「もっと大きな声で」と、年若い教師は、教室をまわって歩きながら励ました。先生にいわれるまま正直にわが家のことを書いた作文を、皆の前で発表させられるなど、M子は夢にも思っていなかっただろう。教師の行為は或る意味ではひどく残酷な行為であった。
 M子はそれ以来、妙に自意識過剰で暗い翳のある少女に変わった。いつも淋しそうにしている彼女に悪童たちも張合いをなくしてか、いじめることはなくなった。
 彼女はその後、どんな人生を歩んだであろう。彼女の心に焼きついたに違いないこの時の記憶は、成長のバネになることができただろうか。
 私たちの頭のなかで、記憶のうちの或るものは“思い出”に変化する。変化のしかたには、年月の経過がかなり重要な因子としてかかわってくる。刻の流れはまるで風化作用のように“記憶”に働きかけて、忘却の彼方に私たちを連れ去る。また、当時は理解できなかったことが、経験を積んだ今、理解できるようになり、まるで記憶の粒の角がとれたようなぐあいになって、“思い出”に変化していたりもする。
 ベルイマンの映画『野いちご』の場面場面が、ここにきて再び思いだされる。この作品の主題は“生”と“死”についてであり、ストーリーの概略については「人生の長い旅路」の項で既に紹介した。
 映画は、老いた主人公の回想につれて、現在と過去が交錯しながら展開する方法で、78歳のボールイ博士は、かつて家族と夏を過した思い出の古い家に立ち寄り、自分の過去と向き合い、失われた時間のなかに真実を見出すのである。荒れ果てた古い家も、思い出のなかでは新しく美しい。そこにいる人々も、まぶしいばかり青春の真盛りだ。彼ひとりが年老いて、かつての光景を目の前に、当時おこったことの真実の意味を知るのである。経験をつんだ目でふり返れば、往時の事柄を別の角度から理解でき、そこから新しい局面は開けてくる。だが、年とった今となっては時既に遅しで、記憶のなかに埋没された過去の思い出にしか過ぎなくなっている。
 「私は“思い出”には興味がありません。前へ進むだけです」と、或る女性作家がテレビで語っていた。彼女はまだまだ若く、超然とした態度で自信あり気に見えたが、この時ふと、彼女の顔に、そうだろうか? と思う気持が正直に表われた。過去を振り向かず前進あるのみというところを、“思い出”という言葉を不用意に使ってしまったためだろう。
 「私は老人ではありません」と、彼女はいいたかったのかもしれない。
 ヒルティの『幸福論』のなかにも、決してうしろをふり向かないこと――という言葉は屡々でてくる。とりわけ、老年期におちいり勝ちな、悔んでも仕方のない過去を徒らにふり向くな――と、彼は忠告する。老年期の生活目的は実を結ぶことなのに、ここまできてふり向くのは、それと相反することだからである。「過ぎ去った生活段階の回顧に停滞するのは退化である」と、ヒルティは断言するのだが、しかし、“思い出”が老年期の慰めになる場合は少なくない。
 年老いてからのクラス会が若いころよりも旺んなのは、時間的なゆとりができたというばかりでなく、共通の思い出をもつ者どうしであることが、一層強く意識されるようになったからである。これっきり、もう会えないかも知れない――という思いもかなり切実である。こうしたまとまった形での“思い出”に浸る会というのは、それなりの効用がある。少なくとも、独り“思い出”の世界に捉われているよりは、この方が開放的で健康的だ。だが、それも、老年期の後半になると、歯が欠けるように、出席者の人数は減ってゆき、幹事役がいなくなると同時に終止符がうたれることになる。戦中から戦後にかけての苦しかった学生時代、寮生活を共にした私たちの「こまひめ会」も、そろそろ集まり方に無理がでてきた。時の流れは無情で、容赦はない。卒業後の人生もまちまちだし、懐しさだけでは結束力はつづかない。
 その点、同じ仕事をしていた者どうしとなると、事情は変わる。この夏、いつものように、かつて短編映画の仕事をしていた仲間から、暑気払いの知らせが届いた。日映科学映画、OB会の幹事からである。「付合いは格別。元気なうち、飲めるうち、会っておきたいものです」と、文面にあった。私が科学映画のシナリオライターとして第一線に立っていたのは、今から40年以上も昔である。科学映画の世界は男社会で、OB会に集まる面々も、演出家をはじめ、カメラマン、照明係と、男性の数が圧倒的に多い。映画製作はスタッフを組んでの仕事であり、寝食を共にしながら一つの作品の完成を目ざすわけで、家族的な仲間意識が強い。年齢的にバラツキはあるが、普通の企業のような上下関係はない。「付合いは格別」の意はそういうことなのである。“映画製作”という、趣味が仕事になったような人たちの集まりなので、年老いての現役もいて、話題は昔と今と往きつ戻りつしながら尽きることがない。“思い出”は皆に元気を与えてくれる。年々人は欠けるが、最後のふたりになるまで続けようと皆は互いにいいあっていた。あの世への旅立ちが年齢順かといえば、そうとも限らないので、こればかりは全く予測のしようがない。年に一度、元気なうちに会っておこうというのは、人間的で自然な感情だろう。
 黒澤明監督の遺作となった映画『まあだだよ』は、作家・内田百■(けん)の半生を描いた作品である。飄々として、ユーモアあふれる暮らしを送る百■(けん)先生を、元教え子たちは幾歳になっても慕いつづけ、先生の身辺に何か事があるとすぐに駈けつける。元教え子たちが開く誕生会で、百■(けん)先生が、まだまだ死なないよ――という意味で「まあだだよ」と、冗談混りにいうところからつけられたのが、この題名だ。「まあだだよ」が、かくれんぼ遊びの「もういいかい」をうける言葉であることは、誰もが知っている。ようやくかくれ場所をみつけて、「もういいよ」といったあとの、あのどきどきする気持。かくれ終れば、鬼がみつけてくれるのを待つだけだ。なかなかみつけてくれないと、逆に心細くなったりする。
 映画のラスト近く、誕生会のその夜、先生の体調を心配しながら家までついてきた教え子ふたりは、先生が寝ている隣りの部屋で酒を酌み交しながら夜を明かす。「まあだだよ」のんびりした寝言が聞えて、教え子ふたりはほっとして顔を見あわせる。映画はそこから、百■(けん)先生の夢の世界へ――子ども時代の“思い出”の世界へと入っていく。
 夕暮れ間近の土手の上を子どもたちが、わらわら走っていく光景につづいて、一人の男の子が稲叢のなかにかくれる場面。子ども時代の百■(けん)先生である。「まあだだよ」と、その子はいう。稲叢のなかで、子どもが(わら)のぐあいを直すうち、カメラは美しい夕焼け空へ――あまりにも美しすぎて異様なほどの夕焼けのなかへ私たちを誘いこむ。「もういいよ」の声は聞えず「まあだだよ」の声も聞えない。目の前にあるのはステンドグラスのような夕焼け空ばかりだ。百■(けん)先生が目にしたものは、そのまま、あの世の世界への入り口だっただろう。
 「もういいよ」の、声にならない声を発した瞬間、時空を超えて新たな世界の扉は開かれたに違いない。そのことを暗示しながら、映画のなかの百■(けん)先生も生涯の幕を閉じた。
 遠い子どものころの記憶が“思い出”として、こんなふうに私たちの最後に現われてくれるとしたら、それはとても自然だし、理想の形だと思わずにはいられない。“思い出”が玉手箱になるのは、きっとその時なのだ。

(了)
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