Web草思
おすもうさん 高橋秀実
最終回 神様にたずねる
横綱の「品格」

 朝青龍騒動の中、その動向が注目されたのは横綱審議委員会だった。朝青龍の品格のあるなしを判定したのも彼らで、朝青龍が帰国すると早速彼を呼び出した。そして朝青龍が「品格は磨いていきたい」などと謝罪すると、委員会は「朝青龍が改心した」と判断し、「今後の言動を見守る」と決定した。「自ら引退せよ」と個人的に朝青龍の引退を決定していた内館牧子委員も「『横審の見守るという総意を一員として尊重する』と態度をやわらげた」(朝日新聞、2007年12月1日)そうである。
 なぜ彼らはこの「品格」にこだわるのだろうか?
 歴史をさかのぼると横綱審議委員会が設置されたのは、昭和25年1月の春場所の最中だった。この場所には東富士、照國、羽黒山の3横綱がいたのだが、東富士が3日目から休場、続いて4日目から照國が休場、さらに5日目から羽黒山まで休場してしまい、土俵上から横綱の姿が消えてしまったのである。こうなると「横綱土俵入り」もできなくなってしまう。「どうなっているのか」「協会は何をやっているのか」「力士はだらしない」などと大日本相撲協会は世間から激しい非難を浴びた。そこで協会は何らかの方策を打ち出さねばと7日目に取締会を開き、横綱は成績次第で大関に格下げになるという新たな決まりを決定した。断固たる姿勢を世間にアピールしようとしたのである。ところが場所が終わり、いざ次の場所に向けて番付編成会議が開かれると彼らは、誰を格下げすることになるのか? 本当に格下げしてよいものだろうか? と逡巡した。そして議論を重ねた挙げ句、「横綱には伝統と権威がある」(『相撲大事典』金指基著 日本相撲協会監修 現代書館 2002年)という理由で「格下げ」自体を撤回した。やっぱり止めます、と。そしてその「代わりに横綱の推薦、格下げ、引退勧告を審議する機関を置くことになった」(同前)。それが「各方面の良識者」などから構成される横綱審議委員会なのである。
 自分たちで決めるとお互いに角が立つので、第三者に決めてもらってそれに従う。ちなみに「品格・力量が抜群」という横綱の条件は、この委員会が定めた内規である。力量だけに限定すると横綱がいなくなってしまうので、それを防ぐために「品格」という救済策を講じたというわけなのだった。いわば便宜上の「品格」。朝青龍の場合、横綱昇進時に彼の品格を認めたのは他ならぬこの横綱審議委員会である。となると、彼らにも任命責任があるのではないかと思えるのだが、『横綱審議委員会規則』によれば、同委員会はあくまで「横綱推薦・その他横綱に関する諸種の案件につき協会の諮問に答申し、またはその発議に基づき進言するもの」(第2条)にすぎない。「答申」と「進言」をするだけで、実は決定権も責任もないのである。
 相撲とは責任転嫁の至芸なのではないだろうか。
 あらためて私は感じ入った。勝負にしてもそうだった。もともと相撲の勝負は行司が判定していた。ところが力士たちが立ち合いで「待った」をし始め、行司を無視するようになると行司は「競技の進行」係となった。勝敗の最終的判定は、土俵の回りに座る5人の勝負検査役(現審判委員)に委ねられたのである。彼らは「物言い」をつけて土俵に上がって協議する。そして誰の意見かわからないままに裁定が下される。相撲は誰かが決めずに自然と決まる。話し合って問題を解決するというより、話し合いで責任をうやむやにするシステムなのである。
 私はため息をつき、天を見上げた。相撲はすべてが「そうなっている」もの。そうなっているのだからそうするより他になし、是非を問うにもたずねる相手は地上にいないのである。というわけで、私は大相撲の守り神とされる三神のひとり、「鹿島大神」をたずねることにしたのだった。

「ぜんぶ引き分け」

 JR高速バスで東京駅から約2時間30分。終点の「鹿島神宮」停留所で下り、閑散とした商店街を10分ほど歩くと巨大な鳥居が見えてくる。鳥居の向こうは樹齢数百年、千年を超える杉などのうっそうとした森林。鹿島神宮は皇紀元年(紀元前660年)に創建された関東地方で最大にして最古の神社といわれているのである。
 相撲の神様はここにいらっしゃるのか……。
 神宮の祭神、つまり「鹿島大神」とは『古事記』や『日本書紀』に登場する「武甕槌神たけみかづちのかみ」だという。この神は天照大御神の甥にあたり、「出雲国で大国主神と国譲りの話し合い」(『新鹿島神宮誌』鹿島神宮社務所編集・発行、1995年)などして「天照大御神の神孫のため、国中を一つにまとめられた」(同前)そうである。地元のパンフレットには「武の神」などとあるが、実は「和合の神様」ということなのだろうか。このあたりの由来をさらに詳しく知るべく、元宮司の東実氏の著作(『鹿島神宮』学生社 2000年)を読んでみたのだが、彼自身「一生研究しつづけたとしても、知りうるところは氷山の一角にしかすぎない」と記していた。なんでも武甕槌神は文献上「建御雷之男神たけみかづちのおのかみ」「建布都神たけふつのかみ」「豊布都神とよふつのかみ」「香嶋天之大神かしまあめのおおかみ」など9つの名前があるらしいのだ。彼はこう書いている。

 雄大な楼門を仰ぎ、神厳をきわめた社殿に詣でて帰ってゆく人々は、鹿島神宮の存在に何の不思議も抱いていないのである。不思議なことはない。鹿島神宮がそこにあるからなのである。しかし、よく考えてみれば不思議である。なぜなら、どうして鹿島神宮が鹿島にあるのか、どうして鹿島神宮の祭神が武甕槌神なのか、……わたしたちの知りたい武甕槌神がどういう人で、どういうことをしたのか、なぜ鹿島にまつられたのかといったことを文献の上で探すときには、わずかに、神話の世界からうかがい知るだけである。しかし、現実に鹿島神宮がある。
(同前)

 大切なのは理由ではなく、武甕槌神を祭った鹿島神宮が現にここに「ある」という事実なのである。私が訪れたのは11月3日。毎年この日に鹿島神宮では「相撲祭」が行われることになっていた。鹿島神宮の氏子である近隣13地区の童男(7歳以下)たちが境内で相撲をとる。平安時代から綿々と続く行事で、きっと相撲の原点もここに「ある」と私は考えることにしたのである。
 午前9時30分。本殿前に子供たちの行列が到着した。皆、七五三のお参りに出掛けるようなブレザー姿。そしてその上から相撲の化粧回しをしめている。自分の名前に「山」や「海」などを付けた醜名の刺繍入りだ。本殿の前にはゴザが敷かれ、その上に土俵が用意されている。その四方には竹(齋竹いみたけ)が立てられ、注連縄しめなわが張られている。国技館と同じようにここは聖なる場所なのである。土俵の周囲にはパイプ椅子が並べられ、父兄や地区長らがずらりと鎮座している。そして土俵の四方には大相撲と同じように検査役が座っていた。
 まず呼出しが土俵に入り、拍子木を打った。
 静まり返る境内。続いて上下姿の行司が土俵上で祭りの由来を記した巻物(「相撲古事記すもうふることぶみ」)を読み上げた。大相撲の行司も顔負けの伸びのある見事な発声だが、行司、呼出し、検査役ともに13地区のひとつ、仲町区のおじさんたちである。毎年持ち回りでひとつの地区が相撲を仕切ることになっているらしい。
 「ひが~し~ 天の佑~ に~し~宝山~」
 団扇を持った呼び出しが、東西の力士を呼び上げた。最初に土俵に入ったのは化粧回しを身に付けた0歳の赤ん坊。世話役が抱きかかえて入場するのである。
 「はっけよい、のこった」
 行司の一声で、双方は土俵中央で赤ん坊を揺らし合う。「のこったのこった」と言いながら行司がきょとんとした赤ん坊の頬をつんつんとつついたりする。「きゃーかわいいー」「がんばれ!」などの歓声が上がる。
 「はい、それまで。ただ今の勝負、引き分けー」
 取り組みはすべて引き分けなのである。出番を待つ子供たちもそのことを承知しており、土俵の回りで「オレめっちゃ力出すからな」「押したらダメなんだよ」「ぜんぶ引き分けなんだよ」「やらせじゃん」などとじゃれ合っている。
 2歳児からはブレザー姿に化粧回しという出で立ちで土俵に入る。そして後ろに付き添いの大人がついて転ばないように回しを握る。行司の「はっけよい、のこった」の声で子供たちはニコニコしながら相手の手をつかみ力を込める。押し合いというより「はい、それまで」と言われるまで懸命に力競べをしているかのよう。引き分けとわかっていても、その途中経過に力を込めることはできる。むしろ引き分けだから安心して力競べしている様子なのだ。
 「力いっぱいやったのかい?」
 顔を真っ赤にして取り組んだ豆力士に、おばあちゃんがたずねた。すると彼は、
 「いや弱気でやった」
 「なんで?」
 「だって相手が弱いんだもん」
 彼らは「力加減」を試しているのである。これは大相撲にも通じる境地だろう。よく「全力で当たれ」などと言われるが、あの巨体で本当に正面から全力で当たり合えば確実にケガをする。大切なのは、相手との拮抗関係内での「全力」なのである。
 引き分けという判定に、検査役から「物言い」がつくこともある。検査役が土俵中央に集まって協議し、代表がマイクを握ってこんなことを言う。「ただ今の勝負、鹿島大神から、もう一番楽しく取ってという御告げがありました。よって取り直しとさせていただきます」
 場内大爆笑。子供が勝手に転んでしまうこともあるが、そういう場合も「物言い」がつき「取り直し」して引き分けにするのである。
 取り組みの途中には、寄付金の発表がある。ちょうど大相撲の懸賞金のようなものである。行司が半紙を持ち、一枚一枚「金一封 ○○美容室から仲町区に下さる~」などと読み上げるのである。これもまた大相撲の歴史に通じている。明治42年に国技館が建設される前、相撲は回向院(寺院)、江戸時代は江東区の富岡八幡宮で行われていた。これは相撲を巡って金銭トラブルが絶えなかったので、幕府が収益を神社・寺院に寄付させることで健全化を図ろうとしたため。大相撲に神事が取り入れられたのは、金銭の浄財化のためともいえるようだ。
 取り組みがすべて終了すると、呼出しが拍子木を打った。そして13の区長たちが土俵中央に集まり、来年の相撲祭りについて協議した。といっても一瞬のことで「次回は○○区ということでよろしいでしょうか?」とひとりが言い、全員で
 「異議なーーし」
 と唱和するのであった。氏子たちは相撲でひとつにまとまる。相撲は闘いではなく、共に楽しむ「神人和楽しんじんわらく」という祭事なのである。

「カミ」の居場所

 ──なぜ、相撲を取るのでしょうか?
 私は鹿島神宮権権禰宣ごんねぎの中嶋勇人さんにたずねた。
 「神様に見せる、奉納するということなんです」
 私はこの「奉納」の意味が今ひとつ理解できなかった。お供え物ならまだしも「相撲を奉納する」とはどういうことなのだろうか。
 「“神にぎわい”とも言います。神様に見てもらって楽しんでいただくんです」
 能や神楽と同じように、相撲は神様をよろこばすためのものなのだという。
 ──なぜ勝ち負けがないんでしょうか?
 「あくまで想像ですが、勝ち負けをつけるというのは、お宮の行事としては縁起が悪いからでしょう。何しろ子供ですしね。負けることを避けるために、すべてを引き分けにしているんだと思います。又、勝ち負けということでなく、和やかに親しみをもって楽しく過ごすことで子供の豊かな成長を神様にお見せし、健やかな成長を願う意味も込められているようです」
 ──それを見て神様はよろこぶということですね。
 「そういうことになります」
 ──神様はどこにいらっしゃるのでしょうか?
 唐突に私はたずねた。「見る」のだから、どこかに居るはず。そしてその神が大相撲を見守りにやって来ることになっているのである。
 「もちろん御本殿にいらっしゃって、この神域の秘められた所から和やかにご覧になられていると思われます」
 ──やはり社殿の中に……。
 「そう特定はしきれないんですね」
 ──移動するということでしょうか?
 「社殿の中にも天上世界にも共存しているというのでしょうか……」
 ──どこにでもいらっしゃるということでしょうか?
 「うーーん」
 ──…………。
 「私たち神職は祭事には必ず祝詞を読み上げ、神様にその行事の内容を申し上げます。そのなかで神と人の行交いがあるのだと考えているんです」
 神様は「隠れている」ということではないのだろうか?
 私はふと思い立った。『古事記』にしても、神々は現れるとすぐに「身を隠しき」とある。日本語学者、阪倉篤義の研究によると、そもそも「カミ」の語源は「クマ(隠れたるもの)」だという。古代日本語では「クマ」は「蔭になっている所、目のとどかぬ所」(『講座日本語の語彙 第1巻』佐藤喜代治編 明治書院 昭和57年)を意味しており、地名でも「熊野」や「球磨郡」「久万」など「クマ」の付く所は決まって「奥深く隠れた場所」だという。今日でも「クマなく探す」という言い方が残っている。この kuma が母音交替によって kami に変化したらしい。

(神は)その姿をわれわれの前に現わすことがないのが特色であった。強力な力を以て、人間に災いを与え、あるいは収穫を約束し、託宣を下してその意志を表明することはあっても、それは神懸りした者の口を通じてであって、人間の目には見えないのが、神というものであった。奥深く隠れ住む虎や狼あるいは蛇を、神としたのも、そういう所からである。
(同前)

 「神」とは即ち「隠れたるもの」。神が隠れているのではなく、隠れておりことそのものが神なのである。最初から隠れているから、私たちは見ることも知ることも事前に封じられているのだ。
 土俵の中央には御幣がポツンと立っていた。
 「あれは何ですか?」
 力士たちに御幣の意味をたずねることからこの取材は始まった。彼らは首を傾げ、「さあ何でしょう?」「なんか清めるもんじゃないんですか」などと言いながら、土俵を掃除していた。御幣はきっと「隠れている」という目印だったのである。何かが隠れているのではなく、隠れているから何かが起きる予感がする。彼らは土俵を清め、相撲を取って、また清める。場所の土俵も行司や呼出しが清めて、力士が相撲を取り、また清めるという繰り返し。清めたままでは「清める」行為ができず、いったん荒すことで清めることができるのである。
 人々の痕跡を消し去って、円い土俵はただ静かに佇んでいる。
 しばらく眺めていると、私にはこれが深い穴のように見えてくるのであった。
(了)
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