力が抜けた土俵
果たして朝青龍は帰ってくるのだろうか?
大相撲秋場所千秋楽をテレビで観戦しながら私は考えた。彼のいない土俵はやはり張りがない。結びの一番に彼が登場しないと結びにもならないようで、何やら全体的にしまりというものがないような気がするのである。
朝青龍は「品格がない」やら「この男は、日本人の愛する国技をどこまで冒涜するのか」(週刊現代、8/18・25合併号)などとさんざんバッシングされてモンゴルに帰国してしまったわけだが、その結果、優勝争いはモンゴル人横綱の白鵬とモンゴル人前頭十二枚目の旭天鵬になった。モンゴル人を追い出したらモンゴル人同士の対決になったというわけである。さらには十両の優勝も把瑠都(エストニア)で幕下優勝も玉鷲(モンゴル)、序二段優勝が保志桜(モンゴル)で序の口優勝まで金龍山(韓国)という具合なので、将来的にも日本人力士の出る幕はなさそうなのである。
そのせいだろうか、NHKの相撲中継も脱力感が滲み出ていた。把瑠都(エストニア)が十両優勝を決めた時は解説の大山親方が一言。
「やっぱり強いんですよ」
それ以外言いようがないのである。前頭十二枚目の旭天鵬(モンゴル)が玉春日に勝ち、結びの一番で白鵬(モンゴル)が負ければ優勝決定戦が行われることになった瞬間などは、通常なら盛り上げるべき場面だが、こんなやりとり──。
藤井康生アナ「まあ、それでも旭天鵬が最後の取り組みまで楽しみを持たせてくれましたから……」
北の富士勝昭「そうです。あの~玉春日には悪いんですけどね。これで千秋楽、あの結びの一番までね。あれですよ、これ決まっちゃうとね……」
藤井康生アナ「そうなんですよね」
北の富士勝昭「なんか味気ないですよね」
藤井康生アナ「私たち放送するほうもなんとなく、そんなこと言ってはいけないんですけど、力が抜けてしまうようなところがあります」
ただでさえつまらない相撲がもっとつまらなくなりそうなところだった、と安堵しているようなのだった。そして最も印象的だったのは序二段優勝を決めた保志桜(モンゴル)へのインタビューである。
──優勝決定戦はどうでしたか?
「……落ち着いていけば大丈夫です」
──場所前の稽古はどうでしたか?
「そんなにできなかったです。少しだけだった」
少しだけしか稽古しなかったというのである。少しでも大丈夫ということになってしまうので、アナウンサーが「作戦としては?」とやりとりを立て直そうと質問すると、彼はニコニコしながらたった一言。
「ふつうに当たっていけばいいです」
──勝った瞬間はどうでしたか?
「……よかったですね」
何もしなくても勝てちゃう、と言わんばかりでそれ以上訊くことがなくなってしまったのである。
言い知れぬ脱力感。かくいう私も午後一時から観戦していたのだが、途中でチャンネルを切り換えた。その日は自民党の総裁選挙が行われており、その結果が気になったのである。マスコミは朝青龍や日本相撲協会を「無責任だ」とさかんに追及していたが、その最中に安倍総理大臣が所信表明の直後に辞任するという前代未聞の無責任ぶりを披露してしまい、そうなると巡業を休んでまでモンゴルの子供たちのためにチャリティーでサッカーをした朝青龍はむしろ責任感があったような気がしてくるのである。
「力士の品格」
「八百長」「相撲をさぼる」「責任逃れ」などが朝青龍バッシングの趣旨だったようだが、この連載でこれまで書いてきたように、それらはそのまま相撲界の文化、言い換えるなら伝統のようなものである。
例えば、八百長は「八百長」という言葉自体、相撲界から生まれたものである。元若者頭の朝日達栄次によると、その由来は明治初期。八百屋の長兵衛という人が七代目伊勢ノ海親方と囲碁をした際、わざと「負けてやって機嫌よくさせた」(小島貞二編『はなしの土俵』ベースボール・マガジン社、1995年)ことから、「八百長」と呼ばれるようになった。つまり不正というより粋な話なのである。『お相撲さん物語』(小泉三郎著、秦山房、大正7年)によれば、八百長の基本は星の貸し借りだった。昇進がかかっている場所などに相手から借りて、次の場所で返す。借りたものはきちんと返すことが大切で、これを当時は「
ところが相撲が「国技」と呼ばれるようになってから、こうした伝統は世間の非難の対象になった。これまで何度も書いてきたことだが、相撲が「国技」になったのは、明治42年に国技館が建設されたからである。相撲を取る建物が国技館だから「国技」と呼ばれるようになり、そして「国技なのに力士たちがだらしない」と非難された。自ら「相撲は国技」と宣言したわけでもないのに、勝手に「国技」と呼ばれ「それでも国技か」と勝手に非難されるようになったのである。そして力士たちは武士だともいわれるようになった。武士なのにだらしない、と。歴史をさかのぼれば力士は武士ではなく、武士たちが見て楽しむ一種の芸能だったのだが、何しろ「国技」だし、「士」もつくことから勝手に武士だといわれるようになり、「武士らしくない」と非難されるようになったのである。今回のバッシングでも横綱審議委員の内舘牧子が次のように書いていた。
「モンゴルの子供たちを喜ばせるためにサッカーをやったのだ」という声もあるが、巡業先でも日本の子供たちが横綱を待っている。私は八月四日の仙台巡業に行ったが、子供たちのはしゃぎようは大変なもので、力士たちは汗だくでサービスしていた。無断帰国をしてでも故国の子供を喜ばすというのは、横綱のやることではない。たとえ己の本心に反してでもだ。これも武士の姿勢だろう。
(週刊朝日、2007年8月24日号)
故国のためなら無断帰国も辞さないというほうが武士らしいような気もするが、とにかく力士は武士で、「武士なのに」と非難する。おそらく彼を「武士らしくない」と非難することで「武士らしさ」という理想のイメージを保持しようとしているのだろう。昨今の「品格がない」という非難も同様である。例えば朝日新聞(2007年9月30日)のアンケートでも識者100人にまず「横綱に『品格』は必要だと思いますか?」と質問し、その後に「あなたが考える『品格のある人』とは、どのような人ですか?」とたずねている。つまりとり急ぎ、力士の品格を問うてから「品格」の内容を考えようとするのである。
国技相撲は世間の反面教師なのだろうか。
「まれびと」としてのおすもうさん
そう思いながら観たのが、朝青龍の親方である高砂浦五郎へのインタビューだった。
朝青龍も無責任だが弟子を指導できない高砂親方も無責任、とこれまた非難集中が予想されたのだが、彼は朝青龍が治療する温泉施設についてこう説明した。
(肌が)ツルツル、ツルツル……すごく気持ちよかった。
監視役のはずの高砂親方は温泉に入り、気持ち良くなっていたのである。品格を超越した答えに私は一瞬、呆気にとられた。彼は朝青龍とともにモンゴルに同行したが、すぐさま行方をくらまし、わずか35時間後には日本に帰国していた。「一体モンゴルで何をしていたのか?」と記者たちから質問されると、
朝青龍は空港から直接、あのホテルのほうへ。僕は食事をしてから。おなかが空いていたので。僕らが(ホテルに)着いたのは4時です。ちょっと昼前まで休ませてもらって、それから朝食がてら話をして、すぐに温泉施設に行きました。帰ってきて今度は昼食を食べていろんなあれをして、で、そのまま帰ってきました。
私は思わず吹き出してしまった。彼は食事のことしか語っていない。食事をして温泉に入ったと言っているだけで、肝心の質問内容については「いろんなあれ」と一言で流している。ちなみに療養施設についても「ゲル(モンゴル民族の伝統的な家)がいっぱいあって、その建物とゲルの間に大きなゲルがあって、それがレストラン」とやはり食事に言及しようとしていた。
緊迫した記者会見で見せたこの呑気ぶり。相撲の伝統とは「品格」のあるなしではなく、この「非難されたら、いなす」という技にこそ受け継がれているのではないだろうか。そして私はふと明治の民俗学者、折口信夫の「まれびと」説を考えたのである。
折口信夫によれば、相撲はもともと「薪能」のひとつで、古代までさかのぼれば「饗宴」あるいは「宴会」のようなものだったという。どこからか客人(まれびと)がやってきて飲食でもてなされる。その客人が力士の原点だというのである。
「まれ」という語の遡れる限りの古い意義において、最少の度数の出現または訪問を示すものであったことは言われる。「ひと」という語も、人間の意味に固定する前は、神および継承者の義があったらしい。その側から見れば、「まれひと」は来訪する神ということになる。「ひと」についてもう一段推測しやすい考えは、人にして神なるものを表すことがあったとするのである。人の扮した神なるがゆえに「ひと」と称したとするのである。
(折口信夫『古代研究 III 国文学の発生』中央公論新社、2003年)
「まれびと」とは、たまにやってくる神に扮した客なのである。確かに力士は今でも「まれ(稀)」な存在である。姿形もまれだし、出くわすことも滅多にない。場所を見に行くと、人々は彼らの体をパチパチと叩こうとしたり、赤ん坊を抱かせようとするなど、一種の縁起物と考えている節がある。そういえば、国技館近くで力士を目撃した子供がこんなことを言っていた。
「おすもうさんは宙に浮いているからおかしい」
聞けば、自転車に乗った浴衣姿の力士に遭遇したらしく、体が自転車を覆い隠していたので力士が風船のように浮いて見えたらしいのである。
高砂親方が飲食にこだわっていたのも「まれびと」性の現れともいえるだろう。相撲部屋の食事は基本的に後援会などからの寄贈品。親方の多くが現役引退後も体型を維持しているのも、後援会からいつまでももてなされ続けているからなのである。力士が土俵に上がる際に出身地をアナウンスされるのも、どこからやってきたのかという「まれびと」性の表示ともいえる。そう考えると、外国出身の力士たちは、まれびとの中のまれびとだろう。国内は均質化しているので、出身地は外国のほうがまれびとらしいし、若い日本人力士たちも彼らについて
「ものが違いますよ」
と口を揃えていた。体格、根性、気合いが違うと彼らは感心し、相撲教習所でも若い外国人力士たちに軽々と投げられていた。まさにまれなるまれびと。日本相撲協会もまれびとを求めて外国人力士たちを日本に招聘したのかもしれない。
高砂親方は朝青龍の祖国モンゴルについてこう語っていた。
ウランバートルからその宿泊施設まで行くのに6時間ぐらいかかるんですよ。舗装された道が半分半分くらい。ホントにすごいという風に感じました。だけれども、そのかわり自然がいっぱいということも感じました。ホントに手つかずの自然がそのまま残っている。……それで帰りにね、虹を見たんですよ。ダブルアーチの虹。すっごいきれいなんですね。なんていうのかな、でも、一瞬、そんなものワーッと、あの中にいると消えちゃうね。あのホントに皆さんに囲まれてしかめっ面している自分がパーッと消えちゃう。
モンゴルはまるで現世を超えた世界のようである。それゆえ指導するにも「そんなになんとかかんとかできるような所じゃない」と。これもまれびとの特徴である。折口によれば、まれびとは「『とこよ』から時を定めて来り訪」(同前)れる者。「とこよ」とは「死の常闇の国」なので、「幸福は与えてくれるのだが、
相撲は古代の頃と変わらないのかもしれない。では、なぜ私たちはそれをいまだに維持しているのだろうか。
伝統行事の目的について折口信夫はこう指摘していた。
いつたい目的を生ずるといふことは、その前にある動作が固定して来なければならぬ。つまり習慣になつて来なければならない、といふことでせう。そしてその習慣を繰り返してゐるうちに、それがどういふ訣で繰り返されてゐるかといふことで、その目的を考へて来ることになるのです。さうしてその目的らしいものをとり出して来て、今度はその目的に合つたやうな風に、段々藝能の形を変へて来ます。
(折口信夫『日本藝能史六講』講談社学術文庫、1991年)
何かの動作を繰り返しているうちに、ふと「何のためにやっているのか?」と考え、答えを見出すと、今度はその答えに沿って形を変えていくようになるということである。国技相撲は外国人力士ばかり。矛盾しているようだが、それはきっと明治以来の「非難されたら、いなす」という繰り返しが生み出した、古くて新しい日本の伝統芸能なのかもしれない。
モンゴルから最初にやってきた旭鷲山(ダヴァー・バトバヤル)が入幕した際、私は彼にインタビューしたことがある。彼は平成4年に初土俵、途中脱走事件を起こしたが、平成7年に十両に昇進し、その翌年には入幕を果たしていた。将来を嘱望されるモンゴル人力士として注目を浴びていたので、私は「横綱目指してがんばってください」と声をかけた。すると彼はニッコリ笑ってこう答えたのである。
「横綱はいいです」
──えっ、でも、強くなりたいでしょ?
「いや、あんまり強くなりたくないです」
──なぜですか?
「だって強くなると嫌われちゃうから」
その後、彼は引退するまでの10年間、一場所だけ小結に昇進したが、ずっと前頭十五枚目から前頭筆頭までを上下し続けた。外国人力士の中にも「まれびと」性を熟知している力士がいることも付け加えておきたい。
※ 力士の番付は取材時のものです。
次回更新予定日 12月13日
