誰も見ていない本場所
戦争末期の新聞は読むのも痛々しい。負けたといわずに「玉砕」という。死ぬといわずに「散る」という。爆弾を抱いたまま敵空母に突撃して自爆した神風特別攻撃隊は「身をもつて神風となり、皇国悠久の大義に生きる」(朝日新聞、昭和19年10月29日)と言い換える。さらには「皇軍の燦然たる伝統の流れを汲み、旅順閉塞隊あるひは今次聖戦劈頭における真珠湾特別攻撃隊に伝はる流れに出でてさらに崇高の極地に達したものである」(同前)などと日本の伝統文化として表現されると、勝ち負けを超えてひたすら続けるしかないような気がしてくるのである。
昭和19年以降、戦力において圧倒的に劣勢だと悟った日本軍は次々と捨て身の戦法を編み出した。フィリピンで出撃した神風特別攻撃隊をはじめ、人間魚雷「回天」、人間乗りロケット爆弾「桜花」、人間機雷(潜水服を着て海中から敵船底を機雷で突く)「伏龍」等々。いずれも「忠列万世に燦たり」などと形容されているのだが、戦場ではシンプルに「体当たり」と呼ばれていたらしい。
神風特別攻撃隊の編成を命じた第一航空艦隊司令長官大西瀧治郎中将は、その決定当日に「爆弾を抱かせて体当たりをやるほかに、確実な方法はないと思うが……どんなものだろう?」(防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 海軍捷号作戦2号』朝雲新聞社、昭和47年)と部下たちに諮ったようだし、豊田長官に対する伝令記録にも「現有兵力ヲ以テ体当特別攻撃隊ヲ編成」と記されている。攻撃を報じた新聞各紙も「敵艦隊を捕捉し必死必中の体当り」(朝日新聞、昭和19年10月29日)などと見出しを打ち、「大東亜戦開始以来、わが荒鷲の壮烈なる体当りは幾度か銃後に伝へられた。そしてその都度旺盛なる攻撃精神は敵の心胆を奪ひその尽忠の精神は一億国民の胸を打った」(毎日新聞、昭和19年11月12日)とその体当たりに対する国民の感動ぶりを報じていたのである。
当時の論調は、物事には体当たりで臨むべし。岩手県の大田村村長は「『当つて砕けろ』と遠慮会釈をしない」(新岩手日報、昭和19年11月11日)態度で食糧増産に励んでいると絶賛されているし、島根県三谷村の村長などは「紅顔の荒鷲が若き生命を捧げて米英撃滅の華と散る体当り精神は同氏の胸中にたぎる凛たる警察精神を呼び起さずにはをらなかつた」(島根新聞、昭和19年11月5日)と名誉職の村長を辞めて警察署の巡査に転身したりしていたのである。
一種の体当たりブームの様相だが、体当たりといえば相撲である。昭和19年の秋場所を前に朝日新聞は次のように報じた。
一切のものごとがこの戦局に合せてきびしく変つているとき国技の戦士達がまさに土俵上へもりあげようとするものもまた例外ではありえない。……神風特別攻撃隊の若桜に続くぞと青天井の下、晴天十日の土俵に起つ若い力士の相貌に炎と燃ゆるものを見逃してはならない。
(朝日新聞、昭和19年11月4日)
今こそ体当たりの見本である相撲を注視せよ、という勢いである。記者は若い力士に声をかけたようで、記事はこう続いていた。「若い力士たちは口を揃へていつている『現場の空気は相撲どころではないよ』かう叫ぶ青年たちが秋場所の土俵を踏むのである」。つまり工場動員などで疲れ果てていた力士たちは、相撲をしている場合ではありませんと否定しているのだが、否定しながらも土俵に上がる「必死必中の体当り的精神」(同前)を記者は褒めたたえようとしたのである。こうした期待に応えるように、大日本相撲協会も相撲を体当たりの元祖として再解釈した。
空中戦においてばかりでなく地上においても海上・海中いづれにおいても戦闘あるところかならず軆あたりがあることは申すまでもありませぬ。この軆あたり戦法が他に比類をみない皇軍獨得の精技であることは全世界の確認せずにはゐられないところでありまして敵方を震慄させてをることは尋常一様でないのであります。端的にいへばおたがい同胞のもつてほこりとする軆あたり戦法は皇軍獨得の精技であるばかりでなく邦族固有の神技なのであります。軆あたりといふことは剣技にもあり柔技にもありまた銃剣術にもあることは周知の事実でありまして、とくに国技相撲にいたつては軆あたりをもつて中心生命としてゐるのであります。『相撲略傳』に「両両あひあたり合して持し持して拠ぐ」とあり、『相撲傳書』に「たとひ廣原野合にても敵と組まざれば勝負の理なし」とあるとほり敵とあひ對した以上たがひにあたりあふべきことは絶對であり必至であるのでありまして……すなはち軆あたり戦法は肇国以来固有の神技でありましたものを父祖相傳し相承し研磨・錬養につとめつとめて強化し鋭化しつひに獨得の精技とすることができたのであります。
(大日本相撲協会理事長・藤島秀光『相撲』昭和20年1月号)
今や戦闘は体当たり。武器や技に頼る他の武道と違って相撲は体当たりそのもの。相撲の奥義書とされる『相撲略傳』を引用しながら、相撲は最初から体当たりの神技であり、体当たりの伝統を守ってきたから特攻も生まれた、と自負した。相撲は「体当たり」の世に高らかに国技であることも宣言できたのである。
とはいうものの、力士たちは次々と召集され、その人数はピーク時の約半数(450人)になっていた。残った力士たちも大半は栄養失調で体重が50キロ近く減っていたらしい。さらに「国技」の象徴でもある国技館は、昭和19年2月に陸軍兵器行政本部に接収されていた。当時極秘に進められていた「マルふ」作戦。すなわち風船爆弾の製造のためである。和紙で気球をつくり気流に乗せてアメリカ本土に爆弾を送り込み、言い知れぬ恐怖を与える心理戦。その製造には天井の高い建物が必要ということで、国技館が選ばれたのだった。結局、国技相撲は国技館を追い出される形となり、昭和19年の春・秋場所(5月、11月)は後楽園球場で開かれた。そして翌年、昭和20年3月10日米軍のB-29による東京大空襲。下町一帯は火の海(死者約10万人)と化し、国技館にも焼夷弾が落とされて館内は全焼したのであった。
それこそ「相撲どころではない」状況に思えるのだが、その後も場所は途切れることなく続けられたのである。藤島理事長はこう述懐している。
どんなことがあっても相撲がある以上は、本場所は続けなければいかんという覚悟でしたね。それとまあ、できないながらも、みんなの最低の生活を保障しなければいかんというので、みんなを集めて、そういうふうな話をし、みんなを散らさんようにしました。どこまでも相撲を守っていかなければいかんということで、一丸となってやりました。
(小島貞二編『はなしの土俵』ベースボール・マガジン社、1995年)
相撲がある以上、相撲を続けなければならなかったのである。同書によれば、自宅も焼失した藤島理事長は国技館内の焼け残った広間に一人移り住んだらしい。そして6月に国技館で「非公開」の本場所を開いたそうなのである。しかし誰も見ていないところで相撲を取っても仕方がないのではないだろうか。
相撲は人を喜ばせる「スポーツ」です
「軍部に頼まれたんです」
語るのは第二十八代木村庄之助の後藤悟さんである。昭和3年生まれの後藤さんは9歳で「松翁第二十代木村庄之助」の元に入門。「松翁」とは協会から与えられた称号で、立行事の中で最も優れているという意味だった。当時、後藤さんは国技館近くにあった松翁の自宅に住み込み、「松」の一字をとって「式守松男」という行司名で土俵に上っていた。
──軍部に何を頼まれたんですか?
「だから相撲をしてくれ、と」
──誰も見ていないのに、ですか?
「ラジオ放送用だったんです。中国や南方向けに“相撲をやっている”という放送をしたかったらしいんです」
相撲は見るだけでなく、聞くものでもあったのである。相撲の実況放送(NHK)は昭和3年に始まり、昭和18年には大東亜共栄圏向け(満州からジャワ島)放送がスタートしていた。中継方針は「土俵即戦場」。アナウンサーの和田信賢などは「私はマイクロホンを通じて云ふ。ルーズベルトよ、チャーチルよ、この聲をきけ! この歓聲をきけ! 戦ふ日本の強さはこゝにあるんだ」(『相撲』昭和18年3月15日号)という気合いで臨んでいたらしい。
「そんなことしても当時は誰も聞いていなかったんでしょうがね。でもあの状態で本当に相撲をやったんだから、大したもんですよ」
──そうですね。
私が感心すると、後藤さんがさらりと続けた。
「それで11月にも本場所を開いたんですから」
敗戦を伝える8月15日の玉音放送をまたぎ、11月には焼けた国技館で秋場所を開催。戦争に負けても相撲はいつものように続けられたのであった。
「東京が焼け野原になって僕は山形に疎開していたんです。そこへ“本場所をやるから”と連絡が入りまして。本当かなと思いつつ汽車で上京したら本当にやるんです。すごいもんですよ。国技館は天井に穴があいていたので、雨天順延ということで」
──お客さんは来たんですか?
「何しろ11月ですから、客席にはアメリカ兵がいっぱい来ていました」
GHQは日本占領とともに国家神道を禁止していた。そしてGHQの民間情報教育局は「軍国主義的および超国家主義的な団体や運動が宗教の覆いに隠れないよう絶えず警戒する」(ウィリアム・P・ウッダード著、阿部美哉訳『天皇と神道』サイマル出版会、1972年)方針を決めていた。神道に基づいて軍国主義を昂揚した大日本相撲協会は明らかに警戒の対象だったのだろう。
──土俵で緊張されたんじゃないですか?
私がたずねると、後藤さんは微笑んだ。
「しません」
──でも監視されていたわけですよね。
「そんな感じじゃないですよ。占領軍はお客さんとして来ていたわけですから。別にイバッていたわけでもないし。僕なんか“一緒に写真撮ってくれ”と言われて、装束を着たまま記念写真撮られていましたからね」
アメリカ兵たちは「進駐席」で賭けもしていたらしい。片言の日本語で四股名を叫び、記念写真を撮りまくる。『相撲』(昭和21年1月号)によれば、「可憐愛嬌のある」後藤さんが「人気を独占」していたらしい。
「ちっちゃかったからね僕は。今もちっちゃいけど」
──でもアメリカは敵だったわけですよね。
「そうです」
──協会側には悔しいという思いはなかったんですか?
「そんなもんありませんよ」
きっぱり答える後藤さん。
──なぜ、ですか?
「だって負けたんですから。敗戦ですから。向こうは戦勝国で、相撲を見に来てくれているんです。見に来てくれる、という点では日本人もアメリカ人も同じです。みんなお客さんなんです」
大日本相撲協会は敗戦直後に相撲をこう再々解釈していた。
そもそも相撲本来の面目とはいかなるものであるかと申しますと、『相撲略傳』に「ことまことに争ふに似たり、争へばすなわち非なり。傷ふに似たり、傷へばすなわち非なり。ひとへにその筋力と技能を逞うしてやむのみ。ゆゑに匹グウ(耒偏に禺)みな意に介まずして、一場の喜氣もつて慶祥を招くとしかいふ」とあります、この「喜氣もつて慶祥を招く」ところに相撲本来の面目があり獨自の使命があるのであり、かやうな相撲であつてこそはじめて天下泰平、国土安穏、五穀豊穣、萬民偕楽を祈りかつ祝ふことができるのでありまして、「■(手偏に角)力」は殺手であるがゆゑに不可であり、これを止揚してただ對手を倒すことのみを手段とする「相撲」になつた千二百餘年前から、相撲はすでに立派なスポーツであり、完全な競技であつたことは一點あらそふ餘地がありません。
(大日本相撲協会理事長・藤島秀光『相撲』昭和21年1月)
今度は一転して相撲は「本来」争ったり、傷つけ合うことではなく、最初から人を喜ばせるための「スポーツ」だったという。相撲が争いでないことは争う余地もないということで、戦中に前撃精神を訴え続けた同誌編集の彦山光三も、相撲とは本来「きはめて平和的なめでたく楽しい行事」(『相撲』昭和21年2・3月合併号)だったとまったく逆の故実を発表したのであった。
その場しのぎの言い訳なのだろうか。しかしどちらも同じ相撲の奥義書『相撲略傳』に基づいているので私は原典を読んでみることにした。
『相撲略傳』は文治2年(1186年)に初めて天皇から相撲司として任命された吉田家初代、豊後守家次が書き残したとされる文書である。復刻本(池田良吉編、私家版、昭和7年)の本文はわずか9ページ。要約すると、相撲は体当たりをして相手を投げつける、しかし「勝負を以て分れ而して勝者負者の手を取りて立ち一グウ(耒偏に禺)相揖(お互いに礼)して退く法也」。勝負をした後にお互いに礼をさせる「法」が大切だと説いている。法があれば、相撲は争いに似て争いではなく、その場を盛り上げることで慶祥(めでたいしるし)を招くことになるというのである。そしてこれには続きがある。「是を以て諸を廟庭に奉むれば即ち神明説豫し。諸を朝廷に閲すれば即ち衆庶氣を倍す」。つまり、そのように皇室に申し上げれば神もよろこび、庶民も元気になる。そういう理屈にしておけば、みんな丸くおさまるという処世術なのだった。
次回更新予定日 8月9日
