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おすもうさん 高橋秀実
第18回 大東亜で退屈しのぎ
他にやることがない

 「今日未曾有の事變にのぞみまして、東亜新秩序の建設にむかつて國をあげて邁進いたしまするにあたり、あくまで押しの強さを要することは申すまでもありませぬ。同胞ことごとくが、協心戮力いたしまして、謂ゆる長期建設の覚悟を一層かたくし、忠君愛国の實を擧げまするためには、相撲道による心身の鍛練を最も緊要とするのであります」(『相撲』昭和14年6月号)
 昭和14年に大日本相撲協会会長に就任した竹下勇海軍大将は就任式でそう宣言していた。相撲道で「東亜新秩序」(すなわち後の大東亜共栄圏)を建設すべし。「肉弾と肉弾がぶつかり合ひ、土俵の外へ、踵が一厘、爪先が半毛出たゞけでも敗となるやうな、厳酷・苛辣な競技は、相撲をのぞいて、世界中どこを尋ねてもない」(『相撲』昭和13年5月号)。日本独自の相撲でこそ大東亜の盟主となれるというわけなのだった。
 実際、陸海軍ともに軍隊内では相撲が奨励されていたらしい。名付けて「陣中相撲」。戦陣の中で相撲を取るのである。昭和14年当時、中国に駐留していた陸軍主計中尉、佐藤觀次郎が次のように報告している。

僕達が行つた無昌ぶしょう漢口かんこう黄陂こうは京山けいざん應城おうじょうその他到る所に、ちよつと駐留になると、何處の部隊でも必ず相撲が行はれます。俵に土を入れて、砂が十分ありませんから、土を掘り返して、すぐそのまゝ土俵にしてしまふのですが、兵隊達は感心に、土俵に必要な装飾は、誰が持つてくるのか知らないが、實に立派に出来上るのです。僕はその點、こんな前線で、どうしてこんなに早く造るのか、そして、内地でやる草相撲場よりも立派なのが、こんなに造作なくできるものか、とつくづく感心します。
(『相撲』昭和14年11月号)

 こんな前線でなぜこんな土俵をこんなに早く造るのか、と彼は驚嘆している。何やら相撲を取るために進軍しているかのようである。彼によると、駐留が長くなればなるほど相撲は「徹底的」に行われたらしい。水と清めの塩の確保に難儀しつつも、兵士たちは土俵のまわりに見物席までつくる気合いの入れよう。連日部隊内での大会形式で、時には他の部隊からの飛び入り参加もあり、「大きな景品をとられて、主催者も目をパチクリしてゐるやうな」(同前)こともあったそうである。その姿に佐藤中尉は「(兵隊たちは)相撲をやれば積極的になり、競技中は殆ど休む暇もなく取り続けましたが、實に愉快な感じで、みんな和気藹々わきあいあいたるものがあり、さすが日本の國技だけあると感じました」(同前)と感動していた。海軍大将のいう「心身の鍛練」というより、みんなで愉快に盛り上がるから「國技」というわけなのである。
 当時、修水戦線の毛狗熊もうくゆう集落に駐留していた東京朝日新聞の河合政記者も「相撲そのものはまるで前線勇士らの生活の一部の様になつてゐるために、何處へ行つても暇ある毎に相撲が行はれた」(同前)と報告している。戦地はまるで相撲場所という様相で、彼などは両国での本場所が始まると、本社から無電で取り組みの結果を入手し、毎晩11時に宿舎の前に貼り出していたという。それを見るためにわざわざ前線から馬やトラックで駆けつける兵士もおり、彼は星取り表づくりや勝負の予想までしなければならなくなったらしい。こうして場所中のような毎日を送るうち彼は次第に「野球とか、陸上競技の様なものが、何となくバタ臭く感じられる」(同前)ようになったそうである。
 兵士たちは相撲を通じて「日本魂」を確認していたのだろうか。これが戦地における「国威発揚」なのだろうか。前述の佐藤がこう続けていた。

陣中では、戦争が終ると、少しの退屈しのぎに困るのです。気分の転換に、兵隊に異なつた気持をもたせて、しかも、今迄の張切つた心持を維持させるのは、矢張り相撲が一番良いやうです。土俵さへあれば、すぐ取れるのですから、大変楽なものです。従つて、何處へ行つても、何かやるとなると、すぐ相撲をといふことになるのです。
(同前)

 相撲は退屈しのぎ。他にやることがないから相撲を取っていたらしい。

戦地は、内地の方々が想像され、今まで自分達自身も想像してゐたやうに、さう毎日塹壕や山上の警備にのみ終始してゐるのではありません。其處には又、想像し難い苦痛と、一面また、戦場心理といふ、明るく且つ呑気な反面もあります。さうした一面を助けるものとして、相撲や野球などは、なんと云つても皆が喜ぶ競技でせう。自分のすべてを忘れる境地に入れるものとして尊ぶべきでせう。
(同前)

 明るく呑気な「戦場心理」を相撲は助長したのである。「心身の鍛練」ならぬ呑気の享受。なんでも相撲を取ると愉快な気分になり、「全く異境の地にあつて、戦争に来てゐることさへ忘れるやうな感じがします」(同前)という具合なのであった。
 そして戦地を盛り上げたのは国技館の力士の登場だった。例えば、九州山(大坪二等兵)が中国九江の橋本部隊に赴任すると決まると、部隊長の橋本大佐までが浮き足立ったらしい。
 「部隊で相撲をやるのは大賛成だが、平生の事も考へなけりやならん」(同前)と橋本大佐は、とりあえず彼を本部付きとして馬の手入れなどの雑務につかせた。そして黙々と働くその姿に感動し、こう言ったという。
 「よくやつとる。近いうちにデカイ奴を一發射たしてやるぞ」(同前)
 デカイ奴とは砲弾のことで、間もなく九州山は砲手として敵陣に向けて砲弾を撃ち込んだのであった。これを櫓太鼓のように、彼は近隣の部隊を巡って相撲を取った。さながら巡業のようなもので、どの部隊でも熱烈に歓迎されたらしい。そして勧進元である橋本大佐は部隊でこう訓辞したそうである。

これは力士としての精神訓練だ。よしんば二三場所休んだことが彼の肉體を昔日のもので無くしてしまつても、彼の精神は鍛へられる。これこそ大日本相撲協会、或いは全力士にとつての試金石だ。肉體の衰退の如きは物の数でない。彼は恐く三四場所欠場の稽古不足如きはすぐに取り戻すだらう。
(同前)

 強さの象徴であるはずの力士がなぜか「肉体の衰退」の象徴として利用されている。精神を強調するには、衰えやすい力士の姿が好都合だった。国内でさかんに宣伝された「前撃精神」はかくして興行化したのである。

相撲よりも鋭烈な闘志

 竹下海軍大将のいう「押しの強さ」は一体どこにいったのだろうか?
 当時の記録を読んでいくと、ひとつだけ闘志にあふれるものがあった。昭和16年に台湾で開催された第1回相撲大会である。台湾は日本の植民地統治の端緒。日清戦争(明治27〜28年)で日本の支配下に入り、以後総督府が直接統治にあたっていた。台湾には中国から移民した「本島人」以外に言語や習慣の異なる様々な原住民たちがおり、彼らが対立していたために反日運動が起こりにくく、おかげで統治が容易だったといわれている。
 相撲大会は部族(当時は「蕃社」と呼ばれていた)の対抗戦だった。参加を希望する蕃社が殺到したが、開催地である花蓮港廰理蕃当局が12蕃社に限定したらしい。何しろ「異種民族のかきの厳重さは想像以上で、それがために對抗たいこうとなるとまかりまちがへば、血を流さぬとも限らぬ、恐るべき闘争意識」(『相撲』昭和16年12月号)だったからである。開催地のエカドサン蕃社は蕃社の老若男女全員が応援にかけつけたらしい。ブスリン蕃社は日の丸を振って応援、カウワン蕃社に至ってはこの日のために音楽隊まで繰り出したそうである。
 大会が始まると、部族代表の選手たちは日本人に習った通りに恭しく敬礼し、四股を踏み、力水を受けて塩をまいた。そして立ち合い──。

行司を中心に先ず睨み合ふのだがこの睨み合の双方の眼光の鋭さは凄いばかり。かけ引きも作戦もあらばこそ、土俵に上がるや否や今にも飛びかゝらんとする気構へなのだ。待つたなしの仕切だから、双方共手を下すももどかしいらしく、行司に叱られても叱られても立たうとする。
(同前)

 彼らの取り組みは、日本と違って「待ったなし」だった。「何でもかんでも投げようとする。組まうとする。まわしを引かうとする、褌を引いたが最後金輪際放さばこそだ」(同前)という勢いだったらしい。考えてみれば、これこそ「前撃精神」に思えるのだが、この報告を記した河合政は彼らの相撲をこう評していた。
 「相撲よりも鋭烈な闘志」(同前)
 やはり相撲には呑気さが不可欠ということ。いずれにしても日本は台湾に相撲を広めることで、逆に本物の前撃精神を見せつけられてしまったのである。

嘘のような光景

 日本軍の南方攻略は史上空前の大規模作戦だった。昭和16年12月にハワイ真珠湾を攻撃。続いて香港、マニラ、シンガポールを陥落し、さらにはオランダ領東インド(現インドネシア)、ビルマ(現ミャンマー)を占領。わずか3か月で南太平洋の広大な地域を手中におさめたのである。そこで日本軍は占領地の民心獲得をめざす文化作戦部隊、名付けて「宣伝班」を編成した。これはナチス・ドイツのゲッペルス宣伝相の考案した宣伝中隊(P・K)を真似たもので、主な任務は占領地住民に対する宣伝活動である。ところが編成準備の段階で、参謀本部において「余計なことだ」「予算がない」などという強硬な反対意見が出されたらしく、人的経済的にかなり貧弱な構成になったらしい。陸軍の宣伝班長に任命された町田敬二がこう述懐している。

アジアの東南一帯に分布している国々は、途方もなく広大な地域に、民俗は複雑に絡み合っており、その風俗習慣、信仰、歴史などに関して、日本人は従来、余りにも無知だった。そこで(参謀本部の)第八課の努力にもかかわらず、それはもう宣伝材料が少ないなどというものではなく、まるっきりないのと同じだった。特にマレーとジャワと来ては、作戦軍そのものからして、正確な地図一枚すらない、というヒドさだった。
(『戦う文化部隊』町田敬二著、原書房、昭和42年)

 誰に何を「宣伝」するのかわからなかったのである。さらに町田班長を困惑させたのは「軍上層部からは、行き当たりばったりの『要領』だの『基本方針』だのが、やたら布達された」(同前)ことだった。そして布達がころころ変わるだけではなく、そもそも占領政策の根幹である「南方占領地行政実施要領」(大本営政府連絡会議決定)自体も実にわかりにくかったのである。例えば、その第八項にこうある。

原住土民ニ対シテハ皇軍ニ対スル信倚観念ヲ助長セシムル如ク指導シ其ノ独立運動ハ過早ニ誘発セシムルコトヲ避クルモノトス

 大東亜共栄圏建設には、欧米各国の支配からアジアを解放するという大義名分がある。それゆえこの実施要領はそれぞれの独立運動に協力する形を取るべきだと謳っているのだが、それは「過早に誘発」してはならないとも言っている。作戦を実行する町田班長からすれば「『ボツボツやれ』と言うのか『なるべくやるな』と言うのか、まるで掴みどころがなかった」(同前)らしく、たちまち「五里霧中」(同前)に陥ってしまったのだ。
 ならば相撲を取ればよい。
 そう主張したのがビルマに派遣された宣伝班の倉島竹二郎だった。「宣傳宣撫といつても何も傅單(ビラ)をばらまいたり、演説をしたりすることだけではない。出来れば極く自然に住民に接し彼等と喜びや楽しみをともにすることがなによりで、その方が千の傅單をまき百の演説をやるより効果的」(『サンデー毎日』昭和17年3月29日号)と考えた彼は、当初、子供や大人を集めてマッチ棒2本を使った簡単な手品を披露した。「オウ、ジャパニーズマジック、ベリーウオンダフル」などと感心されたらしい。その時「ふとしたキッカケ」で上官の西良隊長に「相撲を取らないか」とすすめられ、その場で相撲を取ってみせたのである。すると、

意外にも彼等は欣然として相撲を取り始めたのである。子供も取つた、青年も取つた、そして周囲には附近の老若男女が七、八十名も集まつてキヤツキヤツと打興じた。全く思ひまうけぬ楽しい朗らかな光景だった。……ビルマ人の相撲の取りやうは日本と殆ど變りがなかつた。ただ日本で四股を踏むところを、ビルマでは左腕を右の掌でポンポンと二度叩くので、日本なら「この腕前を見よ」といふところであらうか。
(同前)

 ビルマでは3歳の子供も相撲を取る。男たちはターバンを巻いているが、取り組みに熱中するとそれがほどけて髪がはらりと下がる。その様もまた「日本相撲の乱れ髪と少しも違はない」(同前)ように見えたらしい。やがて西良隊長がビルマ人と相撲を取りはじめると「皆はヤンヤの拍手喝采」。その光景は「まるで嘘のやうな気がした」らしい。相撲を取れば現地人と自然に接することができる。そして取り組みを繰り返すうちに彼はこう思った。「これが戦地とはどうしても思へなかつた」(同前)

大東亜相撲圏

 日本人が相撲を取るとビルマ人も相撲を取る。倉島竹二郎の現地報告を受けて、大日本相撲協会はこう宣言した。
 「南方いたるところに知縁あり」(『相撲』昭和17年4月号)
 南方はどこでも相撲を取っている。南方とは、実は相撲の世界だったのだと。

おもひまするに、南方は、大たい裸の世界であります。裸の世界に、原始的な體技としての相撲があるのは当然でありまして、ないのが、むしろ、不思議でありませう。つまり、彼等の世界にありましては、相撲が、その生活のなかに喰入つてゐるに相違ないのであります。……われわれは、今後機会を得まして、日本の國技相撲をひつさげて、単刀直入的に、しかも、大らかな気分をもつて、彼等に近接し、彼等と語りあふことができると信じて疑はないものであります。
(大日本相撲協会取締 藤島秀光 同前)

 大東亜共栄圏は大東亜相撲圏だった。日本の相撲は「國技」として礼儀などが洗練されているので、彼等に対して自ずと指導的立場になれる。さらに相撲は人を呑気にさせるので、独立運動を「過早に誘発」する危険もない。つまり相撲こそが南方占領地行政実施要領実現の最善手だったのである。
 その勢いでオランダ領東インド(現インドネシア)に乗り込んだのが、海軍宣伝班だった。『相撲と野球』(昭和18年4月1日号、博文館)に寄せられた斎籐良輔の報告によると、海軍では上陸に備え、軍艦上でさかんに相撲を取っていたらしい。斎籐曰く「本場所大相撲の熱闘とはまた異なつた逞しい“海軍相撲”の進軍」(同前)だ。それは土俵上の勝敗にとらわれず、「無敵帝国海軍の名にふさわしい堂々たる体躯、“撃ちて止まむ”精悍な前撃の気魄の全き養成に黙々精進する海軍さん独特の錬成運動」(同前)。彼らは「我々の相撲に千秋楽はない」などと言いながら、船上で「伝統の負けじ魂を発揮」していたそうなのである。
 モルッカ群島のアンボンでは早速、オランダ軍将校集会所を接収して土俵を築き「相撲道場」に改築した。そして毎日そこで相撲を取ったらしいのである。斎籐によると「毎日烈しい相撲の肉弾戦が展開された。すると、いつか表通りに面した垣根は見物のアンボン人たちで押すな押すなの騒ぎ」(同前)になったという。帝国海軍の気魄にアンボンの人々は魅了されたらしく、兵士が投げを打つ度に「ワアツ、ワアツ」と歓声をあげたり、決まり手の身振りを真似したり、勝敗の予想などを始めたらしい。

巌も砕けよと突撃する果敢な肉體と気魄、そして倭軆よく巨體をも堂々投げ打つ技の威力、しかも日本の海軍さんなら誰でもその五體に秘めた恐るべき相撲──これこそ彼らアンボン人を驚嘆させるに十分な現實であつた。
(同前)

 アンボン人は相撲を通じて、日本人の「凄まじい闘志」を知り、「驚愕と感動」を覚えたのだと斎籐は報告している。「現地人の欧米支配からの解放」という大東亜共栄圏の大義も次のように実現したそうだ。

相撲道場の集会場前を捕虜の濠州兵(オーストラリア兵)たちがトラックに揺られて通り過ぎた。此前はこの捕虜たちに對して、大きな図体への畏敬じみた視線を依然送つていたやうなアンボン人もあつたやうだつたが、この相撲見物が楽しい日課となつてきた彼らの胸の中には、今こそ『日本軍は濠州兵より何故強いか』といふ漠然ながらも一つの例證が浮かんできたに相違ない。戦前蘭印軍の援兵として、アンボンに繰出してくるや『日本など何黄色い猿同然さ』と豪語して、巨大で毛むくじやらなだけを頼みに、凡そ真摯な錬成ぶりを示したこともなかつた濠州兵の捕虜たちが、この海軍相撲の猛稽古をトラックの上から見て、まるで自分の體に双筈でとび込まれたやうに愕然、髭むしやの顔を蒼白にしながら通りすぎる。しかし今はアンボン人たちはひとりとして垣根からふり返つて、トラックを見上げる者はない。彼らの瞳には凄まじいばかりの闘志を盛る日本の相撲のみが、偉大な映像として焼きついてゐるのだつた。
(同前)

 相撲見物に熱中したアンボン人が、通り過ぎるオーストラリア兵捕虜を見なかっただけのことだが、斎籐はこの光景を、相撲で「濠州兵を寄り切った」(同前)と記していた。つまり精神的に彼らを連合国支配から解放したように思えたのだろう。見世物としての相撲は、現地人のみならず見せる側の日本軍をも魅了したのである。
 相撲こそ日本魂。以後、海軍宣伝班は南方各地で相撲興行を展開していった。ニューギニアでは、パプア族に「毒槍も持たず、しかも素手で、我々と同じく裸になつても日本人はまだ恐ろしい相撲まで持つてゐるのでは、首狩りパプア人だつてかなわない」(同前)などと絶賛されたり、セレベス島では相撲の儀礼について驚嘆され、「敬虔な気持ち──日本軍隊ではこれをチウギと云ふのですね。──があつてこそ本當の強さです。相撲はただの競技ではないのですね。立派です」(同前)と小学校校長に感動されたという。そしてセレベス島の要港、マカッサルでは現地人たちの「尊敬と心服」を浴び、「スモー、バグス(素晴らしい)」などと感激され、さらにこう言われたという。

相撲はこつちが跳びかゝるのを、相手が前から承知してゐるのに、それを知りながら、顔の前の方から飛びかゝつてゆくところが素晴らしいです。我々の仲間は、相手が何も気付かない隙を狙つて背後か、横から一仕事やつたもんですが、さすがに日本の兵隊さんは、日本の相撲は立派だ。そんな恥づかしいことは少しもしないですね。
(同前)

 実際に現地人が現地語でどう言ったのかは知る由もない。しかし過剰な賛美を除いて冷静に読むと、彼らは日本軍の戦略のなさ、あるいは呑気さを指摘しているともいえるのであった。

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