Web草思
おすもうさん 高橋秀実
第16回 目的を忘れちまひました
 力士の最高位は横綱、そして大関である。昭和10年代、土俵魂が大和魂、相撲精神は日本精神となれば、彼らは自ずと日本人の鑑ということになる。言わば見習うべき「前撃精神」を体現した存在というわけである。
 昭和12年11月、国技館内にある大日本相撲協会取締室に当時の横綱、大関が招集され座談会が催された。最高位を極めた力士たちは、いかにしてその道を切り開いたのか。彼らの話を通じて気魄あふれる相撲道をPRしようという企画なのであった。出席した力士は以下の通り。
 横綱 玉錦三右衛門
 横綱 男女ノ川みなのがわ登三
 横綱 武蔵山武
 横綱 双葉山定次
 大関 清水川元吉
 大関 鏡岩善四郎
 司会役を務める『相撲』(大日本相撲協会発行)編修人、彦山光三がまず挨拶。そしてそれぞれの力士に、この道に入った動機についてたずねた。「斯道発展のため……今のうち、はつきりしたことを発表しておくべきだと存じます」(『相撲』昭和13年1月号)と一言添えて。「運命が、そのときひらけた」のだからと。
 横綱玉錦は15歳で相撲部屋に入門していた。「その頃から、(相撲が)お好きだったのですか?」と彦山がたずねると彼はこう答えた。

 私が入つたときは、何分、小さかつたので、さあ好きだと云へば好きだつたし、嫌ひだと云へば、嫌ひだつたし、何と云つても、子供のことだからなあ、はつきりした気もちはありませんでした。
(同前『相撲』)

 いきなり、はっきりしない回答。同様に双葉山にたずねても、「たゞ周囲から、勧められるまゝになつた」だけだと言うし、武蔵山も「しまひにはおふくろがその気になりましてね」と本人の意志でないことを強調したりする。そして男女ノ川は、家の近所に力士一行が保養に来ており、行ってみたらビールをご馳走になり、「相撲取といふものは、何といふ気分の好い」ものかと思ったことが入門の動機だと、相撲よりビールに惹かれたかのように語り始めた。鏡岩に至っては「私は(相撲が)嫌ひでしたが、何でも行け行け(笑聲)と云ふやうなことになつた」とやむを得ず力士になったと笑う始末。かろうじて清水川だけが、彦山に「好きでもつて、進んでおなりになつたわけですな」と事前に念を押され、やっと「まアさうですね」と同意したのであった。
 いずれも気の抜けた動機だが、入門すれば厳しい修行の日々のはずである。そこで彦山が質問を変え、彼らに修行中の「まざまざ思ひ出すことができるやうなこと」をたずねると、再び玉錦が腰を折った。

 私は入門してすぐには稽古しませんで、休んでゐました。それはあまり、稽古したりすると肥らないと云はれますので……。
(同前『相撲』)

 相撲は休んで太ることが大切。怠けることと何ら変わりがないのである。「辛いことばかり、多くてね」と答えた男女ノ川も、何が辛いのかというと「とくべつ苦しいと云ふことは忘れちまひました」と肝心なことを忘却していた。そして思い出されることとして、小遣いが少なかった、人力車に乗れなかった、部屋での晩酌が毎晩深夜まで続き付き合いが大変だった、という具合に彼らの話は次第に道楽者の愚痴のようになってしまい、彦山が「稽古は如何です?」と軌道修正しようとすると、再び玉錦が一言。

 今は楽だよ……ほんとに、今は楽だ。
(同前『相撲』)

 相撲道は楽な道だと明言していたのである。座談会はやがて彼らの趣味である浪花節、活動映画、鉄砲打ち、そして「好きな食べ物」談義に展開し、最後は玉錦と鏡岩の次の会話で締め括られたのであった。

 玉錦 私は、何が好きと言って、ふぐが一番好きだ。
 鏡岩 私は、油の少ないものが好いね。
(同前『相撲』)

 相撲ではなく鰒が好き。一体何のための座談会だったのだろうか。横綱男女ノ川の言葉を借りれば、その目的も「忘れちまひました」ようなのであった。

国家総動員時代の力士

 昭和12年8月に政府が国民精神総動員計画実施要綱を発表すると、力士たちは様々な奉仕活動に駆り出されることになった。協会のいう「正心誠意のほとばしり」、「はだかをもつてする御報効ごほうこう」である。
 軍や工場などの慰問、「出動将兵遺家族慰安大相撲」の開催、そして戦闘機「相撲号」を献納し、力士たちは毎場所勝ち星ごとに与えられる特別賞与を陸軍省に出向いて献金することになった。力士たちは国民の先頭に立って「尽忠報国」したというわけなのだが、当時の記録を読むとやはり少し印象が違うのである。
 例えば、昭和13年8月の4日間、力士43名が帝都青年勤労奉仕団の一部隊として東京・戸越公園での地ならし作業に参加している。相撲部隊の団長は佐渡ケ獄親方。午前5時半に協会に集合し、現地で学生義勇軍と合流する。そして丁髷に廻し姿で整列して国旗掲揚、国歌斉唱、宮城遙拝の後、午前8時から公園の築山つきやまを崩して、窪地を埋める作業だった。
 力士たちにとって力仕事は得意なはずなのだが、指導係の根岸親方がこう不安を述べている。

 この度の勤労奉仕で自分の一番心配したことは、第一に団体訓練と言ふことに縁の遠い力士等が、小隊長やら、分隊長の指揮でやつて行けるかどうかと言ふことであつた。……第二の心配は無言でコツコツ仕事をやることであつた。常に稽古場や巡業先で、ざわざわさはぎながら仕事をしてゐた連中が黙々と一つの仕事をすることのむづかしさが懸念された。
(『相撲』昭和13年9月号)

 普段怠けているのに大丈夫かと心配したのだった。しかし同誌に掲載された写真を見ると、天秤棒を担ぐ力士たちは何やら楽しげ。根岸親方によれば、彼らは「労働の尊さをつくづくと感じ得た」らしいのである。そして感じ得るあまり、彼らは公園の外の見物人たちを指さして、「見物ばかりしてゐずに、自分等と一緒に働いて見たら良からう」「働いた後のうれしさは何とも言へぬ喜び」などと口走ったそうだ。察するに、彼らはお調子者。根岸親方も安心のあまり、公園の一角に土俵場を築いて任務遂行を「永遠に記念したい」と提案したくらいなのである。そして工場へ出かけると彼らは疲労困憊した。信州の工場で、鉄材をトラックに積み込む作業に「増産勤労挺身」した際は、すっかり「へとへとになり」(『相撲』昭和19年11月号)、この時初めて「力がはいりきつたといふのはこんなことでありませう」(羽黒山)と感心したりするのであった。工場では労働の後に皆の前で慰問相撲を取るのだが、その際の彼らの困惑ぶりについて照国(当時、大関)がこう告白している。

 何しろうちの親方(伊勢ケ濱)は挨拶のときにはどのやうな場合にもかならず、相撲は真剣一途に有りつたけの力を出し切つて取ることが神さまに對する道であります……どうか皆さん有りつたけの力を出してしごとに励んで下さい、私たちも有りつたけの力を出して土俵場をお勤めいたしますから──といふ風に申述べるものでありますから、私たち力士も好い加減の相撲を取るなどといふことはおもひもよらないのです。
(同前)

 親方が「有りつたけの力」と執拗に言うので、手が抜けなくなってしまったと嘆くのである。
 相撲ではなく労働を通じて、全力を出すことを知った力士たち。だらしない、情けないという印象もあるのだが、その一方で、これまでの興行的な相撲を反省し、「決戦相撲體勢」などと声高に訴える力士もあらわれた。笠置山(前頭)がその典型で、彼は「過去の自ら喰はんが為めの相撲興行から相撲を通じて御奉公せんとする相撲報国に轉じた」(同前)と決意を大仰に語ったのである。しかし「相撲報国」とは何かというと、本人曰く、

 それは喰はんが為めの相撲ではなく、相撲に依つて国家から食べさせて頂くことである。国民として為すべきことを為して生活の保証を與へられるのである。
(同前)

 観客やタニマチではなく、国家から「食べさせて頂く」相撲道。依存先が変わっただけで、食べるためであることに変わりはないような気がするが、相手が国家である以上「決戦體勢」でなければならぬ、というのである。ちなみに昭和13年に力士代表として應招され、親方から「御国の花と散れ」と激励を受けて「相撲道の精神を精神として御奉公しなければならぬ」と戦地に赴いた九州山(前頭)も、まず「入隊したとき困つたのは、ご飯の問題」(『相撲』昭和15年10月号)だと訴えていた。彼はアルミニュウムの器に盛られた粗末な食事が喉を通らなかったらしい。いずれにせよ、力士たちの精神は食べることが基本なのであった。

「なっちゃった」もの

 満州、中国、そして南方へ。大東亜共栄圏を建設すべく日本が占領地域を拡大するのに伴って、相撲もアジア各地に広められていった。言うなれば大東亜相撲圏。占領の印というわけで各地に土俵が築かれ、相撲が取られるようになったのである。
 満州国では昭和14年から満州場所が開かれた。力士たちは国技館での夏場所を終えると、大阪に移動して関西甲子園特設相撲場での巡業、その最終日の翌日に神戸港を出航して満州に渡り、鞍山、撫順、奉天、ハルビンと移動し、最後に首都の新京で相撲を取る。日程を合計すると15日間になるので、これを総称して「満州場所」と呼んだのだった。
 大日本相撲協会は開催にあたって「相撲における精神方面を重視」することを決定し、観客に次のように記されたパンフレットを配ったらしい。

 大相撲を御覧になる際には、単に相撲の技を御鑑賞下さいますのみではなく、同時に相撲の精神方面をも、十二分に御吟味願ひたいのであります。
 相撲精神は、つまり、日本精神が、相撲のうへにあらはれたものでありまして、その根本におきましては、何等変わるところはありませぬ。日本精神は、御承知のとほり、清く、あかく、正しく、直く、強い心情をもつて、一旦緩急の大事にのぞみましたならば、天皇陛下の御ため、御国のため、潔く、敢然死に就くことを基幹としてゐるのでございます。
 ……(以下、相撲が神代から日本の「国技」であったという記述が続く)……
 つまり、土俵場の創設以来、土俵場外を奈落ならくとし、土俵場外に出されることは敗であることは勿論、その敗は、死にあたる。勝利ををさめ、生を全うするためには、相手を倒すか、奈落である土俵外に出さなければなりませぬ。前撃・突進して、相手をできるだけ、速かに、土俵外に出す技法が工夫され、発達いたしました。前撃・突進することは、そのままゝ皇軍の戦闘精神でありまして、一たび、戦場に立つたならば、断じてあとへは退かぬ、たとえ退く場合があつても、退くとは申しませぬ。背進と称しまするのも、この精神を尊重するからでございます。
(『相撲』昭和14年7月号より抜粋)

 ひたすら前に出ること。たとえ後ろに下がっても「背進」、つまり背面方向に前進すると言い換えることが、すなわち相撲精神なのである。ちなみに相撲用語で「押す」は「忍す」に通じるとされている。つまり前へ出ずにじっとしていても「おしている」と言える。精神とはあくまで解釈なのである。
 では、相撲を見物した満州の観客たちはどう反応したのだろうか。
 時代背景から察するに、活字に残された記録には「盛況だった」と記してあるに違いないと私は考えたのだが、さにあらず。場所に参加した力士、笠置山が次のように報告していた。

 第一に感じた事は観客が、まだ相撲を知らないと云ふことであつた。昔の草相撲か、花相撲と称されてゐる類の相撲程度しか知らないと云ふことであつた。力士が土俵に上がる前には拍手もし、聲援もしてゐるが、勝負が終ると、拍手も聲援もない。余りにあつけない勝負であつたからである。現に自分の泊まつてゐた家の主人も云つてゐた。皆あつけない勝負ばかりで、飛付もなければ初切しょっきりもないと云つていた。
(前出『相撲』昭和15年10月号)

 仕切りが長い割に勝負があっという間で、観客は退屈してしまったのである。
 実は協会内でも、この仕切りの長さについての議論が重ねられていた。これを外国人にわからせるためにはどうすればよいのかと。かつて仕切りを英語で「エントランス・セレモニー」と訳したこともあったらしいが、こうすると入場式の意になってしまい、取り組みの度にそれぞれの力士が入場式をするのはおかしいことになる。そこで協会は新聞記者を集めてアドバイスを求めた。すると「見せるよりわからせるやうにしなければいかん」(報知新聞、加藤進)という教育的側面を重視した意見が出され、ではどうすればわからせるようにできるかと議論するうち、「とにかく、世界中で競技者同志の気の合つた時立つと云ふやうな勝負はどこを探したつてありやしない。かう云ふことはわかりにくいと思ふ。それから行司が審判官であるのか、検査役が審判官であるのかわからん」(朝日新聞、植村陸郎)などと、外国人に教える前に自分たちもよくわかっていないことを確認してしまい、終いにはそもそも行司に構わず力士が立つのは順番が逆ではないかという疑問まで出され、協会を代表して司会役の彦山光三がこう答えていた。

 はじめはさうぢやなかつたんだがね。だんだんあゝなつちやつたんだね。
(『相撲』昭和13年2月号)

 相撲は教義に基づくものではなく「なっちゃった」もの。その精神を説明しようと突き詰めると「なっちゃったものは仕方がない」ということになってしまうのであった。
 ともあれ、笠置山は満州場所を憂いていた。「各地を合して十五日間とすることが、畸形的」(『相撲』昭和15年10月号)だと批判している。つまり、協会も観客も「相撲精神」がわかっていないと主張しているのだが、笠置山本人はこの夏場所の1か月前に腰を痛めていた。そして番付発表の前日に右人差し指の第二関節を脱臼。そのせいで稽古もできず、「土俵に上がると、気ばかり焦つて身體が少しも動かないのに驚いた」(『相撲』昭和15年6月号)りしたまま千秋楽を迎えていた。口調だけは勇ましいが、彼は記録をさかのぼるとずっと体調が悪いのである。果たして、彼にとって相撲精神とは一体何なのだろうか。

 今の私には、無理も、強引も出来ない。またさうした相撲に興味もない。私をして土俵を去らしめないのは、実に相撲の妙味、虚実の探究にある。私は場所毎に、段々今までと違つた気持ちになつて来てゐる。初めは、場所は実に嫌な気持ちがする。勝つても負けても嫌だと思ふ。それが段々、勝つても負けても、嫌だなあと思ふ直ぐ後から、云ふに云へない愉快さをも感じる。非常な緊張の後の嬉しさである。
(同前)

 相撲は取るものではなく、探究するもの。場所前に具合が悪くなり、なぜ体が動かないのかとあれこれ思い悩み、相撲が終わればすっきりする。「かうした日々の冷静な探究」こそが相撲精神だったのである。
 当時の新聞記者たちはこの境地を明快に指摘していた。「自分は風邪を引いてゐるけれども、無理して出てゐるのだといふやうに感じられるやうな態度」(都新聞・原三郎談『相撲』昭和15年5月号)で土俵に上る。そして「土俵場には出てゐるが風邪を引いてゐるんだぞ」(日本放送協会・山本照談、同前)と強調しながら相撲を取る。体調不良だからこそ、本人も頑張っていると実感できるというわけである。
 相手ではなく、自分の具合悪さを「おす」相撲。背面に向かって前進するようなこの精神は、戦時中に培われ、今日の土俵にも脈々と受け継がれているような気がする。

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