Web草思
おすもうさん 高橋秀実
第15回 戦争でも「待った」
 なんか、こう、メリハリというものがない……。
 などと思いつつ書き続けている「おすもうさん」。毎回のことだが今回も先行きが見えず、考えあぐねて国会図書館に出かけてみると、奇しくも大正時代に似たような『お相撲さん物語』(小泉三郎著、大正七年、泰山房)という本が出版されていた。
 著者は当時の力士、綾川五郎次の友人で、同書は相撲部屋のルポである。読んでみると「呑気な師弟の契約」「呑気な地方巡業」などとあり、私の書いているものと非常に近いニュアンスなのである。例えば著者が力士に質問していると、

 しばらく語り合つて居たかと思ふ中に「あゝ眠くなつた」と荒角(力士)がゴロリ横になつて昼寝の夢を貪らうとすれば、他の連中も此所彼所ここかしこへゴロリゴロリと寝ころがつたので、何んのことはないまぐろの大漁があつた漁場へでも行つたかのやうな観を呈する。何處どこ迄彼等は呑気だか知れやうない。

 当時も勝負に対する気迫のようなものは感じられなかったようだ。そして著者は「八百長の禁止は不可能……困難どころではない絶對に不可能である」と断言している。八百長には、勝ち星の貸借と売買の二種類があったらしい。一般的なのは貸借で、その場所に昇進がかかっていた場合に人から借り、次の場所で返す。取り組みが発表されると先方に会いに行って「『よろしく頼みます』と頼み込む」。あるいは取り組みの寸前に桟敷裏で「手取早く『いゝか』『うむわかつた』の僅か一二語のうちに話を決める」こともあったそうだ。これを「拝む」と呼んでいたらしい。いずれにせよ信頼関係で成立する取引で、それに欠ける力士が金銭での売買をした。当時の横綱だった○○(同書で伏せ字になっている)などは「星を借りても次の場所になると何だの彼だのと理屈を付けては延期を申込んだり相手方を休ませやうとしたりなぞ、自分勝手ばかりを遣らかすので時々相手方を怒らせ、八百りそくなふ(八百り損なう)」のである。つまり八百長とは義理人情の世界。彼らは頼まれると断れない性格だったらしい。

 若しそれを拒絶でもしようものならばそれこそ大變たいへん「あの男は眞實任侠気まったくおとこぎがない」と仲間から爪弾つまはじきされるばかりでなく、昔から頼まれて断つた時には却つて堅くなつて負けるものだといふ迷信があるので、大抵な者はそれにおうじて仕舞ふ

 頼まれて断ると、断ったことで体が堅くなって結局負ける。だったら素直に八百長に応じたほうが貸しが出来て得をするのだという。相撲とは真剣勝負ではなく、やはり「呑気」の極みだったようである。

相撲魂は日本魂

 昭和6年、満州事変勃発。日本は国際連盟を脱退し「我が帝国は全世界を相手に対立せねばならぬ」(荒木貞夫・内田康哉著『非常時教本』)という戦局ムードが高まってくると、相撲に関する言説はガラリとその様相を変えた。全世界に対立できる「日本精神」を具現したものは他ならぬ相撲。相撲魂は日本魂というわけで、突如としてメリハリを呈してくるのである。
 わかりやすいのは雑誌類だ。例えば『野球界』(博文館)という月刊誌は、昭和18年にタイトルが『相撲と野球』になり、翌年には『相撲界』に生まれ変わっている。一体どういうことなのかと『相撲と野球』を開いてみると、巻頭グラビアページは力士たちの稽古風景だった。土俵の回りには多くの力士たちがただ座っており、中にはカメラのほうにきょとんとした目線を送る者もいる。要するに私が追手風部屋などで見学した稽古風景とあまり変わりないのだが、写真横のキャプションが実に勇ましい。
 「若手力士の朝の稽古は壮絶を極める。全身これ闘魂、全身これ肉弾となつて、鍛へに鍛へて行く」「撃ちて止まむの烈々の敢闘精神こそ、また土俵を支配する相撲の精神」「国技報国を旗印に力士たちは」……
 つまり当時流行っていた「非常時」言葉が相撲にかぶせられたのである。裸一貫褌一丁で相手に対し「前撃精神」で挑む。大日本帝国が敢行すべき「肉弾戦」がまさにここで展開している、というわけなのだった。
 国家総動員法が公布された翌年の昭和14年5月、(財)大日本相撲協会(日本相撲協会の前身)は竹下勇海軍大将を新会長に迎えた。つまり相撲が正式に軍政下におかれたのである。その推戴式は国技館の土俵で行われたらしい。土俵祭りのように御幣をしつらえ、午前10時より「全員起立」「賜盃奉安しはいほうあん」「国旗掲揚」「君ケ代斉唱」「賜盃奉遷しはいほうせん」「陸軍戸山学校軍楽隊による『国のしずめ』吹奏」「皇軍将士の武運長久祈願」「戦没勇士の英霊に追悼の黙祷」。そして71歳の竹下海軍大将は土俵上で次のような就任の挨拶をした。

 相撲はわが國古来の國技でありまして、今日、かやうに隆盛をきたしましたことはゆゑあるかなと深く感ぜしめる次第であります。……今日未曾有の事變にのぞみまして、東亞新秩序の建設にむかつて國をあげて邁進いたしまするにあたり、あくまで押しの強さを要することは申すまでもありませぬ。同胞悉くが、協心戮力いたしまして、謂ゆる長期建設の覚悟を一層かたくし、忠君愛国の實を擧げまするためには、相撲道による心身の鍛練を最も緊要とするのであります。
(『相撲』昭和14年6月号、大日本相撲協会発行)

 そもそも相撲は明治42年に常設館を「国技館」と名付けたから「国技」と呼ばれるようになったにすぎないのだが、こうしてすっかり「国技」となった。推戴式に寄せられた祝辞を見ても、「本邦ノ國技タル相撲道振興ノ為……」(陸軍大臣・板垣征四郎)、「相撲ノ淵原ハ、遠ク古代ニ遡リ、良ク我國技トシテ其ノ傳統ヲ今日ニ傳ヘ、國民精神ノ作興、體位ノ向上ニ寄與セル所甚大ナル……」(海軍大臣・米内光政)、そして厚生大臣の廣瀬久忠も「申ス迄モナク相撲道ハ、我ガ國ノ國技デアリ……」と書いている。根拠の言えないことが、言うまでもないことになったのである。
 当時の木村庄之助も相撲の伝統について、「では、何時から土俵といふものが作られるやうになつたかといふことも當然とうぜん申上げなければならぬ訳ですが、それは非常に長くなりますから今回は割愛しまして現在の土俵について申あげます」(『相撲』昭和11年5月号)と肝心の部分を「割愛」している。わかりにくい所は「今回は割愛」すれば説明可能になるのである。
 それまで相撲の起源は、『古事記』にある「国譲り」の伝説、つまり出雲国の支配権をめぐって建御雷神たけみかづちのかみ建御名方神たけみなかたのかみが「力くらべ」をしたこととされていた。あくまで伝説なので「くわしくは知れないが、……一般に之を以て我國では、相撲の起源と思惟てゐる」(北川博愛著『相撲と武士道』浅草国技館発行、明治44年)と、みんながそう思っているからきっとそう、という相撲的解釈をしていたのであるが、竹下海軍大将はここに新たな解釈を宣言した。

 「國ゆづり」のやうな、重大事を「相撲」によつて決したと申しますことは、非常に注意すべき事柄であります。相撲をもつて、この重大事を決する神判の方途とされましたことは、当時すでに相撲を國技として尊重してをつたことが想察されるのであります。
(『相撲』昭和15年1月号)

 神代から日本では国家的な問題を相撲で解決してきた。そもそも「わが國の國體は、相撲によつてその基礎が固成された」(彦山光三著『生産基力と相撲道』文芸日本社、昭和16年)のだから。だから戦局も相撲で乗り切れるはずだと海軍大将は訴えたのである。やがて全国各地の神社では土俵が築かれ、学校では相撲が「正科」として取り入れられた。
 「國技といはれている以上は、すくなくとも男の全部は、相撲をとるやうになつてはじめてこの名がふさはしくなるのぢやないか」(東京市田原國民学校訓導・三上隼三『相撲』昭和17年4月号)という意見も出される勢いで、「みんながそう言うから国技」だったのが、「国技だからみんなやるべき」ということになっていったのであった。
 国家総動員とは、すなわち国家総おすもうさん。かくして力士たちは「日本魂」や「前撃精神」のお手本のような存在になってしまったのである。

「待った」をめぐる論争

 ところが驚いたことに『相撲』などを読むと、力士たちの「呑気」ぶりはあまり変わっていない。
 竹下海軍大将が新会長に就任した後、国技館で夏場所が開かれた。当然力士たちの肉弾戦、敢闘精神ぶりが期待されていたはずなのだが、『相撲』(昭和14年7月号)に掲載された関取たちのコメントを読むと、「努力が報われた」などと期待に添っているものは18人中わずか3人で、それ以外は皆「体の具合が悪かった」「稽古不足だった」と言い訳するものばかりだった。例えば鹿島のコメント。

 左足の故障になやみました。足首の筋が弛んだのですが、前に出ようとするとき、こいつは工合ぐあいの悪いものでした。それにもしていけなかったのは臀部にできた腫物です。さういふと、何だか負け越したのは、そんなものゝせゐばかりのやうですが、勿論、そのためにばかり敗けたとは思つてゐません。敗けるときはしかたがないものです。

 反省しているようで反省していない。他の力士たちも、闘いを省みるというより胃腸の具合が悪い、膝が痛い、脚気、盲腸炎などそれぞれ病状を訴えるばかりなのである。場所前に風邪をひいたという磐石などはこう語っている。

 ふとした風邪がもとで四十度の発熱でした。場所前だけに驚いて養生をいたしましたところ、幸ひに場所直前には熱もひき、ほとんど恢復かいふくいたしました。これなら何とか踏んばれる、有難いと安堵したやうなわけです。さて場所に臨んでみると、何としたことでせう。力士が場所前に高熱を出したら、たとへ、その熱が下がつたとて、暫くの間は、場所一番の相撲は駄目なのを痛感しました。腰に力が入らぬのが一番致命的の打撃でした。本当に元気をとり戻したときには、もう、千秋楽が目の前に近づいてゐました。

 気がついたら千秋楽。まるで他人事のように呑気である。では病気でなければ頑張れるのかと思うとそうでもない。鶴ケ嶺などは、

 比較的元気だつたので今度(今場所)は働けさうだと考へたのでしたが、意外な不振にがつかりしました。この不振の因がどこにあつたか、自分でも分からぬのです。強いて申せば、相手が強すぎたのでせうか。

 病気でなければ相手のせいにするのである。中には笠置山のように、場所が終わると相撲関係の催物が多いせいですっかり疲れてしまい、「食事するのがようやくで、一日床ごろごろしてゐた。その後も多忙な日を過ごしてゐるために、静かに夏場所を反省してみる時もなく」などと、ごろごろしていたのに反省する時間がないと訳の分からない理屈を訴える力士までいたのである。
 実は疲れやすく病弱な力士たち。羽黒山のように「病弱」を利用して、ネオネオギーという滋養強壮剤の広告に出て、胃腸が弱くてもこれで「堅く肥る」と力こぶを見せたりする力士もいたくらいである。ちなみに大日本相撲協会は、力士の9割が徴兵検査に合格していると発表した際にも、「國技相撲によつて鍛練しつづけられたもののみでありますから、かならずやかやうな成果をあげ得べき確信はもつてゐたのでありますが、……多少の不安がないわけではなかつたのであります。しかし実際形のうへにあらはれた数字をみて、われわれはまずよかつたといふ安堵のおもひを強くするとともに邦家のためにまことに同慶に堪えないのであります」(『相撲』昭和19年8月号)と正直に述べていた。御国のことより自分たちの安心感を優先するほど、彼らは自信がなかったのである。
 はたして、これが本当の「相撲道」なのか? 大政翼賛会の国会議員の中には、大日本相撲協会の呑気ぶりを批判をする者たちがいた。その中心となったのが衆議院議員の藤生安太郎である。彼は自著で相撲こそ「純粋の武道」(『相撲道の復活と國策』大日本清風会創立事務所、昭和13年)と位置づけ、大日本相撲協会の相撲は「余興的見物本位」、力士は「一種の芸人」だと糾弾した。さらには現行の相撲は体重の争いにすぎない、そもそも力士たちは国家が要求している體力検定型体型とはまったく違う「あんこ型」体型ではないかとも訴えた(昭和17年1月の國民體力法改正案審議委員会)。みんな痩せる思いで頑張っているのに、力士たちはデブではないのかと。そして最も武道らしからぬこととして「待った」を攻撃したのである。

 仕切りの構へは「サア来イ」の構へでなくてはならぬ。すでに戦場に於て、敵に相對あいたいし「サア来イ」と言って構へ(仕切)たるにも拘はらず、敵より仕掛けられて「待ツタ」などとはかりそめにも武士のるべき態度ではない。また実際に白刃をひっさげて真剣勝負に臨んだ場合、自分の「サア来イ」の聲に應じて切り込んで来た敵に對し「待ツタ」と言ひ得られるものでもなく、又敵が待つて呉れるものでもあるまい。
(前出『相撲道の復活と國策』)

 確かにその通りで、「さあ来い!」と言って相手が出てきたら「待った」と止めるのは、武士道以前にコントに近い。当時の相撲は「待った」の連続で、それを真似ると戦争に負けてしまうと彼は危惧したのであった。
 この指摘に対して大日本相撲協会は猛然と反論した。この「待った」こそ相撲道の神髄なのだと。

 對手あいての「待つた」を快くゆるすほどの武士道的のゆかしい寛懐のもとに、確信に満ち満ちた気魄と、精力をもつて、相撲を演練すべきであつて、「待つた」をされて、気が萎え、力が抜けるごときは、むしろ、大いに排撃すべきであらう。國技相撲の真意義は、つねに正解されなければならない。
(『相撲』昭和14年11月号)

 自分勝手ではなく相手のことも考える。それが真の相撲道だという。文献類を見る限りもともと彼らはそう主張していたのではなく、言われたから言い返したようで、部外者に言われたら「待った」をかけた様子なのである。いずれにせよ協会側の言い分は、これまでの日清、日露戦争、そして満州事変や支那事変での勝利も「皇軍−皇國は、あるひは十年、あるひは五年、隠忍いんにんし、自重じちょうし、臥薪がしんし、嘗胆しょうたんした。これは、仕切りである。もしくは、仕切りなほしである。もちろん待つたをしなければならないときには、かならず敢行かんこうした」(『相撲』昭和17年1月号)。つまり「待った」したから勝てたのだと反論したのである。相手に「待った」されても揺るがないのが相撲道のはずだが、いつの間にか自分ばかりが「待った」している。そしてなぜか大本営陸軍報道部長陸軍少将の谷萩那華雄もこの考え方を受けて次のように述べた。

 仕切りとなり、気合せざれば仕切り直し、待ったが繰り返されるその期間に微妙に閃く心術の動きを見ることが、相撲を鑑賞する上に最も大切な見どころであると聞いてゐる。これを戦争にたとへてみれば、両軍相撃って雌雄を決する、その決戦の以前、つまり今まさに両軍相撃たんとする寸前の、周到な戦備を整へ、綿密な戦術を練り、敵を知り、己れを識る極致に達した時、すでにその勝負は闘はざるに決すると云つてもいゝ。
(『相撲と野球』昭和18年4月5日号)

 戦争とは闘うことではなく「待った」を繰り返しながら、相手の様子をうかがい準備をひたすら整えること。まさにおすもうさんのスタイルが戦争に応用されたのである。相撲が軍国主義に利用されたのではなく、軍国主義が相撲化したのだった。昭和17年6月に日本はミッドウェー海戦で大敗北を喫した。この年の後半からアメリカの本格的反攻が開始され、次第に日本は苦境に立たされるのだが、相撲的観点からすると土俵際の「うっちゃり」という手も考えられた。大日本相撲協会の取締である藤島秀光は戦局についてこう語った。

 われわれからみてをりますと、はじめ緒戦しょせんのいきほひは一気に對手あいてを土俵ぎはぢかくまで攻めこんだ形とそつくりそのままでありまするし、最近のブーゲンビル島やギルバート諸島、マーシャル群島付近海域での戦闘ぶりは對手を引きつけておいておもむろにうちひしぐ相撲の取口とりぐちに酷似してゐるやうにみえるのであります
(『相撲』昭和18年12月号)

 相撲だと思うと、戦争も気楽に考えられたのである。
 参考までに日清戦争以来、日本は戦時中になると相撲人気が沸騰した。昭和10年代も連日桟敷席は売り切れ、まるで「戦争をさながら待ちかまへてゐるがごとく」(『相撲』昭和18年1月号)活況を呈したらしい。国粋主義の高揚とも考えられるが、協会相談役の出羽海梶之助はこの相関関係を「同胞國民が、精神的余裕を示すもの」(『相撲』昭和13年6月号)と分析していた。
 日本人はみんなおすもうさん。土俵祭りの方屋開口にあるように「勝負の道理は天地自然の理」。負けても仕方がないという気構えを日本人は相撲を通して練成していたのかもしれない。

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