Web草思
おすもうさん 高橋秀実
第13回 自然にそうなる(2)
言われたままに

 ──そもそも木村さんは、なぜ行司になったんですか?
 私は木村庄之助さんにたずねた。話を聞くうちに、行司の歴史と彼の気負いのない存在感が重なって見えてきたのである。
 「私は十三歳で入門したんです。中学二年生の初めですね」
 木村さんは昭和十七年、青森県八戸市生まれ。現在、行司の入門資格は「義務教育の修了」だが、当時は規定がなかったらしい。
 「ウチの近所に高砂部屋の地方世話人がいたんです。その人の家に土俵があって、いつも友人たちと相撲を取って遊んでいました。それである日、その世話人が高砂部屋で行司と呼出、床山を募集しているけど行きたい者はいるか、と希望者を募ったんです」
 ──それで手を上げたんですか?
 「はい」
 十人が手を上げ、その中から木村さんを含めた三人が選ばれたそうだ。
 ──行司になりたかったんですか?
 「行司というわけではなく、相撲を取って遊んでいるうちに、いつの間にか相撲に興味を持っていたんですね」
 木村さんは五歳の時に父親を亡くし、母一人子一人の家庭だった。母親に入門を反対されたが、木村さんは「それならもう学校に行かない」とごねたらしい。相撲への興味とともに「まだ見たことがない東京への憧れ」と「毎日、温かいご飯やちゃんこ鍋がいくらでも食べられるという甘い言葉にも惹かれた」そうである。
 選ばれた三人は早速、高砂部屋が巡業していた群馬県桐生市の神社に「連れて行かれた」という。入門当時の様子を木村さんは自著でこう記している。

 ごちゃごちゃした仕度部屋に行くと、おじいちゃんの床山がいて、「おおい、こっちへおいで」と手招きしているのです。そのおじいちゃんの近くまで行くと、「そこで立って見ていろ」と言われたので、言われたまま立って、床山が髷を結っているのを見ていました。すると、2、3分もしなかったと思う。反対側の少し離れたところでもう一人の相棒と行司が話をしていましたが、突然、大きな声がするのです。その行司は「これは耳が遠くてダメだ、代われ」と言うのです。それで私は行司の方へ行き、相棒は床山の方へ来ました。そのとき、私と相棒の運命が決まりました。私が行司になり、相棒が床山になったのです。
(『大相撲と歩んだ行司人生51年』木村庄之助・根間弘海共著、英宝社、平成18年)

 一緒に入門した友人が難聴だったので、木村さんは行司になった。「いつの間にか」相撲に引き寄せられ、「言われたまま」にしていたら行司に「なった」のである。
 「親方に『お前の名前は?』と訊かれたので『要一です』と答えました。すると『それじゃあお前は要之助じゃ』と言われたんです」
 かくして彼は、行司「木村要之助」になったのである。
 行司の姓は「木村」か「式守」に限られている。『行司と呼出し』(第二十二代木村庄之助・前原太郎共著、ベースボールマガジン社、昭和32年)によれば、江戸時代に吉田司家には四人の弟子がいたらしい。日高、水本、金田、木村。そのうち日高と金田の両家は断絶し、水本は南部の家臣となったため、残った木村が「最高家」となった。その四代目の名前が木村庄之助で、六代目から代々この「木村庄之助」を襲名するようになったという。一方の式守家は、第四代木村庄之助の弟子で「庄之助から“木村の式を守れ”といって“式守”をもらい、初代式守伊之助ができたことになっている」(『行司と呼出し』)そうである。真偽は不明だが、「できたことになっている」ことで位の上下の辻褄を合わせているのである。いずれにせよ、相撲部屋は木村家か式守家のいずれか一方を受け継いでおり、新人は入門した時点でその姓を名乗ることになる。高砂部屋の場合は木村家。ちなみに現在、行司は四十五人いるが、三十五人が木村家で十人が式守家である。
 ──木村家と式守家の行司は何が違うのですか?
 家というからには、家元、流派の違いがあって当然だろう。
 「軍配の握り方が違います。力士の名乗りを上げる時、木村家は手の甲が上、手のひらが下になるように握ります。式守家は逆で手のひらが上になるんです」
 ──あまり見分けがつかないんですが……。
 この点に着目して土俵を見たのだが、私にはあまり変わらないように思えた。
 「そうですね。実際は木村家でも真横に握る行司もいますし、式守家でも斜めに握る人もいますから」
 ──微妙なんですね
 「そうです。明らかに間違えている場合は先輩が注意しますが、微妙な場合は行司本人の判断に任されているんです」
 ──軍配の握り方以外に違いはないんですか?
 「何もありません」
 はっきり言い切る木村さん。
 ──家の会合や、お墓参りのようなことも……。
 「ありません」
 ──では、ほとんど同じ……。
 「同じことなんです。式守家の行司も出世すれば、最後に木村庄之助になります。木村家の行司も式守伊之助になりますから」
 木村要之助と名付けられた木村さんはその後、木村正裕→木村要之助→木村賢嘉→木村要之助→木村友一→木村朝之助→式守伊之助→木村庄之助と改名している。
 「最後の『式守伊之助』と『木村庄之助』だけが相撲協会の名前なんです」
 このふたつだけが一種の役職名で、それ以外は慣例上、木村家か式守家に分かれているだけなのである。
 ──では、なぜ下の名前が次々と変わったんですか?
 「気分転換です」
 ──気分転換? 名前を変えてですか?
 「私たちの頃は定年制度がなかったので、六十五歳を過ぎた行司がいっぱいいたんです。行司の定員は決まっていますから、なかなか出世できなかった。それでげんかつぐつもりもあって名前を変えたんです」
 力士は勝敗で出世するが、行司は年功序列である。大抜擢のようなことはなく、四十五人の定員の中で、欠員ができると順次上にあがるシステム。定年制(六十五歳)がある現在でも、立行司になるには五十年かかるといわれているのである。

自然の流れに乗る

 行司の階級を整理しておこう。力士と同じように下から順に、

・序ノ口
・序二段
・三段目
・幕下
・十枚目
・幕内
・三役
・立行司、式守伊之助
・立行司、木村庄之助
(九人)
(八人)
(三人)
(一人)
(一人)
(カッコ内は定員)

 階級の違いは、装束や軍配に表れる。基本は直垂ひたたれ烏帽子えぼしという出で立ちだが、幕下以下は素足で直垂の裾を紐でしばる。これが十枚目(十両)以上になると白足袋を履くようになり、三役以上になると白足袋に草履を履ける。そして軍配にぶら下げる房と胸につけたリボンのような菊綴きくとじの色が、幕下以下は黒または青、十枚目は青白、幕内は紅白、三役は朱、式守伊之助は紫白で、木村庄之助は総紫と決められている。三役になると印籠を持ち、立行司となるとさらに短刀を腰に差すようになる。
 木村さんによると、最も重要なのは十枚目に上がることで、これを境に行司の待遇は大きく変わるらしい。取り組みも幕下以下は三番以上裁くが、十枚目になると二番のみ(木村庄之助は結びの一番のみ)になる。(十両以上の力士が持つことができる着替えや道具を入れる箱)も持てるし、控室でも自分の椅子を確保して「その周辺は自分のいる場所にすることができる」そうだ。地方場所でホテルに泊まる時も個室。場所入りする時刻も、それまで午前五時出発のバスに乗らなくてはならなかったものが、午前七時発のバスでもよくなる。行司にとっては「天と地の境目」なのだという。
 木村さんは十枚目に昇進するまでに二十二年を要した。十三歳で入門し、三十五歳にしてやっと白足袋を履けるようになったのである。
 ──仕事がつらいと思ったことはありますか?
 私がたずねると木村さんが微笑んだ。
 「つらいという感じではないですね」
 ──なぜ、ですか?
 「仕事の流れがほとんど決まっているので、つらいとは思わないんです。イヤになるとか辞めたいとか、あんまり考えたこともありませんね」
 ──なぜ、なんでしょうか?
 「なんか、こう、変わったことがないからでしょう」
 木村さんは悠然とそう答えた。私たちが仕事を「つらい」と感じるのは、流れがつかめないからなのだろうか。
 行司の実務は日本相撲協会の『寄附行為施行細則 附属規定』の中の『審判規則 行司』で事細かに定められている。例えば「仕切り」についても、

 力士の仕切りに際しては、「構えて、まだまだ」等の掛け声をなす(第五条)

 と掛け声まで決まっている。第七条にも、「両力士が立ち上がってからは、『残った。ハッキョイ』の掛け声をなす(『残った』は技をかけている場合であり、『ハッキョイ』は発気揚々を意味し、両力士が動かない場合に用いる)」と決められている。ちなみに相撲が長引いて「水入り」になり、それを再開する際にも「『いいか、いいか』と声をかけて再開する」(第十三条)と明確に規定されているのである。
 ──土俵の外ではどんな仕事をしているんですか?
 「例えば、輸送係です」
 ──輸送係?
 「はい。乗り物の切符を手配するんです」
 地方場所や巡業は、力士や役員、床山、呼出など関係者全員が移動することになる。その際に行司が飛行機、電車、バス、ホテルの予約をして切符を購入するのである。ホテルの部屋割りや役員のタクシー割りも彼らの仕事。行司は土俵上では祭主だが、土俵を降りると庶務係のようなのである。部屋の掃除から関係者の冠婚葬祭の受付、さらに書き物はすべて行司がこなす。番付表はもとより、毎日の取り組みを記す「巻き」、昇進祝いなどの各種案内状、地方場所でお世話になる人への礼状、基本的に「親方が口で言って、行司が書記をする」ことになっているのである。
 そして場内放送も行司の仕事だ。力士が土俵に上がると「東方○○、○○出身、○○部屋」、勝負がつくと「ただ今の決まり手は○○」などというアナウンスが聞こえるが、あれは装束からネクタイ姿に着替えた行司が升席最前列の放送席でアナウンスしているのである。席には特設電話が設置されており、決まり手がわからない時は審判席に電話をして確認する。決まり手を間違えると電話がかかってきて「お前ちゃんと見てんのか!」と注意されたりする。東北出身の木村さんは訛りを恐れてかなり緊張したらしく、「東方、横綱千代の富士」とアナウンスすべきところ、正面に座っていた審判長の北の富士の姿が目に入り、思わず「東方、横綱北の富士」と言ってしまったこともあるそうである。
 「苦手なこともありますけど、先輩がいつも何をするかを指示してくれるんです。それ以上はやらせてくれないんです」
 言われたことだけをする、というのが行司の鉄則なのである。
 ──自分からは何もしないんですか?
 「何かを『やりたい』とか『やらせてくれ』というのは生意気です」
 ──じゃあ自分からは何も決められない……。
 「行司会で決めるんです」
 行司会の会長は木村庄之助、副会長は式守伊之助、その下に行司監督三人(十枚目、幕内、三役行司からそれぞれ一人)が委員となる。
 「行司監督は二年に一回の選挙で選ばれます」
 行司全員が参加する民主的な制度なのである。
 ──じゃあ立候補して……。
 「立候補はしません」
 ──ではどうやって選挙をするんですか?
 「みなさんから選んでもらうんです」
 ──誰が?
 「みなさんが」
 ──それで決まるんですか?
 「はい。自分から何かをしなくても、そうしていると自然な形におさまっていくんです」
 意思を消せば、そこに自然の流れが見えてくる。行司の歴史が不明なのも、みんな一緒に流れているからだろう。
 毎場所、千秋楽の最後は優勝、技能賞など各賞授賞式に続いて、神様を送り出す「神送りの儀式」が行われる。翌場所から番付にのる新弟子たちが土俵に上り、円くなって行司を三回胴上げするのである。行司はこの時、両手で御幣を抱えている。相撲を見守るために御幣に宿っていた神様に胴上げの勢いで、元の場所にお帰りいただくというわけで、日本人の胴上げという風習はこの「神送り」が起源になっているらしい。
 場所は行司の土俵祭りで始まり、行司で締める──と解釈したくなるところだが、実はつい最近まで胴上げされていたのは審判部の親方だった。新弟子の数が年々少なくなる一方で親方の体重は変わらず重いので、ある時、胴上げの途中で親方が土俵に落ちてしまった。「親方はみんな重いから続けるのは無理」と儀式は一時廃止されていたのだが、「伝統は欠かすことができない」という意見もあり、ではどうするかと話し合った末、体重の軽い行司がやればよいという結論に至ったそうである。これもまた自然の流れ。流れに乗ると、便宜と儀式は自然につながっていくようだ。
 木村さんは六十四歳で「式守伊之助」に昇進し、その二か月後に「木村庄之助」になった。彼が「木村庄之助」でいるのは定年までのわずか十か月間。これも定員四十五人の行司たちの年齢が自然に織りなした在位期間といえる。

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