Web草思
おすもうさん 高橋秀実
第12回 自然にそうなる(1)
 通常、「黒星」とは力士の「負け」を意味するが、勝ち負けのないはずの行司にも黒星がある。「行司黒星」。負けたほうの力士に軍配を上げてしまうミス、いわゆる「行司差し違え」のことである。
 「そうならないように、私たちは刀を差しているんです」
 木村庄之助さんが微笑んだ。立行司(行司の最高位)の彼は土俵上で腰に短刀を差している。「武士の名残り」らしく、「腹を切る覚悟」ということなのである。
 「でも、今まで切った人はひとりもいません。あくまで“覚悟”ですから」
 黒星が重なると、行司は格下げになるらしい。『行司と呼出し』(木村庄之助、前原太郎共著、ベースボール・マガジン社、昭和32年)によれば、一場所で黒星を四つ取ると行司の番付(力士と同じように下から序ノ口行司、序二段行司、三段目行司、幕下行司、十枚目行司、幕内行司、三役行司、そして立行司の階級があり、基本的に年功序列で出世する)を下げられる規定になっているという。
 「今は違います。一年でいくつか取ると格下げになるんです」
 ──いくつですか?
 「いくつか、です」
 ──大体いくつなんですか?
 「明確には記されてないんですが、五つも六つも取るとあぶないんじゃないんですか」
 格下げを決めるのは(財)日本相撲協会理事会で、行司はそれに従うのである。
 ──目安は五つか六つなんですね。
 「いや、要するに、取りすぎるとあぶないんです」
 規定ではなく気配で決められるようだが、最高位の立行司となるときちんとした規定がある。『相撲大辞典』(金指基著、日本相撲協会監修、現代書館、平成14年)によれば、「立行司に差し違えがあった場合には、立行司はその当日中に審判長・行司監督(行司の監督係)とともに理事長に対して口頭で進退を伺う」とある。つまり辞職を理事長に一任するのである。
 「立行司は横綱と同じで降格がありません。だから進退を伺うしかないんです。だから黒星を取ったら理事長室に行くことになります」
 ──辞めることになるんですか?
 「いや、立行司で黒星を取っていない人は今までいないんです」
 ──皆さん黒星を取っているんですか?
 「はい。でも辞めた人はいません」
 木村さんによると、進退伺いのために理事長室に入ると「まず初めに、審判長がお詫びの言葉を話します。話し出すとすぐ、普通、理事長がそれを遮り、『きょうの勝負が際どかった。あれは仕方ないでしょう。見る位置も難しかったし、見極めるのが大変です。明日からまたがんばってください』というような激励の言葉をかけてくれます。三名は理事長にそれぞれ一礼をして、儀式が終わり退室します」(『大相撲と歩んだ行司人生51年』第三十三代木村庄之助、根間弘海共著、英宝社、平成18年)という段取りらしい。「進退伺い」は辞職とは関係がなく、文字通り進退を伺う儀式。大切なのは、謝ろうとするのを遮る理事長の「間合い」のようなのであった。

四股名を忘れる

 土俵上での行司の所作も「間」が重んじられているらしい。確かにあらためて取り組みを注視してみると、行司の動きは妙にゆったりと見える。
 まず、土俵に呼出が入り、扇子片手に「ひが〜し〜○○ に〜し〜○○」と力士の四股名を呼び上げる。呼び上げが終わり、呼出が土俵の外に出ようと動き始めると、おもむろに行司が土俵の中央に歩み出る。そして東西から力士が土俵に入り、タイミングを合わせるようにそこで力士、行司ともに軽く一礼する。
 「呼出の中には早く出る人もいれば、ゆっくりの人もいます。力士もそうです。それぞれの“間”を見ながら動くんです」
 と木村さん。遅すぎず早すぎず。あくまで自然な流れで、礼を合わせるのが「土俵の美」なのである。
 礼を済ますと力士はくるり体を返し、土俵の外に向かって四股を踏む。その間に行司は軍配を水平に差し出し、東西それぞれのほうを向きながら「○○に〜○○」と力士の四股名を呼び上げる。これを行司の「名乗り」という。
 「四股名を忘れることが、結構あるんです」
 木村さんがさらりと言った。これも自然な流れのようである。
 「部屋では、みんなあだ名や本名で呼んでいますし、途中で何回も改名したりする力士なんかもいるんです。ですから名乗りをあげようとした瞬間、『あれっ、四股名は何だっけ』とわからなくなることがあるんです」
 四股名を忘れた際、木村さんは軍配を上げたまま何喰わぬ顔で一歩二歩後ろに下がり、力士の顔を見に行ったそうである。
 「でも顔を見る前に背中の格好を見た瞬間、四股名が浮かんできたんです」
 ──背中ですか?
 「おすもうさんは背中の形でわかるんですよ。肉の付き方、肩幅、肌の色などで」
 私も追手風部屋を訪れた際、彼らの四股名を覚えるのに苦労した。誰もが「大翔○」か「追手○」という似たような名前だし、髪型や服装(浴衣かまわし)もまったく同じで、顔付きまでよく似ている。力士は正面から見ると区別がつかないので、後ろから見るべきなのである。
 名乗りにはもうひとつ、「勝ち名乗り」というものがある。勝負を決した後、行司は勝った力士のほうを向いて四股名を呼び上げる。この場合は力士の正面しか見ることができないので、忘れた時はどうするのだろうか。
 「私は、直接本人に『名前は何だった?』と小さな声で訊きました」
 ──土俵上で、ですか?
 「そうです。でも本人は息を切らしてハアハアしているし、何訊いているんだ? という顔をしていました。冷や汗ものでしたが、その時、急に四股名がひらめいたんです」
 木村さんは「ひらめき」で事なきを得たそうだが、ひらめかない場合は一体どうするのだろうか。かつての立行司は次のような四股名の名乗り方でその場をしのいだらしい。

 「むにゃむにゃ」

 文字面だけを見るとヘンだが、名乗りの節回しに乗せて例えば、「ぁいしょ〜うかく(大翔鶴)に〜むにゃ〜むにゃ〜」と呼び上げると、何やらあまり違和感がない。もともと行司の名乗りははっきり聞き取れるものではないのである。いっそのこと「むにゃ〜むにゃ〜に〜むにゃ〜むにゃ〜」とすれば、そういう伝統的な発声法なのではないかとも思える。四股名の基本が七五調で語調が揃っているのは、ごまかしに好都合なのであった。

「待った」の始まり

 名乗りを終えると、行司は一歩下がって直立する。土俵の外に向かって四股を踏んだ力士は土俵際でお互いに向き合う。そして行司が軍配を正面に向かって差し出すと、それとほぼ同時に力士が「塵浄水ちりちょうず」を始める。力士が「塵浄水」をしている間に、行司は二歩下がってじっと待つ。そして力士が土俵中央に歩み寄って四股を踏む。左右の四股が終わる頃を見計らって、行司がゆっくりと土俵中央に歩み出る。ここで「仕切り」である。
 双方の力士がいったん腰を落とし、右手の拳をついて相手を睨む。行司は、左足を前に出して半身の構えとなり、右手の肘を直角に曲げて軍配を上げ、顔にかざすような姿勢となる。一瞬の緊張状態となるが、力士はどちらからともなくふっと力を抜いておもむろに自分のまわしをパンパンたたいたりする。仕切りは必ず「仕切り直し」なのである。そして何度かこれを繰り返すうち、十両以上の力士は塩をまいたりする。向正面東寄りに座る時計係審判が手を上げて「制限時間いっぱい」の合図をすると、行司はそれまでとは異なる「仕切り」の構えを取る。腰を落として正面を向き、軍配を右膝のあたりで立てる。立てると裏側が見えることから、これを「軍配を返す」という。
 ──つまり、仕切りの構えには二種類あるわけですね。
 私は木村さんに確認した。
 「そうです」
 ──なぜ、軍配を返すのですか?
 軍配とは「戦国時代に武将が軍団を指揮するために使用したもの」(『相撲大辞典』)。それを返すことには何か意味がありそうである。
 「意味というか、もともと仕切りは“ふつうの仕切り”しかなかったんですよ」
 「ふつうの仕切り」とは、半身になって繰り返す仕切りのことである。
 ──それがなぜ?
 「昭和の初期にラジオ中継が始まって、仕切りの制限時間というものができました。それまでは仕切りに三十分も一時間もかけていたんですが、全取り組みを6時までに終わらせなくちゃいけなくなったんです。制限時間ができたのだから、行司も作法を変えようということになってできたのが、あの構えなんです」
 ──どういう意味合いで……。
 「いや、ああするとカッコイイだろうということで。ですからあの構えは歴史が浅いんです」
 伝統ではなく、放送事情から生まれた作法なのであった。ちなみに行司の装束がカラフルになったのも、テレビのカラー放送への対応らしい。
 それにしても相撲の仕切りはなぜかくもややこしいのだろうか。「仕切り直し」を何回も繰り返すことも不思議だが、立ち合いの合図を行司がしないのも妙である。通常の格闘技であれば、レフリーの合図で双方がぶつかり合うはずである。ところが相撲の場合は力士同士がお互いに息を合わせてぶつかり、それを確認した後に行司が「ハッケヨイ」などと声を出す。よく考えると、行司は現状を追認しているだけで一体何のためにいるのかよくわからないのである。
 歴史文献を辿ってみると、次のような記述があった。

 相撲の古法には、双方相對し左右の手を下げて己の向ふすねを押へ居り、行司の団扇(軍配のこと)を中間に挿して双方呼吸を計り、呼吸の揃ふたる處を、「スマフ」と言って団扇を引く時に、双方「ヤツ」と言つて立上り勝負を試みるのである。
(古河三樹著『大相撲鑑識大系』第3巻「江戸時代の大相撲」国民體力協會、明治17年)

 江戸時代初期には、行司が「スマフ」(相撲を取るの意)と発声し軍配を引くことを合図に、力士は立ち合っていたのである。ところが、

 堺の力士、八角楯右衛門たてえもん(楯之助)の工夫によつて「待ツタ」といふことが始まり、行司が団扇を引くと引かざるに拘はらず、自分に都合あしくば何時までも立たず、現今に迄その弊風を遺したのである。
(同前)

 行司が合図をしても、力士たちが「待った」をして立ち上がらなくなってしまった。そこで行司は合図をしても仕方がないので止めてしまい、「後世行司は殆ど名乗りを揚ぐるだけの職柄になつた」(同前)らしいのである。
 では、この「待った」を考案した八角楯右衛門とは一体何者なのだろうか。『相撲大辞典』によると、彼は江戸時代の亨保年間(一七一六〜一七三六年)に活躍した大阪・堺出身の力士らしい。「相撲今昔物語」(前出『大相撲鑑識大系』第3巻所収)には、「ネヂケ屋(性格がねじけているの意)の隊長」と称されている。

 八角が給銀(給料)は五十両也。此時分としては随分高値のものなるが、其後元文の頃相撲少し衰微せしゆゑ、頭取相談にて八角の給金を値切りし事あり、豪傑者聞き入れず。よつて八角を省き初日を出す。三日目まで一向に見物なし、よつて相撲を休み、再び堺に到り、八角を頼みしに、八角のいふやう、親方衆気前悪しという可し。……久しく取り来りし給金を値切らうとは不快千萬也。……盛りの此八角、五十両の内、一両かけても得こそ勤めじといふ。よつて半金二十五両を調達して渡す。凡そ番附に乗らず、相撲一番も取らずに半給金を取りしは此八角ばかりなり。
(同前)

 八角は人気こそあったが、給金に頓着する力士だったらしい。ある日、「大阪の一富商が、殊にこの八角を贔屓ひいきし、今度の角力に勝たらば、町屋敷を二軒あたへて一生安富に暮らしをあたふべし」(「薫風雑話」寳歴9年刊、前出『大相撲鑑識大系』第3巻所収)と申し出た。その取り組みが、九年間連勝を続けていた谷風梶之助との一番だったのである。

 八角種々工夫を凝らしたれども、とても谷風に勝つべきすきの所も見えず、如何はせんと當惑とうわくしけるが、やがて「待ツタ」の一策を案じ出したり。此に於て八角は谷風を堅くさせんと思い付き、行司団扇を引くと均しく、谷風仕懸くれば「待ツタ」と云って取り組まず、谷風ひたすら仕かくれども、八角はいよいよ取り合はざる故、後には谷風も是迄これまでなき事ゆゑ、心せきて、ハテたわけたる奴哉やつかなと思ひつゝ、のぼせ切りたるすきを窺ひ、八角は先を取りて仕かけ、這奴こやつが慣手の「モタレ」を取て押出し勝を占めたり。是より後は誰も負けじとて「待ツタ」「待ツタ」を学び、世間に流布し、畢竟ついに今の様にいやしく成りくだれり。
(同前)

 勝てそうにない相手と対戦する場合は、まず「待った」をして相手をイラつかせ、スキをつくる。八角のアイデアはやがて力士たちの間に広まり、お互いがそう考えるようになったので相撲は「待った」の応酬になったのである。
 記録によれば、連載第6回で触れたように、明治四十五年の夏場所にはひとつの取り組みで「待った」が五十四回、立ち合いまでに一時間三十七分を要したらしい。そして昭和に入ると「仕切直しと言ふものは、たしかにわれわれの心を力士に接近させる。人間的親しさを與へるものである。あの数十分間にしんしんとして深まつて行く力士の気魄の追及は正に藝術のもつ表現である」「立ち上がつて双方もみあつてからが相撲と思ふのは間違つてゐる。相撲の本當の味は立ち上がる前にある」(藤生安太郎著『相撲道の復活と國策』大日本清風會、昭和13年)などと意味が付けられた。勝負より勝負前。仕切り直しとは、「待った」の様式化だったのである。「相撲今昔物語」によると、実はこの「待った」を八角にアドバイスしたのは尺子一学という行司だったらしい。

 たやすく立ち合う事なかれ、其の内かならず得手えて知るゝものなり。……汝是を工夫せば案外の勝利を得べし。必ず急く事なかれ。
(前出「相撲今昔物語」)

 そう言われて八角は「待った」を始め、やがて行司は軍配を引くことを止めた。結局、行司が自らその職責を放棄したようにも思えるのだが、「甲子夜話」(前出『大相撲鑑識大系』第3巻所収)には、「(行司の)団扇の引き方に依怙えこも有る」と記されている。つまり行司の中には、片方の力士に有利なようにタイミングを計って軍配を引くこともあったらしい。立ち合いは力士に任せれば、公平な土俵裁きにもなる。仕切りのややこしさは勝負を先送りしたがる男たちの自然の成り行きなのであった。

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