『相撲大事典』(金指基著、日本相撲協会監修、現代書館、2002年)によれば、江戸時代、力士の控所には片方だけひさしがかけられていたらしい。それが、「片屋」「方屋」と呼ばれ、やがて相撲を取る場所全体の呼び名になったそうである。つまり「方屋開口」とは、これから相撲を取る場所を開く、という宣言なのである。
白装束姿の木村庄之助さんが、手にした軍配を左右に振り、土俵中央の祭壇まで座ったままの姿勢でにじり寄る。そして、明瞭な声で次のように言上した。
天地開け、始まりてより陰陽に分かり、清く明らかなるものは陽にして上にあり、これを勝ちと名づく。重くににごれるものは、陰にして下にあり、これを負けと名づく。勝負の道理は天地自然の理にしてこれをなすものは人なり。
清く潔きところに清浄の土を盛り、俵をもって形となすは五穀成就の祭りごとなり。ひとつの兆しありて形となり形なりて前後左右を、東西南北これを方という。その中にて勝負を決する家なれば今はじめて方屋と云い名づくなり。
清く潔きところに清浄の土を盛り、俵をもって形となすは五穀成就の祭りごとなり。ひとつの兆しありて形となり形なりて前後左右を、東西南北これを方という。その中にて勝負を決する家なれば今はじめて方屋と云い名づくなり。
「勝負の道理は天地自然の理」。天地が陽と陰に分かれたように、人もまた勝ち負けに分かれてしまうのが自然だということである。場所前にこう言われると、勝ちに対する意気込みが抜けてしまうような気がする。私などは身が引き締まるというより、身を委ねるより他にないのではないかと思えるのである。
──勝ち負けは“仕方がない”という意味なのでしょうか?
不躾ながら、私は祭主である木村さんにたずねた。
「そういう意味にとれば、そういうことになるんでしょうね」
文言は意味のとり方次第。そういう意味にしかとれない私が間違っているのだろうか。
「確かに、一生懸命稽古しても運はありますし、勝つことがすべてではないのかもしれません。でも、力士たちも生活がかかっているし、奥さんや子供もいるだろうし……」
──勝負の結果は仕方がないということですね。
「というより、お互いを敬うということだと思います。相撲は礼に始まり礼に終わります。
陰があるから陽がある。負けがあるから勝ちがある。相撲とは「お互い様」ということなのだろうか。
──この「方屋開口」の文言は、どなたがつくったのですか?
「それがわからないんです」
木村さんが静かに微笑んだ。
──では、いつ頃から土俵祭りで言上されているんですか?
「それもわかりません。ずっと昔からだと思います」
──どれくらい昔ですか?
「さあ、おそらく百年も二百年も昔のことでしょう」
わかっているのは、「伝承したのが吉田司家とされています」ということだけだった。現在、行司の姓は「木村」か「式守」に限られている。もとを辿ると両家とも江戸時代にこの吉田司家の門人となり、免許状を授与されたとされているのである。
吉田司家の謎
吉田司家とは、相撲の司である吉田家のこと。江戸時代の元禄年間(1688〜1704年)から、肥後(現在の熊本県)の細川家に仕えた家柄で、「相撲の故実・例式に詳しい家として、年寄、力士、行司に故実門人の格式を与えた家」(前出『相撲大事典』)らしく、昭和26年(1951年)まで行司や横綱に免許状を与えていたのである。となれば当の吉田司家にたずねればよいのだが、現在その所在は不明だった。相撲関係者たちも口を揃えて「わかりません」というのだった。
ほとんど唯一の手掛かりといえるのは、吉田司家の後援組織だった
同書によれば、古事記の時代に行われていた相撲は「随分乱暴な、卑怯な、危険なことも行はれていた」という。やがて奈良時代の聖武天皇の治世に、「志賀ノ清林という者がゐて、この者が相撲の法をきはめてゐるといふことがわかった」そうだ。そこで朝廷は彼を迎えて「相撲行事官」に任命する。ところがその後、源平の戦乱に巻き込まれて志賀家は断絶し、相撲も行われなくなってしまったらしい。相撲を復興しようと考えたのは後鳥羽天皇(在位1184〜98年)。その際、「それでは、とこれ(志賀家)に代る人をさがされた結果、志賀氏の伝をうけてこの道の故実旧例に精通してゐる吉田家次といふ者が越前国にゐることがわかった」そうである。そして文治2年(1186年)、吉田家次は朝廷から相撲司を命じられ、ここに相撲の家元としての吉田司家が誕生したというわけである。
吉田家の「由緒ある家譜」ということなのだが、志賀家と吉田家のつながりがよくわからない。「相撲の法」がいつどこでどう伝授されたのかについてまったく記述されていないし、「さがしたら、ゐることがわかった」という表現も史実として説得力に欠ける。さらに怪しいのは、こうした経緯を裏付ける記録を持っているのが吉田司家だけだということである。それゆえ明治以降の相撲史関係の本を読むと、「吉田家が
吉田家譜も、先祖書のくだりは、その最もよい作り系図の一例であって、専門家はバカバカしくてまじめに取りあげるはずはない
(「吉田司家の研究」大村孝吉)
彼は吉田司家の文書を「詐称された文書」と言い切っている。志賀ノ清林なる人物が存在した客観的証拠はどこにもないし、年代の前後関係も矛盾している。吉田家次が本当に相撲司に任命されていれば、どこかに証拠が残されるはずなのに、それがまったくないのはおかしいというのである。確かに信憑性に欠けると私も思ったのだが、驚いたのはこの批判に対する吉田司家の反論(『大相撲』昭和35年11月号)である。24代目の吉田長善は泰然とした文章で次のように書いていた。
吉田家の代々の当主のうちで伝書類が子孫の読みやすいようにと、わかりやすいその時代の書体で書き写しをやっている。ところがこの複本をつくるに当たって重大な写し違いがあったのではないかと思われるふしがある。……ちょっとした古記録の転記の誤りが、後世の研究家をして迷路に踏みこましめる結果ともなったのである。
(「吉田司家の資料公開1」吉田長善)
年代が前後するのは、書き写し間違いかもしれないというのである。歴史上の記録は常に真偽が問われるが、「書き写し間違い」には悪意がない。先祖が写し間違えちゃいましたと言われれば、真偽はともかく誰も責めることができないのである。これを援護するかのように相撲司会もこう記していた。
相撲の司といふものをおくやうになったのは淳和天皇の天長三年(826年)に始まるといふ。これは吉田司家の伝承である聖武天皇の神亀三年(726年)とは百年もちがひがあつて、おかしいが、とにかく文献上ではさうなつてゐる。もつともこれより前、元正天皇の養老三年(719年)に抜出司が置かれてゐる。抜出司といふのもまた相撲司のことであらうといはれてゐるが、さうすると吉田司家の伝承よりも古くなり、年号が近くなつてきておもしろい。
(前出『相撲道と吉田司家』)
そもそも文献記録は「おかしい」、あるいは「おもしろい」もの。どっちでもいいではないかという超然とした論旨なのである。
では、吉田司家に受け継がれてきた伝承とは如何なるものなのだろうか。
吉田司家に入門し、初代の式守伊之助となったとされる人物(式守蝸牛)が、寛政5年(1793年)に相撲の故実を『相撲隠雲解』という書物にまとめていた。但し書きには、「此書は吾道の秘事たるによりて売買を許さず」。つまり相撲の秘伝書だ。そこには、土俵の俵の数が28個なのは天球の二十八星宿を意味しており、円は「大極」、東西の入り口は「陰陽」を示していると書かれている。さらに「外の角を儒道、内の丸を佛道、中の幣束を神道、これ神儒佛の三つなり」。つまり、土俵の形はすべての「道」に通じているということなのである。故実というより、こじつけに思えたのだが、本書をよくよく読むと、これらの故実について式守伊之助は次のような解説を加えていた。
力在て法に随ふ時は治世之道具作法古来の如くならん唯一筋に是を守れと云事也
(式守蝸牛著「相撲隠雲解」『隋筆文学選集第九』書齊社、昭和2年、所収)
相撲が力ばかりになると「手前の勝手
江戸時代は相撲に限らず、あらゆる分野で儀式典礼の研究が行われていた。しかし、「平安時代の礼法、官制、服制等を伝えている
内外清浄六根清浄天下泰平國土安穏五穀成就
(前出『相撲隠雲解』)
治世に都合のよい思想。土俵はなんでもこだわりなく盛り込めるのである。
すべては形から始まる。「方屋開口」にあった「ひとつの兆しありて形となり形なりて前後左右を、東西南北これを方という」という一節も、形の由来は意味不明、形ができれば意味が生まれる、そして木村庄之助さんが言うように、すべてが「ずっと昔から」に感じられるということなのだろう。
次回更新予定日 8月17日
