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おすもうさん 高橋秀実
第9回 国技館だから国技
 私は一体、何を知りたいのだろうか?
 力士や親方などから話を聞いていると、ふと疑問が頭をよぎる。相撲がしきたりや決まり事でできていることはわかる。しかし、「なぜ、そうなんですか?」とたずねると、必ず「そういうものですから」と答えが返ってくる。そういうものだからそうしている、ということになると、それ以上問うことがなくなるのである。例えば、呼出の秀男さんが「拍子木」について説明してくれた時も、
 ──その木は何の木ですか?
 と私がたずねると、
 「桜の木です」
 ──なぜ、桜の木なんですか?
 「日本の国技ですから、桜の木でしょ」
 秀男さんはニッコリ笑ってそう答え、続けて「いい答えでしょ? よくわかりませんけど」とつぶやいた。そこで私は何かをたずねようとしたのだが、たずねる内容が思い浮かばず、拍子木以前に相撲の何が知りたいのか自分自身でもわからなくなり、終いには、なぜ私は相撲の取材をしているのか? という原点にまで立ち返ってしまった。
 そもそも私は外国人向けの雑誌に「日本の伝統」として相撲を紹介するために始めたはずである。相撲は日本の国技。伝統を今に伝える国技であることを理解したいのである。

誰が「国技」と言ったのか?

 「親方や力士が『相撲は日本の国技だ』と言ったわけじゃありません」
 ある相撲関係者がさらりと語った。
 ──言ってはいないんですか?
 「自分で言い始めたんじゃないということです」
 ──では、誰が言ったのですか?
 「まわりの人に『国技』と言われただけなんです」
 私は相撲教習所に張り出されていた「力士修業心得」の一節を思い出した。

 第1条 相撲は日本の国技と称されていることを忘れないこと。

 確かに自ら「国技」とは言っていない。あくまで「称されている」だけである。
 では、誰が「国技」だと言ったのだろうか? 歴史書を探ってみると、そのほとんどが、昭和15年発行の『相撲道綜鑑』(彦山光三著、國民體力協會)を参照していた。「相撲は、肇國てうこく以来、日本の國技である」という書き出しで始まる権威ある文献なのだが、そこにはなぜかこう記されていた。

 何ゆゑ、相撲は肇國以来、日本の國技であるか、いかにして、相撲は、肇國以来、日本の國技とせられたか。相撲に関する傳・論・解等の文献は、古来、決して尠少せんしょうとはいへない。しかし、遺憾ながらこの點を闡示せんじしたものは一つもない。

 国技である証拠はどこにもないというのである。それなのに、どうして「相撲は日本の国技」だと言い切れるのだろうか。同書はこう続く。

 この語[「國技」]が、一般的になったのは、明治四十二年「國技館」が新建された當事とうじからである。

 日本ではそれまで「国技」という言葉がほとんど使われていなかったらしいが、明治42年、両国に「國技館」という相撲常設館が建設されてから、相撲は「國技」と呼ばれるようになったというのである。ではなぜ、その相撲常設館に「國技館」という名前が付いたのだろうか。相撲教習所の教科書『相撲の歴史』(竹内誠著、財団法人日本相撲協会)はこのあたりの事情を簡潔に説明している。

 国技館の命名
 一万人余を収容するこの常設館の名称は、当初、板垣退助が主張した尚武館という案もあったが、結局、右の完成案内状に「角力は日本の国技」と江見水蔭が書いたことから、国技館と命名された。

 完成案内状に「国技」と書いてあったから、国技館にしたというのである。建物の完成案内状を見て、そこから名前を決めるというのは本末転倒ではあるまいか。その案内状(「大角力常設館完成−初興行御披露−」)は現在、相撲博物館に展示されている。薄茶けた一枚の紙。その文中には、「事新しく申し上ぐるも如何なれど、抑も角力は日本の國技」と大きな活字で書かれている。「其國技の活字を他よりも大に組ませたるを、尾車が見て國技館と提案、それを常陸山が賛成して」(枡岡智・花坂吉兵衛共著『相撲講本』昭和10年)、國技館という名前が決まったらしい。
 事の経緯を整理すると、まず相撲常設館が建設された。たまたまその完成案内状に「国技」と大きな字で書いてあった。だから「国技館」と名付け、そう名付けたから、相撲は「国技」になったというわけなのである。
 偶然と言うべきか。それともいい加減なのか。先述の相撲関係者も「あくまで先輩に聞いた話ですが」と断った上で、こう明かす。
 「国技館が出来た時、その名前をどう付けようかとみんな悩んだらしいんです。それで偉い先生にお任せしたらしいんですね。そしたら先生が『國技館』って書かれたわけです。それで、国技か、ということになったんです」
 ──それだけのことで国技になったんですか?
 「そうなんです。要するに、看板に『國技館』と書いたから相撲は国技になったんです。その時、国技館という名前じゃなかったら相撲は国技になっていないと思います」
 ──すごい話ですね。
 「ふつうなら通用しないです。国技館って名付けた人もすごいですけど、それで国技になったというのもすごい話です」
 つまり「国技」とはもともと建物の固有名詞で、それがいつの間にか抽象名詞に変わったということである。国歌、国旗、国宝、国史等々、いずれも「国」を冠することで物事は権威を帯びる。相撲の場合は、たまたま建物の名前からそこへ紛れ込んで定着してしまったということなのであった。

「我が國固有の相撲」

 明治42年に完成した國技館は、高さ約30メートル、直径約60メートル。4階まである観客席に半球状の丸屋根を備えた、当時としては画期的なドーム形スタジアムだった。新聞によると、「西班牙スペインの闘牛場を眼前にするが如き」(東京朝日新聞、明治42年6月6日、以下同)という圧倒的存在感を誇る「羅馬ローマ式の大建築物」「東洋第一の大建築」だったらしい。同館の設立委員長を務めていたのは、自由民権運動の指導者で、日本初の政党、愛国公党を結成した板垣退助だった。彼は明治31年に大隈重信と政党内閣を組織し、その2年後に政界を引退。かなりの相撲贔屓で晩年は相撲に力を注いでいた。彼は「國技館設立の趣旨」を次のように語っている。

 國技館の設立は時勢の要求に應じて出来たものである。維新前未だ外国と交通が無かった時は兎も角、今日の如く欧米諸国から貴賓が来るやうになり随て我が國固有の相撲が海外人に見られるやうになつては如何しても常設館が無くては不可いけない。ここに於て古来嘗て其の例の無い常設館を建てることに為ったのである。尚常設館といふのはかり小屋に對する名稱であって假小屋が無くなってから常設館といつては何のことやら解らない。そこで種々協議の末「國技館」と命名することになつたのである。(東京日日新聞、明治42年6月2日)

 欧米人に「我が國固有の相撲」を見せるべく、立派な常設館を建てようと考えたのである。当時、相撲の本場所は両国にある回向院で年2回行われていた。野外でテント張りだったため、大雨が降ると中止になる粗末な「仮小屋」。また明治初年に東京府は裸で町中を歩くのは欧米人からするとみっともないという理由で「裸体禁止令」を出していた。その流れで、相撲も恥ずべきものと条例で禁止してしまおうという意見まで出されたらしい。欧米人に誇れる相撲。板垣はそう考え、まず建物を立派にしようと思い立ったのである。
 國技館での相撲興行は10日間行われ、観客数はのべ9万2497人を記録した。かなりの大盛況だったようで、新聞は次のように伝えている。

 大阪の團體だんたいが六百幾人、京都の連中が百何人、其他東北地方よりも北越地方よりも、続々と押し出したる好角連[相撲好きの意]、初日の景気のなかば以上は此地方の好角連に依って賑はさる、『えろうすなア』といふ者あり、『えれいこんだ』と叫ぶ者あり、あれだこれだと地方訛を其儘の批評詞、四階といはず、三階といはず、二階の上から土間の隅まで、思ひ思ひの言語を交換したる不思議さ、之に依って角力が國技となって、國技館が全國の人を迎へたる証拠歴然、今数年の後には英佛獨露の國語を以て、其反響の世界的となる事も、疑い無き事実なるべし。(東京朝日新聞、明治42年6月6日)

 国技館が出来たことで、相撲が国技になったと記者は熱く伝えている。全国から人が集まっているから「国技」。いずれイギリス、フランス、ドイツ、ロシアからも人が来るに違いないから「国技」。同記事は観客の野次についても、「角力が國技となり、常設館が國技館となると、狂角家もすこぶるハイカラ式のベランメー、やがて英語から獨逸語、遂には『エスペラント』で無くちやア可笑しく無いといふ事になって……」と記している。つまり国技に不可欠なのは外国人。ちょうど饅頭や団子などの菓子が、ケーキなど洋菓子の流入によって「和菓子」と呼ばれるようになったのと同じで、外国人に取り囲まれることで国技は国技たりえるのである。

 横綱の土俵入に、木村庄三郎が素袍に侍烏帽子さむらいえぼうしといふ古式の扮装いでたち、いかにも寛政の昔を見るやうで嬉しい、土俵の上は飽く迄も古雅の日本式でなければいかん、イヤ角力ばかりはこれが固守されるので純日本式の優雅豪壮と、文明的のハイカラ趣味の調和が、誠にいい工合に出来てゐる。新旧両派の特色が、遺憾なく発揮されて、しかの衝突を認めぬのは角力ばかりだ……四十年前に取払ったチョン髷を乗けて、毫も野蛮人扱をされない力士生活は、ある意味に於いての大権勢家である。之をエラク無いと思ふ人は、チョン髷を乗せて歩いて見るさ。(東京日日新聞、明治42年6月6日)

 つまり国技とは過去から受け継がれてきたものではなく、「いかにも」昔風と「文明的のハイカラ趣味」の調和だった。言い換えるなら、ハイカラ趣味で周囲を固めることで日本らしさを際立たせる。行司が現在の烏帽子に直垂ひたたれという「いかにも」風の装束に変えられたのもこの時。外国文化のコントラストで浮き彫りにしようとした固有性なのである。開館二日目の様子については、こう書かれている。

 此の大盛況には驚嘆の聲を放たざるを得ない。玉座には華頂宮、伏見宮若宮 貴賓席には米國前副大統領フエア、バンクス氏も来て居られる。其他外國貴婦人が二割もゐる。此前をもはばからぬ、裸一貫の角力取は豪儀なものだ。世界中にこれ程暢気な商売はありやしない。(東京朝日新聞、明治42年6月7日)

 国技らしく観客も国賓級。しかしここまで国技としてのお膳立てをすると、肝心の相撲取りが「暢気」に見えてきたのである。おそらく相撲取りは以前と同じように相撲を取っていたに違いないが、視線が変わることで、相撲は「国技らしくない」と非難されるようになっていく。例えば、取り組みの様子は次のように描かれている。

 土俵は極めて惰気充溢で、八百長に次ぐ八百長を以てしてゐる。……幕内の力士でも、忌やに力の入らない様な取口をしてゐる。行司もニヤニヤ笑つてゐる。四本柱[勝負検査役のこと]もボンヤリしてゐる……力士が四つになつて、右へ行つたり左へ行つたり、これが本當の八百長ダンスだと笑ふ。(東京朝日新聞、明治42年6月15日)

 同記事には、まるで土俵に「八百屋市場が立つたやうだ」と書かれている。
 そもそも八百長とは相撲から発生した言葉である。幕末から明治初期の頃に、八百屋の長兵衛が相撲に飛び入り参加し、親戚一同が観戦する中で、勝たせてもらったという逸話が基になっている。一種の人情噺ともとれる話で、相撲に八百長は付き物だった。負けそうな相手と対戦する時は仮病で休む。遊び仲間の場合は事前に打ち合わせて勝ち負けを決めておく。こうした意図的な八百長は今も疑惑が取り沙汰されたりするが、当時の八百長は、「必ず前から相談するものではない。お互いに其處そこへ気が行くのである」(東京朝日新聞、明治42年6月12日)とほとんど無意識に行われていたらしい。自然と八百長する境地。まさに阿吽あうんの呼吸で八百長していたのである。あまりの暢気ぶりを新聞記者が問いただすと、ある力士はこう言い訳していた。

 地方稼業[地方巡業のこと]は處變ところかわれば品變わるで面白いものです。少し場所で働いて新聞で賞めらるると夫れが地方で評判になつて旦那は出来る、藝者には持てる、懐中は温かくなる。木石[分からず屋の意]ならぬ身は堪つたものではありませんからツイ稽古を怠けたり休んだりする。其れが重なつて来て東京へ帰る、場所は十日位で始まるから急に稽古を始める、工合が悪いから無理な稽古をするので怪我もする胃腸もこはす、胸や肩に膏薬を貼る薬瓶を提げて医師へ通ふ。是れ皆怠けの証拠です。(東京朝日新聞、明治42年6月4日)

 怠け者だから仕方がない、というのが力士の言い分だった。彼らはお互いそうだったので、土俵に上ってもなかなか立ち合わず、「待った」も異常に長かった。観客はその間を利用して売店で買い物をするほど。「三階の廊下を二回一周して、まだ立ち上がらなかッた」(東京朝日新聞明治42年6月9日)こともあったらしい。勝負の判定も曖昧で、いったん物言いが付くと「三十分若しくは一時間の長い時間を空費する」(東京日日新聞、明治43年6月18日)。そして力士まで議論に参加した。「力士が余りに口が達者で怜悧りこう過ぎ且つ検査役が無能である」(同前)ためにいつまで経っても判定が下せなかったのである。
 口が達者で怠け者。力士たちに対する「国技らしくない」という非難は、やがて「武士らしくない」という言い方へと展開した。例えば、「武人として存在した力士の流を汲んで今日あるの力士又は武人の気骨がなからねばならぬ。少なくとも其俤(おもかげ)を止むる位の事はなければならぬ」(東京日日新聞、明治43年6月21日)という具合に。力士たちに恥ずかしくないのか、と問いただすには装飾的な「国技」としてではなく、彼らの人間性に踏み込む必要があったかのようである。

 相撲は武士道的競技、武士道鼓吹だと云ひますが競技者たる力士に武士道的観念がなくて何處に武士道的競技武士道鼓吹が出来ませう……力士が武士道鼓吹者であるなら昔の武士に習つて恥を知り恥を重ぜねばならぬ。それに何ぞや堂々たる力士が藝娼妓の玩弄物となり又は負け相撲が臆面もなく座敷を廻て贔屓客の前に叩頭百拝する様を見ては恥を重んずる武人のおもかげは見出す事は出来ぬ。恥を知らぬ百姓の成り上がりどもの武士道鼓吹呼ばりは実に片腹痛い次第です。(東京日日新聞、明治43年6月26日)

 彼らは「武士道」と名乗る資格がないと非難された。本人たちは名乗っていないので、こうなるとほとんど言いがかりに近い。
 「国」の次は「道」。江戸時代の国学者、本居宣長によると、もともと大和言葉のミチには道路という意味しかなかったらしい。それが中国から「道徳」「天道」「人道」「道理」などに使われる「道」という漢字を輸入して当てはめることで、「大小にかかはらず万の事業を何の道くれの道といひ、雑芸のたぐひまでしかいふことにはなれるなり」(『石上私淑言』)。つまり雑芸に至るまで、ただやっていることを「つきづきしく(もっともらしく)」あるいは「賢しだちたる教へ(賢こぶった教え)」のようにしてしまったそうである。おそらく「武士道」という言葉も何か具体的なものを指すのではなく、何かについて「武士道ではない」と非難することで、どこかに理想形を保持するためのものなのだ。相撲が「相撲道」などと何やら武士道の一種のように称されるようになったのは、この頃からである。
 やがて日本政府は相撲を軍国主義の象徴として利用するようになる。相撲こそ武士道。なぜなら「力士の稱呼しょうこを以てせることは、昔その属する階級が武士階級であり、又士分として待遇せられたりしことを証明するものである」(藤生安太郎著『相撲道の復活と國策』大日本清風会、昭和13年)などと、「士」が付いていることをもって武士に違いないはずなのに、と指摘されるに至った。それでも国技か。それでも武士か。相撲取りたちは国策の理想保持のための格好の見せ物になっていったのである。
 「本当は国技じゃないと思いますけどね」
 相撲関係者がぽつりと言った。私も力士たちのことを暢気だと思っていた。これは相撲を重々しい「国技」として見るから暢気に見えるにすぎない。当人たちはあくまで、そう言われてきたからその期待に応えようとしてきた。大翔鶴が言っていた「期待に応えて残さず食べる」境地なのである。
 ──国技じゃないとすると、相撲は一体何なのでしょうか?
 「もともとは神事ですからね。競技じゃないし、何なんでしょうね」
 ──……。
 やはり相撲は相撲としか言いようがないのである。
 ちなみに板垣退助は「國技館」の命名について開館直後にこう述べていた。

 國技館なんて云ひにくむづかしい名を附けたのは誠に拙者の不行届きで今更せんなけれど実は式辞の言句中にある武育館とすれば常設館の性質や目的も明判しかつ俚耳りじにも入り易いのに惜しい事をした。(東京朝日新聞、明治42年6月4日)

 実は、「國技館」にしなきゃよかったと後悔していたのである。
 はじめに名前があり、名前が現実をつくり出す。日本最古の歴史書である古事記もこう始まっている。

 名も無くしわざも無ければ、誰か其の形を知らむ。[名前もなく働きもなければ形もわからない]

 名前を付けなければ、何も始まらない。そして「天地初めてあらはれし時に、高天原に成りし神の名は、天之御中主神」という一文で歴史は幕を開ける。よく読めば、最初の神が天之御中主神だった、というのではなく、最初の神に「天之御中主神」という名前を付けたということ。名前を読み下すと「天の御中にいる主神」。天の真ん中の神だから天の真ん中の神ということで、なぜ?という問いを封じている。
 名前を付けて名前に従う。もしかすると伝統とはこの認識のメカニズムのことではないだろうか。あらためて考えてみれば、こうして書いている日本語もすべて物事の名前で、私がそう付けたのではなく「そう使われている」用法に従っているだけである。そう考えると、考えているのも最早私ではないような気さえしてきたのである。

※引用した新聞記事は読みやすいように句読点を加え、一部現代表記に置き換えたところがあります。

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