Web草思
おすもうさん 高橋秀実
第4回 眠気の理由
七五調の世界、掃く人たち

 相撲をじっと見ていると、なぜだかとても眠くなる。はじめは寝不足のせいだと思っていたが、よく寝た後でも眠くなる。部屋での稽古もそうだったが、NHKの相撲中継(衛星第二放送)も午後一時から見始めると、三十分も経たないうちにうとうとしてくる。
 相撲がつまらないというわけではない。こちらとしては熱心に観戦しているつもりなのだが、いつの間にか眠ってしまい、あっと目が覚めるとすでに後半戦になっている。そこで「いよいよだな」などと身構えるのだが、身構えたまま結局寝てしまい、気がつくと全取組が終了している。
 なぜこんなに眠いのだろうか。
 おそらくそれは単調なリズムのせいだろう。
 「楽しみな一番です」
 取組前のアナウンサーの決まり文句である。何が楽しみなのか、とテレビ画面に見入ると前の取組と大差がない。考えてみると、全部「楽しみな一番」なのだから、すべて同じとも言える。力士がぶつかり合うと、例えばこう言う。(花田〔三段目十四枚目〕浜栄光はまえいこう〔三段目十三枚目〕二〇〇五年十一月十九日の中継)
 「浜栄光、下から下から、攻め上げます。いなした浜栄光。花田もひいた。しぶとい花田。またかいなを取った花田。手前が花田。向こう側が浜栄光。前へ出る浜栄光。おっといなした。引き落とし。花田が勝って三勝一敗。破れた浜栄光は二勝二敗です」
 多少の字余りがあるが、基本は俳句と同じく七五調である。「スピーディな展開」などという英語が一切入っていないせいだろうか。いずれにせよ、この調子が繰り返されると内容よりリズムが耳に入ってくる。取組の合間にアナウンサーは、しばしばその日のそれまでの勝敗を振り返る。
 「司海つかさうみが寄り切りで勝っています。増の海ますのうみが寄り切り。赤坂が寄り切りです。森川、寄り切り。安大ノ浪あおのなみが上手出し投げ。喜田きだが寄り切りで勝っています」
 ほとんどが「寄り切り」で、そこにあるのはリズム上欠かせない言い方の微妙な違いだけだった。
 「いやあ、うまかったですね」
 取組が終わると、アナウンサーは感心したような声を出す。「力強かったですね?」「早かったですね」「うまいというか、タイミングがよかったですね。モンゴル出身ですからね」などと言って、解説者席の親方に同意を求める。すると親方は決まってこう答える。
 「うーーん。そうですね」
 親方も力士もほとんどの問いに対し「そうですね」と答える。つまり「すべてNHKの言う通りです」というやりとりなのである。
 眠くなるのはNHKの単調な演出のせいだと考え、私は実際の場所を直接見に出かけることにした。
 大阪府立体育館で座席は升席を取った。パイプの枠で四角く仕切られた席で板の間の上に四人分の座布団が置いてある。本来四人で座る席なのだが、客が少ないのか私ひとりで占領する形となった。
 場所は午前九時から始まる。午前九時から見に来ている人は私を含めて五人ほどで、広い体育館は客より土俵周りの関係者のほうが数が多いようだった。
 序の口の取組から順次見ることになるわけだが、続けて見ているうちに、取組がいつ始まっていつ終わったのかわからなくなってくる。まず扇子を持った「呼出よびだし」が力士の名前を呼び上げる。東と西から力士が土俵に入り、四股を踏んで、相撲を取る。片方が押してもう片方が土俵から出る。決まり手としては「寄り切り」なのだが、相手がこらえるのを無理に寄るから「寄り切り」なのに、まったくこらえる様子ではなく、寄るとそのまま出ていく感じである。終わると礼をして次の力士が土俵に入り、また同じようなことを繰り返す。流れ作業のようにどんどん進み、状況においていかれるような気がしたので、私は取組の結果を切符売り場でもらった「星取表」に逐一記入することにした。しかしこの作業を始めると、こちらのほうが忙しくなる。場内に流れる「ただいまの決まり手は寄り切り。寄り切って安馬あまの勝ち」というアナウンスを聞きながら表に印を付けることに追われてしまい、なんのために見にきたのかわからなくなるのである。
 勝敗はどちらでもよいと私は決め、じっと土俵を見つめた。
 しばらく眺めていると、取組より印象的なのはその周りを掃き掃除している「呼出」の姿だった。彼らはゆったりと箒を左右に振って掃除をする。「楽しみな一番」で緊迫感が張り詰めるはずなのに、その直前まで私の目の前で、私の目線をさえぎるような位置で掃除している。邪魔といえば邪魔なのだが、その悠然とした佇まいに私は思わず目をひかれた。番付が上位になると、掃除をする人数も多くなり、中には土俵の下から箒で掃く人までいて、相撲を見ているというより、掃除を見ているような気がしてきたのである。
 懸賞金の付いた取組は、スポンサー名の入った懸賞旗が土俵の周りを回る。目にも鮮やかな姿なのだが、回りながら各社の宣伝文句がアナウンスされる。「資産安心、三菱の金、千両箱は三菱の金、金といえば三菱の金」「いつもまじめな関彰せきしょう商事」「四人揃えば割引ゴルフ、千葉よみうり」「ブログやるならアメーバブログ」などこれまたすべて七五調。ゆったりした箒の動きと相まってやはり私は眠くなってきた。
 まわりを見渡すと、眠いのは私だけではないことに気づく。夕方になると観客は増えてくるのだが、升席の客は土俵に背を向けてお弁当をひろげており、相撲というより、花見に来ているような様相である。
 土俵を見つめていると、夢かうつつかわからなくなってくる。そうこうするうちに結びの一番が終わり、弓取式ゆみとりしき。しばらく席についたままぼんやりしていると、場内にアナウンスが流れた。
 「これより場内一斉の清掃に入ります」
 これまで土俵を掃除してきたが、これからいよいよ場内を全部掃除する。だから早くお帰り下さい、ということだった。もしかして最初から掃除が目的だったのではないかと私は思い、大阪府立体育館を後にした。すべてが終了するのは午後六時。九時間にもわたって私は一体、何を見たのだろうか。

「……と、されている」世界

 JR総武本線両国駅に降り立つと、目の前に相撲の殿堂「国技館」がそびえている。鉄筋コンクリート三階建てだが、その上には玉虫色の巨大な日本家屋のような屋根が覆いかぶさるように載っており、見ようによってはピラミッドのような造りである。
 切符売り場のある正面入口から入り、国技館の建物脇をずっと奥まで進むと、突き当たりに「相撲教習所」がある。各相撲部屋に入門した力士たちは、まずここに六カ月間通い、相撲の基本を学ぶことになっている。授業は朝七時から十時まで稽古場で実技、そして十一時まで教室で学科(月=相撲史、火=国語、水=社会、木=運動医学、金=修業心得、相撲甚句すもうじんく)。その後、入浴、食事を済ませて正午に解散。部屋の稽古と同じように、午前中のみのスケジュールである。
 早朝六時五十分。
 私は素っ裸で教室に立っていた。相撲は見ているだけでは眠くなる。実際にやってみればさすがに目が覚めるだろうと考えたのである。
 教室には机と椅子が整然と並び、前には黒板、その脇には昭和天皇の『御製ぎょせい』が掛けられている。
 「ひさしくも みざりしすまひ ひとひとと 手をたゝきつゝ みるがたのしき」
 久し振りに相撲を見て楽しんだ、あるいは、たまに見るから相撲は楽しい、という意味だろうか。
 「大丈夫ですか?」
 若い衆のひとりが、バームクーヘンのようにくるくる巻かれた廻しを持って私の前に立っている。何のことを「大丈夫?」と訊かれているのかわからなかったが、私は「大丈夫です」と答えた。
 「廻しは、じかです」
──はい。
 廻しの下に海水パンツを穿こうと用意していたのだが、やはり素肌に締めなければいけない。廻しは使い古されているようで、もともと黒かったものが白っぽくはげている。基本的に洗ってはならないものなので、締めるにあたって多少の躊躇がある。ちなみに女性は廻しに触れてはならないらしい。
 廻しは木綿(「雲斎うんさい木綿」と呼ばれる)で織られており、広げると幅約八〇センチ、長さ約九メートルになる。若い衆はまずこれを四つ折りにして幅を細くする。そして端から肩幅程ずつ左右の手で交互にとってゆき、指の間にはさみながらアコーディオンのように畳む。その先端を私は受け取り、廻しを跨いでくるりと回り、お尻を若い衆に向ける。そして後ろ手に廻しを引き上げて股間にぴたりと当てる。陰部に当てるので痛みを感じるかと思ったのだが、むしろふわっと温かみを覚えた。こうして廻しを固定させ、私はその場でぐるぐると回る。二重目で前に出た部分を中に折り込んで、回り続ける。若い衆が廻しを順次送り出してくれるので、それを腰に巻き付けていくのである。最後に若い衆が後ろでググッと締め上げて結べば完成だ。
 巻かれた廻しは厚さ四センチほど。その重厚感に体が負けているようで、「締まる」というより「巻かれた」という印象が強い。やるぞ、という気合いより、後戻りができない緊迫感である。
 「廻しはひとりでは締められません。必ずこうやってふたりで『締めっこ』します。これを『廻しを申し合いする』と言います」
 教習所指導委員の大山親方(元前頭二枚目、大飛だいひ)が解説した。優しい口調だが、近くに寄ると、寄り切られそうな威圧感がある。教習所には四人の親方が指導委員として参加している。竹の棒片手に「何やってんだお前は!」と厳しい口調の親方たちも、さっき若い衆を相手にぐるぐると回っていた。
──これも“申し合い”なんですか?
 私はたずねた。稽古のひとつにも「申し合い」というものがある。勝った力士のまわりに力士たちが群がり、その中からひとりが選ばれて相撲するという形式だ。
──相撲は申し合い、がよくありますね。
 「うん、そうかもしれない」
 うなずく大山親方。
──そもそも「申し合い」って何ですか?
 「相撲の世界には、書(しょ)というものが一切ないんです」
 親方が私を見つめた。
──書いた物がない、ということですか?
 「そうです。すべて口伝、言い伝えです。土俵で塩をまく、四股を踏む、口を水ですすぐ、こういう基本的なことも、どこにも書いてありません。書いてあるとしても『そういうふうにいわれている』としか書いてない。だから、『申し合い』も『申し合いといわれている』としか言いようがない」
 相撲は、すべて「……と、されている」世界なのである。教室に掲げられている「力士修業心得」にもこう記してある。

 第一条 相撲は日本の国技と称されていることを忘れないこと。

 国技であることを忘れない、ではなく、そう言われていることを忘れてはならない、ということである。ちなみに「力士修業心得」にはこうも記されている。

 第三条 社会人として目立つ力士は、財団法人日本相撲協会会員であるという誇りを持って行動すること。

 力士は目立つから誇りを持つべき。まわりの視線からすべきことが確定されるのだ。
──しかし、伝統を維持するには、書き物があったほうが守りやすいんじゃないですか?
 「でも、ない」
──なぜなんでしょうか?
 「当たり前のことだから、書く必要がなかったんでしょう」
 親方はきっぱりと言った。
──当たり前だから、ですか?
 「当たり前のことは書いてもしようがないでしょう。物事は、わからないから説明が必要になるんです。当たり前だったら、説明は要らないでしょう。例えば、四股は右からです。行司も軍配を右手で持っている。これを『なんで右?』と訊く人はいません。いるはずないんです」
──なぜ、いるはずないんですか?
 「そうに決まっているからです」
 「……と、されている」からそうする。正確には「……と、されている」からそうするとされている。つまり、最初から「されている」ことについて書こうとすると、限りなく「されている」が続く。そう考えると合理的思考は停止し、おそらくそれが眠気の理由であることに私は気づいたのである。

※ 力士の番付は取材時のものです。

読んだ感想を送る
草思社