大食らいの秘密
正午が近づくと、相撲部屋にはちゃんこの匂いが立ち込める。ちゃんこ当番の若い衆が、稽古の途中で静かに台所に向かい準備を始めるのである。力士たちは稽古を終えると、番付が上の者から順番に風呂に入り、浴衣姿になって床山に
「よろしければ、ご一緒にどうですか」
「一般の人は“ちゃんこ”と聞くと鍋のことだと思っていますが、違うんです。鍋に限らず、相撲部屋で食べる食事はすべて“ちゃんこ”と呼びます。カレーライスでも“ちゃんこ”なんです」
どんぶり飯を片手に大翔鶴が解説した。彼らは昼にちゃんこを食べ、その後三時間ほど昼寝をする。そしておもむろに起き出して部屋の掃除などを済ませ、七時頃に再びちゃんこ。昼のちゃんこは鍋中心だが、夜のちゃんこはカレーライスになることが多いという。
──つまり、食事のことを「ちゃんこ」と呼ぶわけですね。
「そうです。“ちゃんこ”という名前の由来にはいろんな説があります。中国語で鍋のことを“チャンゴー”という説と、“ちゃん”は父で“こ”は子、親子で食べるという説です」
かく言う大翔鶴は夜のちゃんこの後に、コンビニ弁当三個とレジの隣にある揚げ物などを毎晩食べるらしいが、それらは「ちゃんこ」と呼ばずに「コンビニ弁当」と呼ぶらしい。
ともあれ、彼らにとって食べることは稽古のひとつだ。ちゃんこの度にどんぶり五〜六杯を平らげ、その後昼寝をして体を太らせるのである。
「自分たちはずーっと、食べ続けられるんです。持久力があるんでしょうね」
自身のことながら不思議そうに
──ずーっと、ですか?
「はい、いつまででも。大食い選手権のような早食いはできませんけど」
先日、焼肉屋に出かけた折も、十人でご飯六升、焼肉百五〇人前を食べたそうである。なぜそんなに「ずーっと」食べられるのか? と首を傾げると、兄弟子の
「食べているうちに、さすがに喉元まで食べた物がきます。そしたら、どこか一点を見つめるんです」
──
「例えば、そこにあるペットボトルのキャップとか。じっと見つめていれば、大丈夫です」
大翔馬が風船のような体をのけぞらせ、後ろ手に板の間をおさえながら目線を定めた。確かにそうすると姿勢が固定される。この状態で消化されるのを待つということか。
「この前、こうやってじっとしていたら、後援会の人がやってきて、寿司を一桶差し入れてくれました。もちろん断るわけにはいかないので、ちゃんと食べました。ところが、その後トイレに行きたくなって、思わず立ち上がっちゃったんです」
──目線がずれたんですね。
「そうです。そのままドアまで歩いていったんですが、そこで噴水のようにゲロを吐きました。その勢いでドアが開きました」
まるで胃圧ポンプである。
──よくそこまで食べられますね。
私が感心すると、講釈好きの大翔鶴が隣ではにかんだ。
「たとえ腹いっぱいになっても、そこから自分らは食べられるんです。一般の人と違って」
──どこが違うんですか?
「ちょっとでも圧があれば食えるんです」
──圧?
「例えば、その場に親方や後援会の人とかいれば食えます」
つまり、「食べなくてはいけない」という圧迫感である。
「自分たちは外で食べる機会も多いんです。すると、どの店でも『おすもうさんだから食べる』ということで、頼んでもいないのに必ず大盛りにしてくれます。おすもうさんのイメージで大増量してくれるんです。相撲取りとして期待するんですね。そうしたら期待に応えたいじゃないですか。それに残したら失礼じゃないですか。そういうことをずーっとしているうちに、無理がきくようになってくるんですよ」
ちなみにすでに引退した親方でさえ、後援者に呼ばれると「食いたいか?」といまだに言われ、そう言われると「はい、食いたいです」と答えるしかなく、その結果体重が維持されている。付き合いを大切にすると、一日七食になることもあるらしい。彼らは自分の意志で太るのではなく、人々の期待に応えているうちに、肥大化していくのである。
「自分たちはビルみたいなものですから」
大翔鶴が続けた。
──ビル?
「そうです。町を歩いていると『あっ、これ』とか言って目の前で指差されますから」
──「これ」、ですか?
「そうです。まるで建物でしょ」
近づいてじろじろ見られるのは当たり前。中にはいきなり体を叩く人もいるし、「モンゴルに負けたらいかん!」と怒られることもある。勝手に写真を撮られた後、「朝青龍?」などと訊かれ、「違います」と答えると、「じゃ、武蔵丸?」と言われたこともある。確かに私も電車などで相撲取りを見かけると、思わず見つめてしまう。誰なのかというより、相撲取りであることをしげしげと確認したくなるのである。
──腹が立ちませんか?
大翔鶴にたずねると、彼は苦笑して答えた。
「別に立ちません」
──なんで?
「なんでって、自分たちはおすもうさんですから」
きっと彼らは相撲取りとして見られることで、相撲取りになっていくのである。
相撲の起源
ここで相撲の起源について考えてみたい。果たして相撲はいつ頃始まったのだろうか。(財)日本相撲協会相撲教習所の教科書『相撲の歴史』(竹内誠著、平成五年)によると、それは神代にまで遡るらしい。同書にはこうある。
『古事記』によれば、
この神話は、重要なことを決めるにあたり、相撲を取ることによって神の意志がどちらにあるかを知ろうとしたこと、つまり相撲の起こりは神事にあり、神占いと深い関係があったことを物語っている。
いわゆる「出雲の国譲り」の神話がその起源を伝えているというのである。相撲の勝敗で神の意志を占う。いわば宗教儀礼に思えるが、実際に『古事記』を読んでみると、話はそれほど単純ではなかった。
そもそも『古事記』に登場する神々には、あまり意志がないのである。「序」からして、こう始まっている。
訳すと、混沌とした天地万物の根元はすでに凝り固まっていたが、万物の形は、まだはっきりと現れない。名前もないし、働きもない。こういう状態で誰がその形を知りえようか、ということ。『古事記』はこのような、なんだかわからない状態の中に神が次々と生まれ、わからないゆえに神々が「
「出雲の国譲り」の節も、まず天照大御神が出雲の国を平定すべく、他の神々にこう問う。
「何れの神を使はさば、
そして話し合いの結果、
「
天照大御神は再び問うて、神々はまた話し合う。そして今度は建御雷神が選ばれる。彼は大国主神に直接会って、「汝が心は、
これが「出雲の国譲り」のあらすじである。読めばわかるが、『相撲の歴史』に書かれていたように「相撲を取ることによって神の意志がどちらにあるかを知ろうとした」のではなく、どの神も意志がはっきりせず、一向に
「本番前は、こわくて仕度部屋でえずくんですよ。みんなそうだし、自分もそうでした」
「えずく」とは吐き気をもよおすこと。力士たちは土俵に上がる前に恐怖と緊張のあまり、みんな「うえっ」と吐くのである。本能で闘うというより、本能に逆らって闘わされているというべきであろう。
『相撲の歴史』(前出)には、もうひとつの相撲の起源として、『日本書紀』にある
二人
ふたりは蹴り合いになり、野見宿禰が当麻蹶速のあばら骨を折った上、腰まで踏み砕いて殺した。キックの応酬による闘いぶりは「すもう」というよりむしろ空手のようで、彼らもまた天皇の命令によって、死ぬまで闘わされたのであった。
とは言え、これらの記述に「相撲」という言葉はまだ使われていない。実際に「相撲」という言葉が初めて登場するのは、『日本書紀』の雄略天皇の巻である。『相撲の歴史』には一切触れられていないが、素直に読めば、これが日本の記録における最初の「相撲」ということになる。
雄略天皇は「誤りて人を殺したまうこと
天皇は真根の前に、采女(宮仕えをする女性)を集め、服を脱がし、ふんどしをつけさせ、よく見える所で「相撲」をとらせたというのである。真根は手を止め、それに見とれたまま木を削った。そして思わず誤って刃を傷つけてしまった。それ見たことか、と言わんばかりに天皇はその場で彼を死刑に処することに決めたのだった。
無茶苦茶な話である。真根のミスを誘うという、たったそれだけの目的で雄略天皇は女性たちに裸で相撲を取らせたのである。美女を見るとすぐに妃にした雄略天皇らしい行為だが、これが日本で記録上最初に「相撲」を取らされた記録である。今日、大相撲の土俵は女人禁制だが、始まりは女性だった。取る人の闘争本能ではなく、見る側の「思わず見てしまう」という目線こそ「相撲」の原点なのである。
自然なすもう
「おかわり、いかがですか?」
どんぶりのご飯が減ってくると、
「ご飯をよそう時、一回でよそってはいけないんです。必ず二回でよそわないといけないんです」
何やら意味ありげである。
──なぜですか?
「仏壇にご飯をお供えする時は、一回でよそいますよね。それとは違うということなんです」
──仏様ではないから、二回でよそうんですか……。
「そういうことにしてるんです」
──そういうことに?
「はい」
──親方などにそう教えられたんですか?
「いいえ」
──じゃあ誰に教わったんですか?
「いや、自分が考えたんです」
──追風藤さん自身が、ですか?
「そうです」
──なんで、そんなことを考えたんですか?
「みんなに訊かれるからです。なんでそうするんですか? と。とにかく、いろいろ訊かれるんですよ。仏壇は一回だから、ここでは二回。そう言えば、大抵は納得してもらえるんです」
追風藤はぎょろりとした目で私を見つめながら、そう言った。
見られるから相撲を取る。訊かれるから意味をつくり出す。負け越しが続いても超然としている追風藤と話すうち、それが千五百年もの長きにわたって日本人に脈々と伝えられた物事の自然なあり方ではないかと思えてきた。
「相撲には、自分たちも意味がよくわからないことがたくさんあるんですよ」
大翔鶴がそう言って笑った。例えば、彼らはまわしを洗うことを禁じられている。不潔なのはわかっているが、なぜか洗ってはいけないことになっているのだ。
──理由はないんですか?
「おそらく、ないと思います。でも、そういうことって必要だと思うんです」
──意味よりも?
「だってそういうことがないと、統制がとれないじゃないですか。たとえ意味がなくても、団体生活にはルールが必要ですから」
意味はその内容より、機能が大切なのであった。
※ 力士の番付は取材時のものです。
※著者取材中のため、しばらく休載とさせていただきます
