Web草思
駅前の空はだれのものか 小林信也
第9回 法令を盾に建て、心に訴えて売る
 武蔵野市役所で行われた、『紛争調整』のあっせん会議は、思い出すのも空しいほど、空虚な会話に終始した。
 あっせんの直前、まちづくり推進課を訪ねて確認すると、その前日、予定どおり『宅地開発等審査会』が実施され、事業主が提出した『事業計画承認審査願書』に基づく審査が、何のてらいもなく行われたという。結論は曖昧にしか教えられなかったが、まだ承認には至らず、「条件付き」だという説明だった。事業主と『三鷹北口超高層マンションを考える市民の会』との調整を図るあっせんの前日に、承認審査を平気で行う神経が市民感覚ではよくわからなかった。

「法令上はもっと高い物が建てられる」

 あっせんの席で、考える会は「ビルの高さを周辺の建物と同程度に見直して欲しい」と要望した。対して事業主側は、「法令上、本当はもっと高い建物が建てられる。武蔵野らしさに配慮して我々は103メートルに高さを抑えたのだ」、説明会で何度も繰り返している主張をここでも押し通した。
 テーブルに着いたのは、それぞれ5人。考える会は、河原雅子代表のほか、この問題をきっかけに知り合った有志が、それぞれ用意してきた質問をぶつけた。最後に、5人のひとりに推されて出席したぼくが切り出した。
 「伊藤さんは、個人的にお酒を飲みながら話をする機会が持てれば、楽しい会話ができる方だと思うのですが」
 紛争の席でそのような発言は無意味で不謹慎だったのかもしれない。伊藤副部長は、いつになく仏頂面で目を伏せたまま、
 (心情に訴える作戦には乗らない)
 とばかりに目を背け、表情を固く閉ざし続けていた。
 この建築計画の説明会が始まった当初は、説明会のあと、一対一で言葉を交わせば子どものように表情を崩して気さくに本音を語ってくれた伊藤副部長と、本当に同じ人だろうかと訝しくさえ思われた。あっせんの席に着いた彼の周りには、いつもとは異質の、固いバリアが張り巡らされていた。仕方なく、手元の資料の一つを取りだして質問をした。
 ぼくの質問を聞き終えた伊藤氏は、これまで見せたことのなかった、暗くうんざりした表情をまず露わにして、こう答えた。答えたといっても、質問に対する回答ではまったくなかった。
 「小林さんはいつもそうやって、最初は人を持ち上げて、次に落とす。いろいろ資料を持ち出して、アンケートにしても、やり方がフェアじゃない」
 そんな非難を仕掛けてきた。思えば、ぼくが席に着いてまもなく、カバンから資料の束を取りだして机に置いたとき、伊藤副部長がそれを見てやけに不愉快そうな顔をしたのが思い出された。
 ライターという輩は、過去の資料をほじくり返して悪意のある質問を仕掛けてくる連中だ。……伊藤副部長の言葉には、それこそ悪意に満ちた決めつけが感じられた。
 やり方がフェアじゃないという言葉だったかどうかは定かではない。その日は録音を禁じられ、自分の会話はメモする状況ではなかったからだ。
 「申し訳ありませんが、アンケート調査の結果を発見したのは河原さんのご主人です」
 彼の誤りを正した。まちづくり条例の策定委員に任命されていた事実を指摘したのは僕だ。そのことで、伊藤副部長は委員を辞任。それは新聞各紙にも取り上げられ、大きな怒りが市民の間に湧き上がった。その苛立ちもあるのだろうか。
 〈質の悪いライターが、今日もまた新しいネタで自分たちに因縁をつけようとしている。
 それには一切応じない、力で蹴散らす〉
 そう言わんばかりの濁った目つきで伊藤副部長が言ったのだ。
 ガッカリして、そして腹が立って、ぼくは伊藤副部長に強い調子で言った。
 「最初は持ち上げて次に落とすだなんて。そんな見え透いたやり方で取材してコメントを引き出そうなんて、あざといやり方で生きている書き手ではありません。私は本気で、伊藤さんとなら腹を割った会話ができると感じたから、言ったのです。相手の言動をそう感じるのは、普段、伊藤さんがそういうやり方を使っておられるからじゃないんですか?」
 「あなたは、中立な立場で文章を書いていないじゃありませんか」
 伊藤副部長から反論があった。
 「この計画に憤りを感じたから取材を始めた。それは最初にはっきり申し上げたはずです。でもぼくは取材者として、それぞれの立場の方にきちんと話を聞いて、それを発信しますと約束しました。取材の日時を指定してくださったのに、その日になってキャンセルしたのは伊藤さんです」、思わず感情的に反論した。「取材をご自分がキャンセルしておいて、中立じゃないって、それこそ言いがかりじゃないですか。ぼくはそんな中途半端な姿勢で文章を書いていません」
 すると、市役所の担当者が割って入った。「話が少し個人的な方向に行っていますので……」

売る時は、心の豊かさに強く訴える

 話は前後するが、伊藤副部長との不毛な会話のきっかけになったこちらの質問というのは、野村不動産の企業倫理、事業の姿勢を問うものだった。
 野村不動産は、三鷹駅のみっつ隣りの中央線・武蔵小金井駅前(南口)にも、25階建てのタワーマンション建設を進めている。こちらはパンフレットも出来上がり、事前の営業が始まっている。野村不動産の新築マンションを見学に行ってアンケートに住所を書いた経験があるぼくの自宅にも、そのパンフレットが郵送されてきた。
 パンフレットには、当然といえば当然だが、武蔵小金井がいかに自然に恵まれ、緑が多い住環境で、心豊かな生活ができるかが前面に打ち出されていた。パンフレットの中核をなす写真のほとんどは、自然豊かな風景写真。小金井公園の満開の桜、気持ちのいい青空、街並みを彩る豊かな緑……。
 「野村不動産は、マンションを建てるときには法令を盾にし、周辺住民の豊かな住環境の破壊には配慮しない。なのに、マンションを売る時は、心の豊かさだとか、住環境の良さを売り物にして、買う人の心に訴えるんですね。いかに心や豊かさが大切か、住む人がそれを重視しているかは当然わかっておられる。ところが、周辺の住民がそれをこれだけ訴えても一切応じない。企業倫理とか、企業の社会的責任をどうお考えですか」
 すると、この質問には答えずに、伊藤副部長は苦々しい表情で、非難をこちらに向けてきたのだ。
 伊藤副部長にはプロ意識があり、それなりの自負と真心をもって仕事をしていると思ったからこそ、ぼくは企業倫理を問うたのだが、それは甘い考えだった。彼らは骨の髄まで収益優先の大企業の歯車でしかなかった……。いくら彼らが、そのビルは「武蔵野らしい配慮が行き届いている」と、プロのレベルを強調しても、「南棟の1、2階がスーパーマーケット、3、4階がスポーツジム、5階が医療モール、その上は全部住宅マンション。来北棟は1階を除いて、31階まで住宅。しかも、かなりの部屋が30平米程度のワンルーム」という基本コンセプトからして、「武蔵野らしい」とは到底感じられなかった。
 一時間の予定が二時間に及んだあっせんの会議は、さしたる成果も感じられないまま閉会を迎えた。手応えがあったとすれば、武蔵野市がつい一年前にまとめたアンケート調査で、良好な街並みのイメージはという問いに対して、「超高層ビルが存在する近代的な街並み」と答えた武蔵野市民がわずか0.4%しかいなかった事実を、たぶんその日初めて目にして、伊藤副部長が素直に驚きを隠さなかった。その一点くらいだろうか。
 会の終わりに、市役所の建築指導課の担当者が、双方にあっせんを続ける意志があるかないかを訊ねた。
 考える市民の会の河原雅子代表は、
 「もちろん、続けることを希望します」
 と答えた。一方、事業主側は、
 「高さに関しては変更する考えは一切ありませんので、もし高さの変更についての議論であれば、これ以上、あっせんを続ける意志はありません」
 と答えた。あっせんがそれで打ち切られることがほぼ確定したと、考える会の面々は覚悟した。誰もが、重い足取りで会議室を出た。事業主側は、「きちんとあっせんにも応じたぞ」という証拠づくりのために、二時間の義務を果たしただけなのではないか。歩み寄ろうとか、譲歩する姿勢は一切なかった。
 あとで、河原さんからこう教えられた。
 「事業主はあの後、総合設計制度の審査願を市役所に提出したそうです。ほんとに頭に来ますよね。野村不動産は、私たちとのあっせんのために市役所に来たんじゃなくて、総合設計の書類を出すのが目的で来た、あっせんはついでみたいじゃないですか」
 市役所から駅前まで、ぼんやりと歩いて帰った。胸にぽっかり、穴が空いた感じだった。
 それでもまだ、伊藤さんに手紙を書こうかと、考えている自分がいた。話せばきっとわかる人だ……、割り切れない思いがまだくすぶっていた。しかし、所詮それも、こちらの下心あっての行動だと理解されるなら意味がない、と悟った。説明会のあと、しきりに人懐っこい眼差しで近づいてきて、本音に近い会話をしてくれたのも、
 (伊藤副部長がぼくを懐柔するための手だてにすぎなかったのか……?)
 そう思うと、ますます空しさがつのった。

新聞で知らされた方針転換

 翌朝、読売新聞の武蔵野版に、あっせんの結果が報じられていた。
 『住民、業者の主張平行線』と見出しがあり、自分が体験したとおりの内容が記事に書かれていた。だが、読み進めるうち、「えっ?」と驚く記述に出くわした。
 《双方が、話し合いの継続を求めた》
 はっきりと書かれているのだ。野村不動産側はあっせんの打ち切りを求めたはずだ。それがどうして「双方が継続を」なのか。確かめると、野村不動産は読売新聞の取材にそう回答し、市役所も認めたという。
 継続は歓迎だが、公式の会で述べられた発言を覆す内容が、考える会に謝罪や報告もないまま新聞辞令で知らされるのは、あまりに失礼ではないか。なんだか、市と事業主とでいろいろシナリオを書いているようで不愉快だった。
 二度目のあっせんでは、事業主は少しでも譲歩する姿勢を見せるのか。それとも、一度ではまだ充分なガス抜きにならなかったから、「もう一度だけうるさい市民につき合って、誠意を見せた格好をしてください」、そんな会話があったのか。
 数日後、「二度目のあっせんが6月14日、陳情に対する建設委員会の討議が6月20日に決まったと市役所から連絡が来ました」、河原さんが電話をくれた。
 いよいよ、〈下手をすればその瞬間に前途を断たれる最終局面〉に突入する。高校野球でいえば6点差で迎えた7回裏、1点でも相手が取ればその場でコールド負けが決まる。あるいは、7点差でこちらが1点でも挙げないとやはり試合終了……。後のない、追いつめられた現状を目前に感じた。

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