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オタクとは何か? What is OTAKU? 大泉実成
第15回 学校図書館という場
 このところ、一つの小説について考えている。Gさんが書いた作品のサイド・ストーリーとして、僕の中で目覚めつつある『地球最後の図書委員』という小説である。
 なんのひねりもなくて恐縮だが、タイトルどおり、主人公は女子高生で図書委員、当然のように図書室を巣としている。設定として彼女はアンドロイドでも宇宙人でもクローン人間でも何でもいいのだが、まったく先入観のない目で地球人を調べるという命令を負っており、したがって地球人的な常識に汚されていない。キャラ設定としては当然僕の好みからいって、無口、冷静、無表情という「綾波-長門」ラインとなる。このあたり、実にステロタイプ。
 彼女の目に、この図書館にやってくるオタクがどう映るのか。僕の興味はもっぱらこの一点に向かっている。
 むろん、どのような認識主体も完全な白紙ということはありえない。したがって彼女の価値判断は、おおむね、彼女の命令者である地球外存在者の認識枠にゆだねられている。その深遠はSF的蘊奥の果てにあるので、それがどういった枠組みであるのかは、もちろん僕には想像もつかない。
 転校してきてから、彼女はその高度な調査能力によって全校生徒の行動パターンを把握し、そこにオタクと呼ばれる一群の生徒が存在することを認識する。そこで彼女が見たもの。それは、たとえば……。
 彼女は何を見ることになるのだろう。
 その答えを知るため、つまり、高校におけるオタクの具体的な行動を知るために、ネットや紙の資料を漁ってみた。

オタクと非オタクと階層差別

 たとえば、それは眉である。
 高校図書館司書の相崎晶子は、図書館に集まるオタクタイプの女生徒たちが、化粧にはあまり興味を持たないと報告している。同世代の女生徒たちが眉の手入れに神経を使っているのに対して、彼女たちは眉に手を入れようとしない。ところが、

これは図書館に集うオタク系の中でも一部の女生徒だけですが、ピアスだけはあける、ということ。彼女たちは、眉に手を入れたりはしていないのに、ピアスだけはあけます。そして、つけるピアスは派手と言うか、なんというか、小さな星がじゃらじゃら付いている、ピアスの存在感が非常に強いものです。そして、ピアスをあけた子は、ピアス穴を開けていない子より優位に立っていると信じているところが微笑ましいところです。
(「高校の図書館から見たオタク」『まぐま』15号)

 この記述から、オタク系生徒の中でも優位劣位といった階層性が意識されていることがわかる。
 相崎のこのテクストは、図書館に集う生徒たちの具体的な行動から、このような階層性を読み取ることに重点が置かれている。一つはオタクと非オタクの間の階層性、そしてもう一つはオタク内での階層性である。
 オタクと非オタクの境界が分かりにくくなっている、というのはこの連載の何度も主張することであるし、最近僕はそんなものは元々ないのではないかと思っているのだが、相崎はそのあわいをこのように観察する。

中高生がメインターゲットだと言っているライトノベルですが、実際のところ、現役高校生のうち非オタクの生徒は手を出しません。理由は「表紙がきもい。こういったものは中坊で卒業っしょ」とのこと。高校の偏差値レベルにかかわらず、「高校の図書館には入れるな、オタク臭くなる」とまで言ってくる子も結構います。(中略)そんなライトノベルに手を出さない高校生が手を出す本は、普通の文芸書の形をとっているもの。乙一なんぞ、スニーカーで出しているのは嫌だが、幻冬舎で出しているものなら良い、といいます。同じ話でも、表紙によって彼らにとっての価値は変わるようです。「これと、これは同じ作者だよ」と言っても、アニメ絵表紙のライトノベル形式を取っている方には手を出さず、ライトノベルの態を取っている方を読んでいる人々は「オタクできもい、死ねばいい」とまで言います。
(同前)

 思わず苦笑せざるをえないようなくだらないレベルの差別。しかし差別感情は激烈だ。そして僕自身、オタク系の取材をする前はアニメ絵表紙のライトノベルを読まなかったことを思い出す。僕が読まなかったのは全く興味がなかったからだが、同じ作者の本を読んでいながら「死ねばいい」というセリフが飛び出すあたりが、日常的、かつ悪質にあぶないようである。なにはばかるところもないこうした感情は、いったいどこに帰着するのであろうか。同じ旧約聖書を聖典の一部としながら、それぞれが激烈に対立しあい殺しあってきた、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の歴史などが頭をよぎる。
 いずれにせよ、多分に近親憎悪的な側面が見られるが、ここでは非オタクのオタクに対する激しい階層差別があらわれている。この他にも、

非オタクな生徒たちは、「ジャンプ」「マガジン」辺りまでは、一般書であるが、それ以外のマンガはすべて「オタクマンガ」で、せいぜい中学まで読むものとしていて、高校生になっても読む人間は「オタク(自分より下位のもの)」として認定されてもおかしくない、と思っています。

オタク系の生徒のクラス内での扱われ方ですが、基本的に存在が無視されています。

社会が吹聴する社会の階層的発想には敏感で、全体数が少ないために、世間的にまだ地位の低いオタク系は、何かことがあった際には使い走りなどの最下層に追いやられます。
(同前)

 などなど、枚挙に暇がない。
 中高生時代にそもそもオタクという概念がなかったという点で、オタク第一世代はいわばプレオタクでもある。その目にはこのオタクの被差別のありさまは新鮮であり、同時に、そこからしか現れえない表現や作品を期待する心がうごく。いっそ、あらゆる非オタクを嘲罵し、陵辱し、殺戮し、殲滅し、そして簒奪の限りを尽くすような作品が現れないものか、などと思う。あるいは僕に目と耳がないだけで、それはすでにこの世に出現しているのかもしれないが。

非オタク、濃いオタク、ぬるいオタク

 それでは、オタク内での階層性はどうか。相崎によれば、図書館に集まるのは比較的「ぬるいオタク系」で、マンガやアニメやゲームの消費者でしかない。作品も一人の作家を深く追いかけるのではなく、「売れ線の作品読み」であるという。それに対応するのが「濃いオタク系」だが、この人たちは学校の本を借りることは少なく、読みたい本は自分で買うことが多い。また、ぬるいオタク系が行動範囲が狭く、高校生になってもほとんど市内から出ないのに対して、濃いオタク系は積極的にイベントなどにも出向いていく。

濃いオタク系の生徒は、学外に友人がいるためか、学校内では非オタクのグループに溶け込み、外見もいかにも今時の高校生として整えており、上手に学生生活を送っています。濃い系のオタクちゃんたちは、図書館に集うぬるめのオタクちゃんたちに対して、「ああいうオタク臭いのがいるから、嫌なんだよね」というようなことをよく呟きます。「パフ」や「アニメージュ」などを手にとって、自分たちも「SEEDが…」とか言っているのに、「こんなオタ臭いのは置くな」と言ってきます。(中略)たとえば、「こんなマンガを読んでるやつは、キモ」とか言っているくせに、自分が同じモノ(「テニスの王子様」などのマンガ)を読むと、「自分はオタクじゃないが、あいつはオタクだからキモい」と平気で言います。そして、その矛盾を指摘しても「だって、あいつらキモいじゃん」で済まそうとします。
(同前)

 ここに、オタクと非オタクの間で行われていたのとほぼ同型の階層差別があらわれている。つまり、非オタク、濃いオタク、ぬるいオタクの三者は、成長過程でマンガ、アニメ、ゲーム、ライトノベルといったほぼ同じ文化によって養われているにもかかわらず、ここで互いに激しく距離をとろうとするのだ。それは個人の個性化への希求でもあろうし、前節で述べられている「社会が吹聴する社会の階層的発想」にそそのかされているということもあるだろう。
 社会の階層的な発想の多くはメディアを通じてもたらされる。性犯罪とオタクが関連付けられて報道されればこうした差別行動は激しくなるだろうし、オタクが好意的に報道されたり、自民党の総裁候補が自らオタクに呼びかけるようになった昨今では、その垣根はいささか緩むことになるであろう。むろん風向きが変われば、この風潮はいかようにも転がるから、年季の入ったオタクはあまり楽観視していない。
 彼らの差別行動を激化させるもう一つの起因は近親憎悪であり、相崎の観察の中心もそこにある。たとえばエロゲーをやるオタクとやらないオタクの間の反目や差別化は僕自身何度も見ているし、萌えについては第一世代オタクと第二世代オタクがしばしば激しい論争を起こす。だが、これらがオタクの好みや、世代、支持する作品の違いなどによって生じているのに対して、相崎が報告しているのは同じ作品を支持する同じ世代どうしの差別である。
 「ぬるいオタク系」と「濃いオタク系」の階層差別として報告されている、オタク内での近親憎悪の原型として、この連載で竹熊健太郎の述べた「オタク密教徒」と「オタク顕教徒」の間の階層差別があると思う。ここで「濃いオタク系」に対応するのが「オタク密教徒」、「ぬるいオタク系」に対応するのが「オタク顕教徒」である。この二つは完全には重なり合わないが、多くの共通点を持つ。
 たとえば、オタク密教徒は適応力が過剰なのでしばしば非オタクに偽装するし、ぬるいオタクがミーハーにしか見えないため同じオタクとして括られることに我慢がならず、激烈なオタク内差別を行う。これは相崎が観察する濃いオタク系とほぼ同じ行動である。相崎の目から見ればそれはあまりに子供じみた行動にしか見えないのだが、本人たちは必死だというのがこうした近親憎悪にありがちな構図である。
 それでは「ぬるいオタク系」はただ差別されているだけかというとそうではなく、彼らの差別は非オタクへ向かう。

自分たちの嗜好が理解できない奴等は「恋愛バカ」「お洒落にしか興味がないバカ」だと思っています。故に、ぬるい目で見守っている大人に対しては、大きな声で自分の趣味を主張することが多いのですが、クラスメイトに対しては、「お互い文化が違う」ということはわかっているので、積極的に交流を持とうという気はありません。
(同前)

 つまり、パンピー系(非オタク)は無視するわけである。ここで、いわば三すくみのような、三者三様の差別のあり方が提示される。
 僕自身はオタクと非オタクのボーダーにいて、オタク的になるときもせいぜい「ぬるいオタク系」「オタク顕教徒」に過ぎないので、常に濃いオタクからは差別される側になる。何か自分の知らないオタク用語で揶揄されるということが良く起こるわけだが、差別される側というのは意味はよく分からなくても差別されていることを機敏に察知するものである。そんなわけで時々切れたりすることになる。だが、もともと人間というのは差別が大好きな生き物で、僕自身非オタク的な位相に立つ時はオタク全体を見下しているはずだから、一方的に切れたりしてはならないのである。無論、どうしても切れちゃうときはしょうがないんであるが。
 かつて特殊漫画家の根本敬は自殺したマンガ家の山田花子を評して次のように述べたことがある。

人間の心の粒子は常に、「差別」と「保身」の間で揺らいでいるもんだが、その極めて微妙な変化を見てとる能力を絶望と同時に徐々に開眼し、いつしかそうした殊勝(?)な能力を獲得する。で、以後死ぬまで、死が近づくにつれ更に拍車をかけるかの如く、その種の能力に関しては驚異的、天才的、偏執的な才能を文字通り「業が深い」としか言い様のない執着心を伴って発揮した。
(『花咲ける孤独』青林堂、解説文より)

 山田花子を語って至言というべき批評だが、それは人間という存在全体に普遍的でもある。
 高校の図書館という場は、オタク非オタクがくんずほぐれつ「差別」と「保身」にふけっているという点で、一般社会の縮図であるともいえる。ここで、地球最後の図書委員たる彼女がその有様を見て、何を報告するのかというのは、もちろん僕にはわからない。

 この高校図書館に、ある日見える形で紛争が勃発する。
 それはいつでも起こりえたのに、なぜその日に限って表面化し、紛争に発展したのかは例によって謎である。いずれにせよ、図書館は阿鼻叫喚の騒ぎになる。
 そこに現れたのが、神楽坂律子。彼女こそ、Gさんの書いた本篇である『地球最後の風紀委員』の主人公である。ちなみに僕は「風紀委員」という人を現実に見たことがないんですけど、本当に存在するんでしょうか。
 律子はこの紛争を光の速さで解決するのだが、それを具体的にどうするかというのが僕にはまったく思いつかない。
 彼女がなぜ「地球最後の風紀委員」と呼ばれているかというと、Gさんの描く本篇は数次の巨大カタストロフ、つまり『バイオレンスジャック』の関東地獄地震が100万回起こった後のような荒野が無限に広がる世界であり、彼女はその世界でも風紀委員として荒涼たる欲望の原野の風紀をびしっと正そうとし続けるからなのである。この本篇に刺激されて僕は『地球最後の図書委員』というのを思いついたわけである。もっとも、僕の中に湧いてきたのは、巨大カタストロフが起こる前の、二人がまだ平和な高校生活を送っていたころの話なのである。
 Gさんの書いた本篇『地球最後の風紀委員』は、「くずもじ」というブログに「そのうちアップします」という予定。これはなかなか面白かったっす。地球最後の図書委員も、いずれはこのカタストロフ後の世界に行かなければならない。といっても、その荒涼たる原野で、図書委員が律子とからんで何をやるかというのを、僕はさっぱり思いつかないのではあるが。

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