Web草思
オタクとは何か? What is OTAKU? 大泉実成
第14回 『ヱヴァンゲリヲン』を観る
オタクと「強度」

 こんにちは。
 『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』を観てまいりました。
 実はこの日から「大泉がオタクでないことは証明された」と笑っているのである。まあいきなりそんなことを言われてもわけがわからないですよね。実は今月はイベントが多くて、その度に「オタクと強度」という問題を考えさせられたのであるが、その一発目がエヴァだった。いやいや、これじゃあますますわかりませんな。
 9月1日のことである(封切日だと言いたいだけです)。
 店の有志と映画館の前で待ち合わせていた。すると時々アニメについての意見を交換する近所の中学生の女の子が、前の回が終わって出てきたところだった。おおうとお互い驚いたわけだが、彼女は開口一番「庵野さんのサイン、やっぱりいりません」と言い放ったのである。これはどういうことかというと、彼女はエヴァファンで、僕が以前仕事で何度か庵野秀明監督に会ったことがあるのを知り「今度会ったらサインをもらってきてください」と色紙を渡されていたのである。それがいきなりこの反応で、彼女は何かぶつぶつと今見た映画の不満を述べているのだが、こちらは見ていないので要領を得ない。そしてすぐに友達と連れ立って帰ってしまったのである。
 こういうことがあったので「庵野さん、またなんかやらかしたのかな」という不安とともに館内へ。まあやらかす人だからねえ。
 そんなわけでドキドキしながら映画を観はじめて、あああそういうことか、と思いましたね。
 つまり、今回の新劇場版「序」というのは、テレビ版の1話から6話までのストーリーにほぼ忠実に、しかし技術的にはえらい気合を入れて作り直したものだったのである。
 この時、視点も変えずに同じ話が繰り返されるのか、というのが想像以上のダメージになったわけである。無論そういうのは「あり」だと思うのだけど、ちょっと前まで小学生をやっていたような子供たちにはありえない話に思える。もちろん庵野さんにすれば、「同じ物語からまた違うカタチヘ」(パンフレットより)というコンセプトに沿っているに過ぎないのだろうし、同じ話の中で作り直したかったことが山ほどあったと思う。でも子供たちからすれば、例えばドキドキしてポケモンの劇場版を見に行ったら、全編知ってる話だった、って言ったらがっかりしますよね。しかも「新」劇場版と銘打っているんだから。
 こんなことがあったので、僕の第一感は「同じ話の繰り返しか」というものだった。そして、基本的にはエヴァを応援する気持ちが強いので、一般のファンはこれでみんな怒っちゃったりしないだろうかと心配になってしまったのだ。視点人物を変えるとか、もう少しやりようがなかったのかなあ、それにしても粘着だなあ、と。
 圧巻だったのは第三新東京市や使徒の作りこみ、戦闘シーン(とくに「ヤシマ作戦」)など、一緒に行った店の先輩後輩たちの話題は、もっぱらここに集中した。こういう要素を考えると、改めて「オタクの作ったアニメだなあ」と呻かざるをえなかった。こういう徹底した仕事は、オタク系クリエイターのストロングポイントである。
 人物でいうと、ミサトさんが丁寧に描かれているのには好感が持てた。これはテレビ版ではできなかった反省を踏まえてのことだと思う。綾波は前回より母性的というか丸くなっていて、設定に忠実な感じ。シンジを見る瞳に母としての慈しみがある。個人的には前回の少し挑戦的な綾波が好きなのだが、ちゃんと作るとこうなる、といった感じ。全体としては「若さと勢いの1995年版」vs.「円熟の2007年版」というところか。
 最後の最後、予告編で新しいエヴァを出してきて、観客を引っ張るうまさは相変わらず。「華」を並べ立てさせたらこの人の右に出るものはいない。そこで皆「あと1年も待つのかよ、生殺しだぁ」と呻きつつ映画館を出ることになったのである。
 近くのファミレスに入り、軽い食事を取りつつ店のオタクの方々と感想を述べ合ったのだが、意外なことに彼らは「同じ話の繰り返しだったこと」をほとんど意に介していなかった。そしていかに使徒ラミエルの造形が素晴らしかったか、戦闘シーンが凝りに凝ってかっこよかったか、第三新東京市の作りこみが感動的であったかを、静かに、しかし明らかに沸点に達しながら語り続けたのである。
 確かにそれはよくわかる。よくわかるのだが、この時僕は小さな違和感を感じていた。
 その後、ネットでの盛り上がりや、オタク系の知り合いが「エヴァ、最高ですよ」と言ったりするのを見て、違和感は決定的なものになっていった。そして、自分がどれだけオタクではないか、というのを改めて感じざるをえなかった。
 ラミエルも第三新東京市もヤシマ作戦も確かに圧巻だった。ところが多くのオタクが感心するこういうポイントに、僕の興味はほとんど向かなかったのである。
 「強度」という宮台真司が出してきた用語は、こういうときに便利である。宮台はわれわれの生きる有り様を「島宇宙」に例えた。オタクならオタク、ギャルならギャル、暴走族なら暴走族。この成熟した社会において、人々はそれぞれの島宇宙で、他の島宇宙と没交渉的に生きるようになった。そして、この島宇宙内で問題になるものこそが「強度」である。
 庵野秀明はオタクとして最大級の強度を持っているだろう。それはいみじくも妻の安野モヨコが述べたように「オタクの道は鉄道まで続いている」(『監督不行届』祥伝社)というような類の強度である。強迫神経症的にメカニカルな細部までを作りこまなければ納得できないという「強度」。まったく新しいフォルムを生み出さなければ気がすまないという「強度」だ。今回のエヴァはまさにこの方向に作りこまれ、そして多くのオタクたちはそれに同調し、その強度の方向に向かって興奮し、熱心に話し合っていた。
 しかしこの強度への感性が希薄な僕は、この島宇宙の中で熱くなれずにいた。
 もうひとつ、新たな「謎」という要素もあった。しかし前作で「綾波レイ」という最大の謎が出され、企画書や設定資料まで当たってその謎を一度解いてしまった人間からすると、どうしても「ああ、また謎かけか」と思ってしまう。もちろんないよりはあったほうがいいのだが、前回のように謎を追うことに夢中になれなかったのである。

碇シンジへのシンクロ

 エヴァンゲリオンという作品は僕がオタクについて考える際の生命線のような作品である。もしこの作品に出合わなかったら「オタクとは何か?」と考えることもなかったろう。それはこの連載の冒頭で書いた。
 しかし今回、前述したようにオタク的にこの作品を楽しむことができなかった。
 これまで連載中にさんざんオタクと同化しているようなことを書きながら、肝心なところでまるで違っていたのである。そんなわけで「やっぱり俺はオタクじゃなかったんだ」と思った。そして、自分のこれまでのせっかちなオタクとの同化ぶりがいかにも浅薄に見えて、自嘲せざるをえなかったのである。
 それでは、新劇場版を観ていた時、僕はどのような状態だったのか。
 これがいささか入り組んでいてまた矛盾しているようにも見えるのだが、僕はオタク的に内側から碇シンジという人間を見ていたのである。いや、これじゃあよくわからないな。別の言い方をすると(うまく言い当てているかどうかよくわからないが)シンジの葛藤をオタクの葛藤としてひしひしと理解したのである。エヴァは何度も見直してきたのだが、これは初めての体験だった。
 碇シンジが庵野秀明の分身であることは、庵野の数々の発言から見ても明らかである(「シンジ君って昔の庵野さんなんですかって聞かれるんですが、違うんですよ。シンジ君は今の僕です(笑)」『庵野秀明スキゾ・エヴァンゲリオン』太田出版)。そうである以上、碇シンジは限りなくオタク的な性格を持っているはずである。同時に、シンジを取り巻く環境は、オタクを取り巻く環境と同義だったはずである。
 もちろんそれは、頭では分かっていた。別な言い方をすれば、頭で分かっていただけだった。というのも、そうしたアナロジーで、エヴァの世界を見たことがなかったからである。
 シンジは、自分には何の価値も感じられないという。そして、何をやっていいかわからないという。それが今回ほど沁みた事はなかった。
 おそらくその背景には、この取材で数多くのオタクたちと朝までゲームをやらかし、「ダメ人間」の称号をほしいままにしてきたといういきさつがある。無論これだって中途半端な同化にすぎないのだが、それでもこうした経験は内的に彼らと同じ視点に立つことを可能にした。
 さらに、これほどまで何をやっていいかさっぱりわからないというのに(できれば楽しいことをずっとやっていたいのに)、なんだか気が狂ったみたいになっている周囲の大人たちから強制的な圧力をかけられて社会に出させられようとする。就職していないやつは人間じゃないみたいな言い方をされる。作品中の言葉でいえば「エヴァに乗れ」ということなのだが、そんなの乗るわけねえじゃねえか。
 オタクは自由を愛するし、自分のための時間はいくらあっても足りない。企業に隷属したくないという気持ちも人一倍強い。どう考えても乗りたくないのである。
 お恥ずかしい話だが、これまで僕はエヴァに乗ろうとしないシンジにあまりリアリティを感じていなかった。全人類の危機で、しかも綾波が傍らにいて、エヴァに乗らない人間なんてありえるのかと思っていた。しかし今回のエヴァを見て、こりゃあ乗りたくねえ、と思った。全人類の危機? そんなの俺が立ち上がったってどうにもならないよ。綾波? いい女は俺の人生には関係ないよ。正直そんな心境であった(これが綾波で離婚しそうになったのと同じ人間であろうか)。そして、うまうまとまわりの人間に押し流されてエヴァに乗せられてしまうシンジに、初めて違和感を感じたのである。僕がエヴァに乗って、全人類の危機を救えるわけがないじゃないか。
 このようなダメダメ思想が飛躍した結果だと思うのだが、僕は映画を見ながら、1997年当時の庵野秀明の主張を初めて不快に思った。彼はあのころ、事あるごとに、そしてフィルムの中でさえオタク批判を繰り返していた。自分はオタクとかけ離れた存在だと考えていた当時の僕は、なんて当たり前のことを主張しているのだろうと気にも留めなかった。ところが、その時の庵野の主張が、10年の時を超えてこの瞬間に切実に届いたのだ。目の前で展開されている話がだいたい同じ話なので、このようなことも起き得るのだろう。そして驚いたことに、僕の中から、その庵野のメッセージに対する凄まじい反感がせりあがってきたのである。何が脱オタクだ。キレイ事を言いやがって。そんなのできるわけないじゃないか。みんなしがみつくようにアニメ見て、それで元気をもらって、何とか次の1週間を生き延びようと必死なんだぞ。それをまあ偉そうに。できるもんならまずおまえがやってみろ、と。
 つまりこの時、僕は1997年にオタクたちがなぜ庵野秀明に腹を立てていたかということを、初めて実感的に了解したのである。

成熟するオタク

 それでは、1997年以降、庵野秀明のオタク批判はどのように変貌したのだろうか。
 「『エヴァ』以降の一時期、脱オタクを意識したことがあります。アニメマンガファンや業界のあまりの閉塞感に嫌気が差してた時です。当時はものすごい自己嫌悪にも包まれましたね。自暴自棄的でした。
 結婚してもそんな自分はもう変わらないだろうと思っていました。けど、最近は少し変化してると感じます。脱オタクとしてそのコアな部分が薄れていくのではなく、非オタク的な要素がプラスされていった感じです。オタクであってオタクでない。今までの自分にはなかった新たな感覚ですね。いや、面白い世界です。
 これはもう、全て嫁さんのおかげですね。
 ありがたいです」(前出『監督不行届』)
 このテキストを読むかぎり、庵野は脱オタク(オタクでないものへの変貌)をやめ、むしろ自分のオタク性を受容して、その上に非オタク的な要素を付け加えることにしたようである。庵野に脱オタクなんてことができるわけがないというのは、当時周囲の人間が口を揃えて言っていたことではあったが、本人もそこは謙虚に認めるようになったのであろう。
 今回のヱヴァンゲリヲンは、巷では大月俊倫プロデューサー路線などと言われている。オタク的スペクタクルと大団円の世界である。しかし単なる大月路線というよりは、成熟し、自らのオタク性を受容するようになった庵野自身の中にこそ、そのような心的契機があったように思う。そしてそれがオタクの熱狂を生んでいる。
 その熱狂の中にいまいちうまく入り込めない僕なのであるが、それでも「うまくなったなあ」と感じる場面は多々あった。
 例えば、ヤシマ作戦の直前に、トウジとケンスケの激励のメッセージをプラグ内のシンジに聞かせるシーン。やり方によってはベタベタになりそうなのだが、ラミエルがあまりに強烈なので思わずぐっとくる。同じように使徒の恐怖を実感したものからの激励なので、「二人のためにも」とシンジが奮い立つのがまったく不自然に感じない。ああ、監督というのはこういうふうに成熟していくのか、と感じた。
 で、庵野秀明のこういう成熟はずっと見ていきたいと思うのである。もともとテーマはシンジがエヴァに「乗るか乗らないか」なのだから、4本といわずに、「寅さん」みたいに毎年作って50本ぐらいどうですかね。60歳を過ぎたシンジが、相変わらずエヴァに乗るか乗らないかでうじうじしていたりするのはけっこう見ものであろう。やっぱり60過ぎた綾波に「じゃあ寝てたら」と突き放されたりしてね。
 いや、監督、僕はついていきますよ。

草思社