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オタクとは何か? What is OTAKU? 大泉実成
第12回 オタク修行篇9 オタク文化が世界を変える
外見オタク内面少女

 そんなわけで大泉のオタク店員修行見習い取材も一周年を迎えることとなった。まあいろいろあったが主観的には非常に稔りの多い日々であった。
 それにしても、オタクコミュニティーというのは、どうしてこんなに居心地がよいのだろうか。
 はじめは自分ひとりだけ二十以上も歳が離れているし、仕事も全くやったことのない種類のものだったので、どうなることかと思っていた。しかし、「オタク文化」を探究するという姿勢がキーになった。同じ文化を共有し理解しあう者同士という認識が生まれたからである。最近店に後輩が入ってきて、いっしょにカラオケにいくことになったのだが、先輩方が彼を誘う理由がこうだった。
 「いや、あいつもこちら側の人間みたいなんで」
 つまりはオタクだというのである。そこではたと気づいたのは、つまりは僕も「こちら側」と見なされていたという事である。
 店のオタク文化の中枢にいる2人の美少女ゲームの大家が、非常に神経が繊細で、仕事の上でもいっしょに遊ぶ時でも、何くれとなく気を配ってくれたのもありがたかった。世間ではいろいろ言われがちな美少女ゲーム愛好家だが、大多数は彼らのように気配りができて争いを好まない、優しい青年なのであろう。
 この点について最近、僕のブログに気になる投稿があった。話の突端は、『らき☆すた』のメインキャラ・外見美少女内面オタクの泉こなたについてである。

 「外見美少女内面オタク」というキーワードから思ったのですが、オタクには外見オタク内面少女という人も案外いるような気がします。
 大泉さんの周りはどうでしょう?
 十数年間に会った、何十人かのオタクの友人を見てると、軽い性同一障害を持ってるのかな?という人から自分の中には少女がいると言う人まで、その手の人が数人いました。
 エロゲ、美少女コミックの萌えの絵柄の変遷は少女漫画のテイストをどう取り込んで行くかの歴史だったように感じます。
 外見オタク内面少女、少女漫画の風味を取り入れて出来た萌え絵、エロ界の女性絵師。
 それらがどう関係してきたのか分からないのですが、売る側買う側を問わず萌えを作って来た人たちの中には内面少女が多くいたのではないかと思います。(D独英さん)

 外見オタク内面少女。
 実はこの件についてはひしひしと感じていて、何とか形にしなければいけないなと思っていた。つまりは、美少女ゲームを愛好する青年たちの繊細さや優しさがどこから来るかという問題である。
 D独英さんが指摘するとおり、2人の美少女ゲームの大家は、性同一性障害ではない(と思う)が、非常に女性的感性が発達している。もっとも、女性的感性とは言っても現実の女性の大半は実に野蛮な生き物であるので、彼らの女性的な感性の元になっているのは、アニメなどで表現される観念的かつ理想的な女性キャラクター像だろう。彼らは成長期にこうしたキャラのセリフを、それこそ洪水のように浴びてきた。その結果彼らの中に少女が住むようになっても、なんら不思議はない。
 無論それはアニメ作者によって、つまりは男によって作られた少女であり、そんなものはこの世にはいない。しかし見方を変えれば、これほど純粋な少女もまたいないであろう。
 つまりは、純粋な女性的なものに対する憧れが、彼らの中には激しく息づいているのである。
 僕は前作の『萌えの研究』の中で、どうしても理解できない作品として『マリア様がみてる』(*1)をあげた。自分の目の前に立ちはだかる最大の壁、といった言い方もした。
 なぜかといえば、このミッション系お嬢様学校の、「姉妹(スール)」と呼ばれる女子高生同士の恋愛の姿の、その何をどう楽しんでいいかがさっぱりわからなかったからである。そこには僕の入り込む余地がまるでないのだ。なぜなら、そこには自分の自我を託せるような男性主体が出てこないからである。
 その後、取材を進める中で、僕は次のような理解をした。すなわち、僕のような未熟者は作品の中にどうしても自我の託せる男性キャラが欲しくなるが、熟練のオタクの妄想力があれば、女の子だけの話にも十分自分の妄想をぶち込むことができるはずだ、と。
 しかし、そうではなかったのである。
 彼らは、彼らの中の少女を十二分に共鳴させて、作品中の女子高生と同一化していたのである。彼らはそこで女になりきり、女として恋愛を、そして他愛のないおしゃべりを楽しみきっていたのだ。
 無論、細かい議論をすれば、この点についてはかなりの補足が必要になってくると思う。しかし、僕が今回の取材で抱くようになった認識を大雑把に言うと、どうしてもこうなってしまう。
 そして、最も重要な点は、こうした感性を持った人たちが、今のオタクの主流である萌え系のオタク・「萌えヲタ」と呼ばれる人たちの中核にいる、ということなのである。
 というのも、この事実から「オタク革命」を唱える人たちが現れたからである。

オタク革命で世界平和を

 2005年の暮れに、経済学者の森永卓郎氏と対談した。(「新刊ニュース」2006年2月)
 森永は『年収300万円時代を生き抜く経済学』という著書で有名だが、ミニカーなど、さまざまなコレクターとしても知られている。その中には綾波レイのフィギュアというのも含まれている。彼もまた、自他共に認めるオタクである。
 この対談で、森永とは初めて会ったのだが、その思想が凄まじかった。
 「日本国民のすべてがオタクになれば、日本は平和でいい国になる」
 「世界平和は『萌え』から始まる」
 彼はこの二つの思想を、ことあるごとに繰り返した。一種の「オタク革命」論者である。
 森永は『人間を幸福にしない日本というシステム』の著者であるオランダの経済学者ウォルフレンと対談した時も、断固としてこの主張を繰り返した。
 具体的には、これからの日本の主力産業は何かというテーマでは、「それは萌えです」と言い続けた。いぶかしむウォルフレンにかまわず萌えについて淡々と説明したため、終いにウォルフレンは「モリナガ、いいかげんにしろ」と切れてしまったそうだ。まったく理解を示そうとしない対談相手を見て、彼は「世界平和への道のりは険しい」と思ったという。いずれにせよ、ウォルフレンに向かって、これだけのことを剛直に言い張れる日本人というのはまずいないであろう。
 まずは豪傑、と呼んでいいだろう。
 無論、このようなオタク革命論というのは、昔からあった。
 例えば竹熊健太郎は、世界の人口問題の解決のためには、人類のオタク化が必要であると主張した。オタクは異性と付き合うのが苦手な人が多いので、そうなればとにかく人口が減るからである。
 オウム真理教も、あるいはオタク革命の変種、と呼ぶことができるかもしれない。オウムそのものは宗教オタクからある程度の支持を受けていたわけだから、事件さえ起こさなければオタク革命の一翼を担う存在に成長していっただろう。しかし彼らが武力革命路線に走ったため、「一億総宗教オタク(オウム)化」という彼らの野望は潰え去ってしまった。竹熊はこの事態について「麻原はどうしてハルマゲドンに行ってしまったんだろう。あまりにも我慢が足りない。もっとソフトな形で、社会にゾンビみたいに引っ付いてりゃよかったのに」と述べている。(『私とハルマゲドン』より)
 ただ、竹熊のオタク革命論にしても、麻原の一億総オウム化にしても、妄想の産物といった感が強い。こういうのを「空想的オタク革命論」と呼ぶとすると、これに対して、非常に現実味を帯びて展開されたのが、この後に出てきた、宮台真司の提唱する「まったり革命」であった。
 宮台は成熟社会に対する適応方法として、まったりと生きることを奨励した。もともとオタクという生き方そのものが、平和が長く続いたこの高度消費社会にどのように適応するか、という文脈の中で出現している。そんなわけでまったりはオタクとの相性もよく、一時は流行語のようになった。阪神大震災やオウム事件後の、波乱を求めない社会的な風潮にも良くあったのであろう。
 もっとも、宮台自身は2000年にまったり革命の終焉とオタクの消滅を宣言している。しかしオタクは消滅しているようには見えないので、これは宮台の定義するオタクが消滅したということであろう。宮台のオタク論というのも非常に独特で面白いものなので、そのうち回を設けて検討したい。
 森永のオタク革命論は、一見すると竹熊のように空想的なものに思える。オタク革命を唱える人は、それぞれにその根拠となるオタク像を持っているのだが、森永が竹熊や宮台と違うところは、その根拠となるオタク像が、はっきりと萌え系のオタクになっているところである。
 「私が見ている限り、『萌え』系の人たちほどやさしくて、誠実で、うそをつかなくて、社会との調和を重んじる人はいないと思います。メイド喫茶が満席で外で待っている彼らを見ていると、おとなしくきめられた場所できちんと待っているんですね」
 「彼らは自分のお花畑が踏みつぶされるのを嫌がりますから、それの裏返しで、人を傷つけたいとも思っていないんです」
 「オタクの人たちというのは、自分たちがさんざん傷ついていて、その分人の痛みというのがわかっていますから、やさしい人が多いんです。ですから、女性の方々にはぜひオタクの人たちとつきあってみて欲しいと思うんです。きっと、その魅力がわかるのではないでしょうか」
 以上は対談からの抜粋だが、僕の取材経験からも肯定できる内容がほとんどである。
 このような人が増えれば日本も平和でいい国になり、世界平和にも貢献できる、と森永は考えるのである。彼は経済学者であるから、その具体的な方法として、国内にあっては萌え系コンテンツの充実と流通、世界に向かってはその輸出を考えたのであろう。そんなわけで彼はウォルフレンに向かって、これからの日本の主力産業は萌えだと言い張ったのである。
 なんともとほうもない話ではあるが(輸出金額を自動車産業と比べればこれがどれだけとほうもない話かはわかる)、ひとかどの経済学者がこう主張せざるを得ない心境になっているというところが、僕のようなオタクと非オタクのボーダーにいるような人間には、実にほほえましく思える。
 僕には森永ほどの明確な主張はないが、オタクが世代を重ねて増えていることは実感できるし、前回も書いたように、布教活動がそこかしこで行われ、いわばオタク革命が静かにひたひたと進行中というのは感じている。ただそれが最終的にどのような規模で、どのような内実を伴うものになるのかがよくわからないのである。
 ことは、萌え文化のグローバル化という問題である。
 グローバル化にはよい面もたくさんあるが、多くの弊害が存在する。外国種の生物が国内種を絶滅に追いやるとか、TOBといった経済行動も一種のグローバル化の弊害である。まあこれは、森永の方がよほど詳しいであろう。
 諸外国において萌え文化にどのような弊害が指摘されるようになるか、というところまで僕の取材は至っていない。ただ、容易に想像されるのは、宗教的な縛りがきつい国では、僕にとって性の多様性の一つと映る萌え文化が、容易に性的退廃として受け止められてしまうだろうということである。性については比較的おおらかな日本ですらオタクの趣味は異端視されている。これが激しい一神教の国に行ったらどうなるのか。いずれにせよ、森永革命はひたひたと進行するであろうが、世界には無数のウォルフレンがいるということである。
 このようなことを考えていたら、過日、秋葉原でヘルメットをかぶったオタクたちが「オタクを差別するな」と叫んで大規模なデモを行ったというニュースを知った。
 すわ、オタク革命!?
(以下、次号)

*1 『マリア様がみてる』 http://www.gokigenyou.com/

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