Web草思
オタクとは何か? What is OTAKU? 大泉実成
第11回 オタク修行篇8 多様性と布教活動
「オウム」と「ハルマゲドン」

 さて、話はオタクの未来像についてである。
 もっとも、僕はオタク店員修行中の身であるから、そんな大それたことはよくわからない。そこで、前回は最近読んだ森川嘉一郎の文章を引いた。森川といえば『趣都の誕生 萌える都市アキハバラ』(幻冬舎)という気合いの入った著書を持つ、オタク第二世代の雄と言うべき人物である。
 森川の論の骨子はこうである。まだオタクという呼び名がなかった頃、「ハカセ」と呼ばれる子供たちがいた。理系の能力に長ける彼らは、科学技術のもたらす輝ける未来を担う人間としてそれなりに尊敬を集める存在だった。ところが、大阪万博を最後の祭りとして、そのような科学信仰のもたらす未来像が急速にかげりだした。「ハカセ」という呼び名が「オタク」に取って代わられるようになった背景には、彼らの未来の喪失があった。
 オタクたちは熱中の対象を科学からSF、SFアニメに移行させた。そこでアニメブームが起こるのだが、オタクたちの熱中したアニメには通底する筋書きがあった。核戦争や天変地異によって一度社会が破壊される。そこで主人公は、超能力などの特殊技能によって新たな世界の構築のために英雄的な活躍をするのである。そこにはハルマゲドンに対する希求があった。
 ところが、オウムがハルマゲドンを現実に起こそうとして失敗すると、ハルマゲドン後の英雄的な活躍に対するオタクたちの憧れが一気に失効してしまった。いわば2度目の「未来」の喪失である。この結果、ハルマゲドンものは衰退し、オタクの興味は萌えへとシフトしていった。
 詳しくは前回を読んでいただきたいが、僕がこの文を引いたのは、実感的に共感できる点が多かったからである。しかし疑問に思った点が何点かあって、その最たるものがオウム事件がオタクに与えた影響であった。果たしてオウム事件はこれほどまでに深刻な影響をオタクに与えたのか。
 僕自身取材のためオウムに体験入会していた時期が2年近くあり、そこでたくさんのオウム信者と交流したので、彼らがどのくらいオタクと親和性が強いか、ということはよくわかる。彼らがどのような理由でオウムに入り、どのような理由でハルマゲドンを待ち望んでいたのか、というのも数多く取材した。入信経路はさまざまだったが、そのころ「オタク系」と僕が分類していたのは例えばこういう人である。
 それは麻原教祖の運転手をしていたという信者だったが、大学は電気工学科で、マンガ研究会に入り、池上遼一みたいな絵を目指していた。『機動戦士ガンダム』と『伝説巨神イデオン』が好きだった。ドラクエは全作やった。『ムー』と『トワイライトゾーン』を愛読。社会に出て6年経ったころ「本当にこのままの人生でいいのか、修行をしてみたい」と思った。まず浮かんだのが『空手バカ一代』の大山倍達の山ごもり。しかし極真空手はしんどいと思った。宗教団体に入ってみようと考え、そのころ『トワイライトゾーン』で麻原が連載していたので、説法を聞きに行き、その後出家。
 麻原の運転手時代、車の中でいっしょに『宇宙戦艦ヤマト』を歌ったこともある。彼が何より魅かれていたのはハルマゲドン予言だった。僕はサリン事件後にインタビューしたのだが、彼は「ハルマゲドンをわくわくしながら待っている。オウムは地球の命運をかけた最後の救済の船だと信じている」と悪びれずに述べた。
 そんなわけで、この人などは森川の分析にすっぽりと入ってしまいそうである。これで少年時代にハカセと呼ばれていたりしたら文句なしである。差異があるとすれば、彼がオウムに入って現実にハルマゲドンを待った、という点ぐらいか。
 こうした親和性の高さから、オタク側がオウムと彼らがやらかしたことに激しい近親憎悪を抱く、というのは起こりそうなことである。この近親憎悪が、ハルマゲドンものから萌えへのシフトの引き金になった、と考えれば、一応の説明がつく。
 しかし、とここで疑問が生ずる。例えば、オウムについて語ることで自らの人生とオタク論をとうとうと述べることになった竹熊健太郎のような人物を別にすれば、多くのオタクたちはオウムをどの程度まで意識していたのか。僕のように直接オウム取材をした人間にはオウムの影響が過大に見える。だが、オタクのマイペースぶりを考えると、オウム事件に果たしてそれだけの影響力があったかどうか、どうしても疑問に思えてくるのである。

「オタクは一枚岩ではない」

 というわけで身近なオタクに疑問をぶつけてみることにした。
 まずは同居している配偶者である。森川の論をぶつけてみると、しかし自分にはオウム事件後もハルマゲドンへの期待はあった、とぬけぬけといった。
 1999年までそれは続いたようだ。要するにこの人はノストラダムスに期待していたのである。オウムへの失望なんぞより、ノストラダムスの信用の方が高かったわけである。まあどちらも駄目だったことに変わりはないが。
 しかし僕が驚いてしまったのは、これまで淡々と自分の人生を送っていた(ように見えた)この同居人に、ハルマゲドンへの期待なんて過激なものが渦を巻いていたのか、ということであった。夫である自分はまったく気がつかなかった。小心な僕が、「本当にそんなことになったらたいへんじゃないか」、と言うと、「それはそうだが、単に世の中がひっくり返ったら面白いと思っていただけだ」、と平然と答えた。うううむ。
 店の諸先輩方の意見も聞いたが、10代後半から20代前半の彼らにとって、オウム事件は小学生時代の経験である。オタクとしての自覚もまだない頃であろうし、そんな人たちにオウム事件とハルマゲドン後の物語の失効の話をしても、圧倒的にピンと来ないようであった。
 そこで、自分のブログで問いかけてみた。すると、さすがに読んだり書いたりするのが好きな人が集まっている場である。ありがたいことに多くのコメントが寄せられた。
 やはり第三世代はオウム事件の影響をほとんど感じていないようである。以前にも登場してもらったことのある情苦さんは、「オウム真理教の麻原が逮捕されたのが、僕が小学6年生の頃でした。教室のテレビで見ていたので憶えています。後の萌え世代が、これに直接的な影響を受けたとは思えません」と述べている。
 では第二世代や第一世代がオウム事件の影響をひしひしと感じているかというと、これがそうでもない。「オウムについてですが、現在34歳(うわ…いつの間に)の自分にとってはいしいひさいちのように笑ってウォッチする対象だったんで上の世代のオウムに対する妙な思い入れはぜんぜん持ってないですね」(国立珠美さん)、「私は『ヤマト』をリアルタイムで観ていて、その翌年にはアニメファンを自認していましたが、森川氏の解釈は私の皮膚感覚に全然そぐわないですね」(しまうま技研さん)と、みな自分のスタンスをはっきり持っていてマイペース。オウム事件から深刻な影響を受けているようには見えない。
 また、具体的な作品名を挙げて「ハルマゲドンものは健在だ」とする主張も複数あった。萌えの隆盛についても、それはネットの発達などによってオタク内の作り手と受け手のあいだに往還活動が起こり、それによってアニメが高度化したなかで必然的に起こってきたという独自の文脈を持っているため、オウム事件の影響としてしまうのには無理があるという主張などは、非常に興味深かった。
 無論「受け手はともかく、作り手にオウム事件が強く意識されていたことは確かだと思いますよ」(tommyさん)、「森川さんの論は別に間違ってるってわけじゃなく、万博オウムオタクの三題噺で論を作るとそうなるってだけ」(国立珠美さん)と、森川説を肯定的に捉える意見もあった。
 書き込みをしてくれた人たちに共通認識としてあったのは「オタクは一枚岩ではない」ということ、つまりオタクの多様性である。確かにこのような多様な人たちを一つの歴史解釈で括ってしまうことは無理があるのかもしれない。オタク史の解釈の難しさをつくづく感じさせられた。
 しかし、そうだとすると、オタクの未来はどこへ向かうのだろうか。

「布教」への情熱

 さ?て、よっこいしょういち、っと。
 そろそろ問題が僕の手には負えなくなってきたので、座りなおして近況など。
 前回も書いたが、『らき☆すた』(*1)が面白い。先輩方は、キャラになりきってメールのやり取りなどをなさっている。
 原作は『コンプティーク』(*2)連載の萌え四コママンガ。そこに最近絶好調の京都アニメーションが絶妙の味付けを加えた。
 僕が興味深く思っているのは泉こなたというキャラクターである。
 この小柄でナイムネで運動神経抜群の美少女女子高生は、深夜アニメの録画に精を出し、18禁美少女ゲームに耽溺し、日々ネットゲームで竜を狩るなど、その内面は視聴者の男性オタクそのもの。ある時彼女が『モンスターハンター2』の話をだらだらと始めたので思わず聞き耳を立てることになった。するとその中で、モンハン2(ドス)でギアノスが云々というセリフがあり、その瞬間僕は「ドスにはギアノスは出てこない。そのころはまだスノーランポスという名前だ。ギアノスが出てくるのはモンハンポータブル2ndからだ」と激しくツッコンだ。きっと全国で同じ光景が繰り広げられたことと思う。
 いや、いかん、取材者にあるまじき態度であった。
 いずれにせよこなちゃん(泉こなたのことを日常的にこう呼んでいるのですみません)は美少女であるとともにオタクの代弁者でもある。
 ある時彼女が誤って同じ本を2冊買ってしまったことがあった。どうするのかと思ったら、もう1冊は「布教用」ということで平和裏に彼女の本棚に収まったので、僕ははなはだ感心した。
 なぜ感心したのかというと、やはりそこにオタクの行動原理が端的に示されていると思ったからである。オタクは布教に熱心だ。それは店でもそうで、Oさんなどは自分のひいきの作品を近所の中学生が買っていった時などは、小さな声で思わず「よし」と叫んでいる。あまりに熱が入っていたので思わず笑ってしまったことがある。こういう光景はほかではあまり見ない。
 もっとも、これは取材者にはありがたいことで、彼らのこうした情熱で僕は多くの作品をシェアーされ、取材を進めることができたのだ。
 彼らのこうした布教への情熱はどこから来るのか。
 一時は「自分たちをマイノリティーだと自覚しているため、公認されていくことがうれしいのだ」と思ったこともある。
 けれども、例えばエヴァンゲリオンの時などは、僕自身が激しい布教活動を起こし、周囲の人を説いて監督のインタビュー本を作ったことがあるのだが、その時はマイノリティーだ何だという理屈は1秒も考えなかった。モンハンの時も同様である。理屈ぬきでそういう行動に走っていたのである。
 自分が感動した作品があれば人に勧めたいと思うのは人情というものであろう。それはオタク非オタクという別を超えたものだ。つまりは、一にも二にも素晴らしい作品がそこにある、ということなのである。
 オタクは増殖している、と僕は思う。いずれ何らかの形でそれを実証的に示したいと思うのだが、それはさておき、彼らはなぜ増殖しているのか。無論、確実に世代を重ねている、ということもある。ギャルは歳をとれば子供を産んでオバサンというものになっていくが、オタクは歳をとってもオタクをやめないので、自然に増えていく。さらには、コミュニケーションの手段が充実したということがある。実際にネットが整備されて部屋でいながらにしてオタク同士がコミュニケーションをとれるようになったことで、オタクの増殖に拍車がかかった。
 しかし、オタクが増殖する最大の起因は、なんと言っても素晴らしい作品に出会うことであろう。そういう意味では、いくらオタクが理念を叫んだところで空念仏にすぎず、冷笑的に対応されるだけだが、素晴らしい作品には熱狂するし、金を惜しまない。遠大で高邁な理念を掲げてそこを目指すのではなく、具体的で目の前にある作品をよくしようとする努力、そしてそれを応援しようという努力。オタクが無意識のうちにとった生存戦略はこちらだったように思える。このように考えていくと、オタクの未来は、クリエーターやコンテンツ産業の努力により傑作コンテンツが生まれるかどうかにかかっているといってもいいだろう。このような構造についてももっとよく知りたいが、今のところ僕の取材はそこまで至っていない。
 今僕に見えるのは、『らき☆すた』のようなコンテンツが実際に生まれていて、それがOさんの手によってビデオにとられ店の事務所にあり、いつでも見られるということ。つまり個別具体的な布教活動が起きているという事実である。同時に『らき☆すた』は中学1年の息子の友人たちの周辺でも話題になっている。この作品により、オタクはさらに増殖していくだろう。
 さらに言えば、この作品はネットによって世界で共有されている。そこでも「布教」が行われていることだろう。
 「布教」によるオタクの増殖は、世界をどこに導くのだろうか。
 今の僕にはそれが見えない。しかし、そこにはオタクの一つの未来がある。

*1 『らき☆すた』 http://www.lucky-ch.com/
*2 『コンプティーク』 http://www.comptiq.com/

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