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オタクとは何か? What is OTAKU? 大泉実成
第9回 オタク修行篇6 「君の心に僕の笛の音は届かない」
人間性をふくめて罵倒されて……

 相変わらずモンハンに嵌っている大泉です。
 もっとも、『モンスターハンターポータブル 2nd』はミリオンセラーになったということで、小6の息子のクラスでも5?6人がモンハンに嵌り、狩人連盟を作っているとのこと。
 放課後に息子が「今日は狩り連の集まりだ」と言いつつランドセルを放り投げて走り出て行くさまは、我が家の日常となっている。近所の中学生に話を聞いたところ、彼のクラスでも7人がモンハンをやっているということだった。このぐらい広がりが出てくると、モンハンに嵌っているやつはオタクだ、という単純な見方はできなくなってくる。
 先日息子の卒業式というものがあり、狩り連の子供たちが一同に会したので記念写真を撮った。写真を撮り終わって、激励の意味で、
 「じゃあみんな頑張ってハンターランクを上げてね」
 と言ったところ、
 「俺らもうこれ以上ハンターランク上がんねえもんな」
 と分別くさい顔で言われてしまった。みんなとうの昔に最高レベルに到達していたのだ。『けっ、悪かったな。どうせ俺はまだハンターランク5だよ』と45歳の大泉は心の中で舌打ちした。それにしても小学生というのはどうしてこうゲームを進めるのが早いのであろうか。
 狩り連といえば、店の狩り連の一人であるGさんが沈うつな面持ちで、
 「実は自分の人間性というものについて考えているんです」
 と告白したことがある。
 最近知り合った人がモンハンをやっていることがわかったので、Gさんは喜んでいっしょに狩りに行くことにした。彼はこのゲームでは補佐役に徹するのが好きで、狩猟笛や弓といった、強力ではないが仲間にとってはありがたい特殊効果を持つ武器を得意とする。ところが弓というのは飛び道具だけに防御力が低く設定されており、偶然モンスターの一発を貰うとそのままお陀仏ということが多い。店の狩り連で狩りに行くときはそれは織り込み済みなので、誰も気にしない。ところが、この日いっしょに狩りに行った人はGさんがあまりによく死ぬので呆れてしまったらしい(1チームで3回死ぬとゲームオーバー)。
 「自分の人間性も含めて、めちゃくちゃ罵倒されまして……」
 で、めげていたらしい。ゲームには性格が出るものだが、自分という存在についてここまで考えこませるゲームというのも珍しい。

オタク知識の豊富な「普通の人」

 この連載は、自分が『オタク』と呼ばれたことの衝撃から「オタクとは何か?」ということを徹底して問おう、という趣旨で始められた。今もその路線は大枠では変わらない。
 しかし、モンハンに嵌って「もう俺のことは何とでも呼んでくれ」状態になって3か月。今から見ると、かつての自分は「オタクとは何か?」という問いに対していささか力みかえっていたように感じる。そういう意味では、一つ力が抜けたところで、改めてオタクとは何か、を考えてみる。
 定義について考えるというのは、ラッキョの皮むきみたいなところがある。例えば、アニメ絵に欲情する人だとか、マンガ、アニメ、ゲームにわたってこだわる人だとか、一つの定義でオタク全体を見渡そうとすると、どうしてもそれに合致しないオタクが出てくる。あるいは、定義には合致するのに、オタクとは呼べない人が出てくる。そのように「これでもない、これでもない」とオタクの定義を一つ一つ皮をむくように取り払っていくと、ついに何もなくなってしまうのだ。これではますます混乱が深まってしまう。
 そんなわけで現場に出てみたのだけれど、そこで思うのは、誰をオタクと呼ぶかということは非常に相対的だということである。
 Gさんは先日店をやめて新たな職場に移った。僕から見ればGさんはオタク的知識にあふれているのだが、これまでGさんは自分のことをはっきりとオタクだとは思っていなかった。店では、オタクと言ってぱっと頭に浮かぶのは、なんと言ってもギャルゲーの大家の二人である。Gさんは基本的にギャルゲーはやらないし、マンガ、アニメ、ゲームに詳しいといっても、店では仕事としてそれらを扱うので最低限のことはみんな知っている。そんなわけでGさんは店では「知識の豊富な普通の人」という自己認識を持っていた。
 新しく移ったのは公園の管理の会社で、彼が驚いたのはそこではマンガ、アニメ、ゲームの話題が一切出ないことだった。高校を出たばかりのギャル風と中年のおっさんが非常に多い職場だったのだ。そこで彼は周りの空気に合わせるために読書好きの好青年を演じることにした。
 ある日の昼休み、一人で食事をとっていると、後ろからギャル軍団の話し声が聞こえてきた。みんなであるファッションビルの話をしていて、彼は、そういえばあのビルの最上階にはアニメイトがあるんだけどな、などと思っていた。孤立しがちだったGさんは、その話題になったら話に入っていこうと思って聞き耳を立てた。
 「そういえばさあ、あのビルの一番上にさあ、なんかオタクのいる店があるじゃん」
 「キャーキモーい」
 「あるある。キモいよねー。あいつら死んで欲しいよ」
 それから彼女たちは、いかにその店に集まる男たちがセンスがなくて気持ち悪いか、という話に打ち興じたという。誰も店の名前を知るものはなかった。
 Gさんは話を聞いていて逆に気持ちが悪くなり、そのうち寒気がしてきたという。そして最後には、よほどカミングアウトしようかと思った。なぜなら彼の財布には、まさにその店の会員カードが入っていたからだ。
 そんなわけでGさんは、職場を移ったばかりだというのに「もうやめたいです。店に帰りたいよ」とうめくことになった。
 店では、アニメイトに行くことは別に普通のことである。会員カードを持っている人間は他にいくらでもいるだろう。けれども、彼女たちにとってはアニメイトに行く人間は即オタクでしかもキモい、ということになる。
 基本的な法則は、オタク度の薄い人間が自分より濃い人間を見ると、その人を確実にオタクとみなす、というものである。結局誰がオタクに見えるかは、その人の立っている位置によってまったく異なるようである。

Gさんが書いた小説

 そして、またしてもGさんの話。
 僕はこれまでこの連載で、Gさんを「パロディの人」として紹介してきた。実際、作品や状況にツッコミを入れまくる彼の行動は、まさに「パロディの人」にふさわしい振る舞いだと思えた。
 ところが、彼といっしょにあることをやり始めて、「これは俺が少し単純すぎたかな」と考え直さざるを得なくなった。というのも、Gさんは確かに「パロディの人」ではあるのだが、それと同じぐらい、あるいはそれ以上に「オマージュの人」でもあったからである。
 彼といっしょにやり始めたことというのは「創作」である。
 今年の1月だから、今から3か月ほど前のことになるが、ある日、店の休み時間に、Gさんがゲームの構想について話し出した。内容についてはここには書けないけれど、アイデアが非常に面白かったので、思わず「実際に作ってみたら」と言ってしまった。取材をしていて、ゲームを作るためのソフトに思い当たるものがあったということもある。それなら、いっしょにアイデアを出しながら作らないか、というふうに話が発展していった。
 この話をした後、実は小説を書いているんだ、とGさんが教えてくれた。ぜひ読んでみたい、と言って、読ませてもらったのが『現の証拠』という作品だった。
 読み終えた僕は、まったく正反対の二つの感情に引き裂かれた。
 面白い小説だった。文章は読みやすく、キャラはよく動いて魅力的だし、台詞回しも気が利いている。作品世界も整合的で無理がない。世界観もよく練られていて、この点については感嘆せざるをえなかったくらいだ。
 しかし、手放しでこの作品を賞賛する、というわけにはいかなかった。なぜなら、それがあまりにも奈須きのこ(*1)の作品に似ていたからである。
 僕はGさんに率直に自分の感想を述べた。するとGさんは少しショックを受けたみたいだったが、やはり素直に、奈須きのこの世界が大好きなのだと言った。
 つまりGさんは、激しく「オマージュの人」だったわけである。
 Gさんは僕が彼を「パロディの人」として見ていたことにも不満を抱いていた。自分が他の作品のおかしなところにツッコむのは、パロディというよりは、同じように作品を作るものとして、その作品世界の整合性のなさが許せないからなのだ、と言った。確かにGさんのツッコミは、作品世界の激しい破綻に焦点が合っていることが多かった。その他にも、初期設定を忘れたり、途中で出した伏線を回収しなかったりすると、容赦なくツッコミが入っていた。自分で実作するため、どうしてもアラが目に付いてしまい、厳しくなるのだ。
 もっともこれは、客観的で合理的な世界を好む「パロディの人」の特徴でもあるので、僕は彼がそうした資質を持っているという主張を引っ込めようとは思わない。
 どのようにして小説を作るのかという話を聞いていて、驚いたことがある。それは、彼が読んできた作家が奈須が読んできた作家と重なっていることだった。とりわけ菊地秀行の作品群をベースに物をつくっているという点で、二人の傾向は一致していた。つまりGさんが意識的に奈須をパクっていたというわけではなく、書きたいように作品を書いていたら無意識のうちに奈須作品に似てしまったらしい。
 奈須とGさんの間には、共通する文化的背景があった。それは広く言えばオタク文化ということになるのだろう。例えば戦後生き残った青年がサルトルやハイデガー、ドストエフスキーなどを読み漁った時、やはり彼らには共通する文化的背景があった。団塊の世代のために用意されたマルキシズムの書の数々は、やはり同じように共通の文化的背景を作っただろう。
 高度に発達した情報テクノロジーと現実と見まがうほどに進歩したバーチャルリアリティの世界。こうした社会的な背景でオタク文化は成長し続けている。僕たちが嵌っているモンハンにしても、このような流れとは無縁ではない。そして、奈須の作品もGさんの作品も、ともにこのオタク的文化背景から滋養を受けて生み出されている。
 もっとも、奈須とGさんでは年が10歳ほど離れているので、自分の作品世界を練り上げていく方法論が違っていた。
 奈須がもっぱら使っていたのは、「テーブルトークRPG」(TRPG)の手法である。奈須は自分で自分の作品世界の用語辞典を作るほどTRPGにはまり、そこに自らの妄想をぶち込んで世界を構築していった。
 TRPGの面白さは、設定を作って他人とともにプレイすることで、「他人はこんなふうに行動するんだ」という経験を多く持つことが可能なことだ。このようにして他者と出会い、従来の失敗作にありがちな独りよがりの世界から脱却し、自分なりのリアリティを獲得することができる。これはまた、コンピュータだけに依存するドラクエのようなRPGゲームとも異なる側面である。
 架空世界における他者との出会いという点では、Gさんが10代の頃には、もうオンラインのRPGがあった。
 技術の進歩はすさまじいもので、それまで空想でしかできなかったキャラ設定などが、モニター上で細かく決められる。体形から髪の色、肌の色、顔の形まで、無数の選択肢が電脳空間上にあった。Gさんは自分の妄想で作り上げたキャラを電脳世界に持ち込んだ。そこで多くの他者と出会うことで、Gさんのキャラクターは独特のリアリティを持つことになった。
 『モンスターハンターポータブル 2nd』のオンラインにも彼は自分のキャラを持ち込んだ。やはり狩猟笛と弓を扱う狩人である。
 ある日、オンラインで知り合ったキャラと狩りに行くことになった。そこで得意の狩猟笛を持っていくと「もっと強力な武器はないのか」とチャットで不満を言われた。そこで弓を持ち出すと「そんな弱い武器じゃ話にならない」と、ともに狩りに行くことを拒否されたという。
 その時Gさんのキャラが残したのはこの一言だった。
 「どうやら君の心に僕の笛の音は届かないようだ」
 
 そんなわけで、2週間に1回ほどGさんの家に行って、アイデア出しのネタ会議をした後、いっしょに狩りをする、というのがこのところの習慣になっている。彼とのゲーム創作がどのように転がっていくかは、この連載の中で報告していきたい。

*1 奈須きのこ 小説家、シナリオライター。『Fate/stay night』などのゲーム作品でシナリオを担当。小説作品に『からの境界』(講談社、2004年)などがある。

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