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オタクとは何か? What is OTAKU? 大泉実成
第7回 オタク修行篇4 そして異変は起きた。
オタクたちの宴

 オタク店員見習いの大泉は、店の諸先輩方に誘われてカラオケ(忘年会)に行ってまいりました。
 取材者としてはたいへんありがたい展開ではあるが、何せオタク系カラオケの経験がまるでないので、どのように振る舞っていいのか見当もつかない。みんな車で出かけるので、酒はどうするのかと思ったら誰も飲まないという。飲まずにカラオケをやるなんて考えたこともなく、45を過ぎて新たな体験をすることになった。みんなフリードリンクのクリームソーダなどをガツガツと飲んでおり、酒の代わりに糖分に酔うという感じ。ハチミツで酔ったようになっていたアフリカの先住民とか、刑務所の中で支給される貴重な甘いものに酔っていた花輪和一などの体験を思い出した。
 『プロジェクトA』のテーマで始まり『ふたりはプリキュア Max Heart』で締めるという展開で、朝6時近くまでみんなで歌いまくった。僕自身、2004年に『萌えの研究』のためこの手の取材を始めて以来、歌いたい歌がたまっていたようで「鳥の歌」(『Air』テーマ)、「ハレ晴レユカイ」「God knows...」(以上『涼宮ハルヒの憂鬱』)他、取材者にあるまじき態度で歌いまくった。非常に楽しく、まったく違和感がなかったので、物書きとしてこれでいいんだろうかとか、俺は本当に非オタクなんだろうかなどとつかの間自問自答しつつ、「この際もうどうでもいいやあ」と完全に開き直って歌いまくったのだった。
 さて、そこで「パロディの人」と「オマージュの人」である。
 前回、僕はオタクを「パロディの人」と「オマージュの人」に漠然と分けてみた。無論この特徴は創作者になって現れるものであるし、今このカラオケに参集している20代前半の若い職場の先輩たちがそのような作品を生産しているというわけではない。しかし作品は作らなくてもそうした資質は現れる。「オマージュの人」はその初期には自分が好きな作品について延々とその思いを「語る人」であろうし、「パロディの人」は作品に突っ込みを入れてオタ話で人を笑わせることが好きな「ツッコむ人」であろう。それはこのカラオケの場でどう表現されるのだろうか。

センチメンタリズムの逆襲

 この日、驚かされたのはOさんの存在であった。
 Oさんについてはギャルゲー派の重鎮として何度か紹介したことがある。この人は、僕が長らく理解できない『マリアさまがみてる』の大ファンであり、一度じっくり話を聞きたいと思っているところなのだが、この日、その片鱗を見せてくれた。
 何よりすさまじかったのは、この人が男性としては非常に音域が高く、女性の声優さんとまったく同じキーで歌えるということだった。「Neko Mimi Mode」(『月詠?MOONPHASE?』テーマ)だの「いちごコンプリート」(『苺ましまろ』テーマ)だの、「ドリルでルンルンクルルンルン」だのが情け容赦なく次から次へと繰り出される。目の前では小学生女子キャラと化したOさんが無心で歌っている。恐ろしいことに、歌っている時のOさんには完全に女子キャラが降りてきているのだ。だから目をつぶっているとキャラの女の子の声にしか聞こえない。ところが目を開けると職場では仕事熱心な先輩男性である。これはけっこうきた。目をつぶれば天国目をあければ地獄というわけで、転げまわって笑うことになった。
 そして、ああ、こういう嵌り方もあるのか、と思った。男であるにもかかわらず、作中の女性キャラの気持ちになりきって歌う。完全に感情移入してしまう。これはまさにオマージュの人の面目躍如である。この時「語る人」は「なりきって歌う人」に形を変えているわけだが、底にあるのは作品とキャラに対する限りない愛である。「ああ、やっぱりオマージュの人だなあ」と僕ははなはだ感心することになった。
 そして、この能力があれば、あの女ばかりの学園生活を描いた『マリみて』も存分に楽しめるのだろう、と舌を巻いた。
 予想もしていなかった事態に遭遇し、ノンフィクションライター大泉は、「まったく現場にはとんでもない人がいるもんだなあ」と、改めて事実の力を崇めたのであった。

 オマージュの人の武器が「なりきり」だとすると、パロディの人の武器は「アイデア」「広大な知識」である。45歳の大泉は、まさか23歳のGさんと、カラオケで「バロムワンのテーマ」を合唱することになるとは思わなかった。「百獣戦隊ガオレンジャー」など、戦隊ものを面白く歌って人を笑わせるという点においては、やはりパロディの人の右に出るものはいない。
 また、誰かが歌うとその特徴をうまく捉えて、面白いことを一言いう。ここには評論の側面もあり、竹熊健太郎もそうなのだが、パロディの人の中には非常に冷静な評論家が住んでいるように思える。しかもその一言が即妙なので場が盛り上がることになる。
 興味深かったのは「Quiet Night C.E.73」で、これはガンダムシードのヒロイン・ラクスの歌なのだが、前回紹介したオマージュの人・Uさん(もちろん男)がまったくのなりきりで歌うと(ああ、この人も)、パロディの人・Gさんがすかさず「エル、オー、ブイ、イー、ラブリー、ラクス」と掛け声をかけるという連携で、実に見事であった。
 オタク世界は、パロディの人とオマージュの人がうまく絡み合ってこそ回るのだというのが、この夜のしみじみとした実感だった。 

 この日のカラオケで、もうひとつ驚いたことがあった。
 『Air』の作中歌に「青空」という名曲があり、かねがね歌ってみたいと思っていたのでオーダーしようとしたところ、Uさんに止められたのである。「青空」を聞くと、クライマックスのシーンを思い出して、自分は多分泣いてしまうから、というのがその理由であった。
 若いとはいえ、もはや20代のむくつけき男であるUさんにこのように言われて、僕はしばし物思いに沈むこととなった。
 考えていたのは、「センチメンタリズムの逆襲」とでも言うべきものについてである。
 ギャルゲーの世界では、時折すさまじいセンチメンタリズムと出会う。あきれるのと紙一重のセンチメンタリズムで、しかもそれがクライマックスに使われていることが多く、それゆえあまたの成人男性の顔を涙でぐしゃぐしゃにしている。つまりこの感動こそがギャルゲーの核なのだ。
 なぜこのようなセンチメンタリズムが、立派な社会人として日々権謀術数の中を生きる男どもに希求されるのか。いや、むしろ、権謀術数の中に生き、それゆえ行き場のないセンチメンタリズムが抑圧されているからこそ、男たちは、それこそ「女の腐ったような」じとじとしたセンチメンタリズムを求めるのだろう。現代社会では、センチメンタリズムというのはどの局面でも抑圧されるばかりで、噴出する場がないのである。そういう意味では、男という生き物の本質は、ひどくセンチメンタルなのかもしれないと思ったりした。

モンハン2に嵌る

 そして、異変は起きた。

 それは取材現場や人間関係などにではなく、まさしく僕自身の中で起きた。
 おかげで、半月以上もブログの日記すら書かなくなってしまった。とても楽しんでいた自分としては、まさに非常事態である。
 と言っても、たいそうなことが起こったのではない。『モンスターハンター2』というゲームに嵌ったのである。タイトルどおり、巨大な竜などのモンスターを狩るゲームである。
 オタクコミュニティの中にいたら、あるゲームに嵌ることになってしまったという、ある意味で最も起こりそうなことが起きただけだともいえる。
 それをなぜ異変と言い立てるのかというと、この連載の根本的なテーマの一つであった、
 「俺はオタクなのかオタクじゃないのか」
 という問題が、このゲームに嵌って以降、もうどうでもよくなってしまったからである。
 「俺はやりたいからやってるんだ。これはもう誰にも止められないんだ。オタクだろうと何だろうと、呼びたいやつは好きなように呼べ」
 このような心境になった後に「自分はオタクなのかそうでないのか」を問い続けるのはなかなか難しい。

 もともと、2004年に秋葉原に取材に行った時、えらく人だかりのしているゲームの展示があるなあ、と思って見たのがきっかけだった。萌え系の取材をしている時だったので僕の視覚は華やかな色に慣れ親しんでいたわけだが、そのゲームはやけに画面が灰色っぽいなあと思ったのを鮮明に覚えている。キャラの女の子たちとのきめ細かい情緒のやり取りを求めてアキバにやって来る人間が、一方でこのように殺伐と激しいものを求めているのだ、ということが印象的だった。無論、僕自身は釣りだの狩猟だのが大好きで世界の先住民取材で顰蹙を買っているような人間なので(釣り人がうようよいる日本から海外に行った釣り人はどうしてもしみったれた釣り方でせこい人間に見られてしまう)、そういう気持ちはひどくよく分かる。そんなわけで2006年の初頭に息子が欲しいと言った時、金を半分ずつ出し合って買うことにした。
 まず息子が始めて、一時はかなり嵌り気味になったのだが、モンスターが怖かったらしく途中で挫折。その後僕もやってみたが、やけに複雑な世界で憶えなければならないことが山ほどある。アイテムの数もやたらと多いし「調合」などという何と何を合わせていいやらよく分からないものもある。おまけに操作が煩雑で分身は思うように動いてくれない。モンスターの動きも読めない。そんなわけでしばらく放置してあった。
 転機は取材現場にあった。
 オタク店員見習いとして常々先輩たちの話に耳をそばだてているわけだが、まずGさんがオタク芸として「モンスターハンター2の村長の真似」というのをやっていた。モンハン世界で語られている不思議な日本語(間違ったハナモゲラ語みたいな感じで、「はらすぃーた」と話しかけてくる。走っている時は、ずっと「てんしゃごてんしゃごてんしゃごてんしゃご」と言っている)に思わず爆笑。ヴィジュアルもかなり似ている。そのネタで盛り上がっているうちに、店の先輩の大半がこのゲームの経験者であることを知り、家に帰るとあわてて片手剣の素振りを始めたのである。
 生来の不器用ものでアクション系のゲームは苦手なのだが、狩猟の世界が好きというのがトリガーになって、チンピラモンスターを何とか狩れるようになる。こうやって徐々に面白くなってきた時、最初の壁であるイャンクックというやつにぶつかった。これが襟巻きを巻いたモアみたいな巨大な鳥で、それまで出くわしたやつに比べると格段に強い。数十時間の間煮え湯を飲まされ続けていたが、店の先輩たちに愚痴ると山のようなアドバイスと激励の言葉。その言葉にしたがって年末もずっとやり続け、年が明けて2時間後についにこれを撃破。すると、もはや止まらなくなってしまった。どうやら複雑なゲームほど中毒性も高いようだ。

妄想を生きる人たち

 次に襲ってきたのは妄想の嵐だった。
 それは、取材の途中で車に乗っていたり、店で単純作業をやっていたりする時に襲ってくる。
 僕は今オフラインで狩りに行っているのだが、このゲームにはオンライン部門があり、そこでは4人でパーティを組んで狩りに行く。ネットでその動画を見ていたら、『風の谷のナウシカ』の蟲使いを思い出した。彼らは組織的に王蟲を狩る技を編み出して、あのどでかい王蟲を狩っていたという設定だったが、あんなものどうやって狩るのだろうという疑問を僕は抱いていた。ところがモンハン2の動画を見ていると、4人でチームワークよく巨竜に挑む姿が、王蟲を狩る蟲使いたちの姿とダブってくるのだ。竜を狩る時にはいったいどうしたものかとあれこれ頭を悩ますわけだが(物理的にはまず不可能と思われる)、そこはゲーム世界なのでさまざまな手練手管がある。きっと蟲使いたちもいろいろと頭を悩ませ狩っていたんだろうななどと考えるともう妄想は止まらない。脳の中で、僕はチームを組んで王蟲を狩りに出発してしまう。ナウシカの世界に、モンハン2の世界が一挙になだれ込んでいく。
 この妄想が反転して、逆に、モンハン2の世界に、ナウシカの世界がなだれ込んできたらどうなるのか、と考える。あのすさまじい大戦にこの世界が巻き込まれていったらどうなるのだろう。この辺境の竜狩りの世界に、巨神兵のような世界を滅ぼす化け物が現れたら、竜たちはどう反応するのか。その妄想にどっぷりとつかるのが、限りなく心地よいのだ。
 やがて、僕の頭の中で世界大戦はどんどん進んでいき、映画みたいに断片的なシーンが流れては消えていくようになった。一つの辺境の竜狩りの村で、問題児の眼鏡君が世界大戦に巻き込まれていく。100回くらい死にそうな目に遭うが、そこは妄想なのでしぶとく生き延び続ける。水木しげるのように最前線に叩き込まれ、そこでさまざまな経験をして成長していく。しかしそこは最前線であるため、巨神兵も巨竜もちゃんとやってきてしまう。そこで少年の見たものは? 大戦はどう帰結するのか? そして少年の運命は? とても人様にはお聞かせできないような、稚拙でとめどない妄想が流れていく。
 店の先輩たちとこうした妄想について話し合ったところ、それぞれが楽しい妄想世界にはまり込むのを日常としていることがわかった。僕の例は単純で初歩的なものだと思うが、先輩たちの話を聞いていると、オタクを「妄想を生きる人たち」と定義してもあながち間違いではないのではないかと思う。この妄想の発生や構造については、十分に検討してみる必要があるだろう。
 それにしても、自分の中からこういう妄想がにじみ出てくるとは。どうやらこのミイラ取りは着実にミイラへの道を歩んでいるようである。

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