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オタクとは何か? What is OTAKU? 大泉実成
第6回 オタク修行篇3 パロディの人、オマージュの人
 前回、Gさんについて書き終わった後、突然「オタクは大きく『パロディの人』と『オマージュの人』に分けられるのではないか」という考えが湧いてきた。
 「パロディの人」というのは竹熊健太郎を見ていて考えた言葉である。パロディを作るためにはその世界の全体構造を論理的につかみとる必要がある。彼らはいわば「知の人」で、全体構造を的確につかむ能力に長けている。だからこそその世界からの「ズレ」に敏感なのである。そして意図的に世界を「ズラシ」て作品を作る。竹熊の『サルまん』は、一度あるタイプのマンガの典型例を的確にかたどって見せた後、その例を意図的にズラシていくことで笑いを作っている。
 もっとも、「パロディの人」がはじめからこのようなことをしているわけではない。初期の段階で、この人は様々な作品にツッコミを入れて人を笑わせる「ツッコミの人」である。あるいは「オタ話の名人」と呼ばれているかもしれない。あなたの周りにこのような人はいないだろうか。この人が、創作段階で自分の資質をうまく伸ばすことができると「パロディの人」になるのである。
 前回原稿に書いたGさんは明らかに「パロディの人」で、非常に理知的で作品に絶えずツッコミを入れ続ける。そこに笑いが発生するので、Gさんは常にグループの人気者であった。
 なぜ突然こんなことを考えたのかというと、今回書くUさんが、激しく「オマージュの人」だったからである。

「人間はみんな変態です」

 僕がUさんのことを強く意識するようになったのは、店に入って1か月くらいのことだった。
 ここは、ギャルゲーをやる人とやらない人に分かれているんだなあ、と気づき始めたのがこのころだった。仕事が終わり、いつものように解放感と高揚感につつまれた先輩たちが、帰り支度のためバックルームに戻ってくる。すると、楽しい趣味の話に興じる短い時間がやって来る。
 そこで「ギャルゲーをやるやつは変態だろう」というような話題になった。非ギャルゲー派によるギャルゲー派へのからかいである。つい先ほどまで助け合ってともに働いていたという親密さがあるためか、いっそうしつこくギャルゲー派に回答を求めるのである。その急先鋒がGさんだった。その問いは、ギャルゲー派の重鎮Oさん、そして大家のUさんに向けられている。
 Oさんは表面的には実に穏やかな人なので、微苦笑して済ましている。「お前変態だろう」と面と向かって言われて、どう答えるのかというのは人生の最も難しい問題の一つであるにちがいない。どんな答えが出るのか、ということで、みんなの意識は大家であるUさんに向かった。
 この時Uさんは、実にしみじみと実感のこもった口調で、
「人間はみんな変態なんだよ」
 と言ったのである。これにはさすがのGさんも返す言葉がなかった。
 実に透徹した認識であった。この一件があって以来、僕はUさんを尊敬するようになったのである。

 そんなわけで、Uさんとは様々な話をするようになった。
 前作の『萌えの研究』にも書いたのだが、萌えというのは意外と中高年と相性がいいのではないかというのが僕の意見だ。いい加減人生にすりきれてきて、体力もなくなっているし、いつも仕事でくたびれている。正直、3次元の女性の相手をするのは日に日につらくなってくる。
 45歳になった大泉がこのようなことをぶつぶつと述べ、「もう3次元はいいです。今後は2次元の女性とともに生きて生きます」と、さもオタクふうなことを言った。これは一面で、とても本格的なオタクとはいえない自分の戯言のようなものでもあった。すると23歳のGさんは、なんでもないことのように、
「大泉さん、実は3次元と2次元の間には、境なんてないんですよ」
 と言った。
 以来、僕はこの問題について、少しまじめに考えるようになった。

作品世界への愛情と現実世界への怒り

 その世界に沈潜し没入しなりきる。
 時に悟ったようなもの言いをするUさんであるが、好きな作品について話し始めると、よくこうした状態になった。熱く延々と自分の思いを語り、とどまるところを知らない。僕がUさんを「オマージュの人」と呼ぶゆえんはここにある。
 創作段階で、影響を受けた作品へのオマージュをささげるタイプの創作者は、初期の段階ではその作品の熱心な信者(しかも超帰依系の)として、熱く語る人だろう。「パロディの人」のレベル1が「ツッコむ人」であるなら、「オマージュの人」のレベル1は「語る人」ということになる。
 しかし、そこまで作品に入り込んでしまう、その過剰な妄想力はどこから来るのだろうか。
 もちろんそれは人によるであろう。しかしUさんについて言えば、その力は、世界に対する怒りとも、ルサンチマンともつかぬものからやってきているように見えた。
 Uさんは同じ作品を愛好していたり、心を開いた人には非常に親切で限りなく温かい人だったが、それ以外の世界に対しては実に否定的な見方をしていた。「粛清です」というのがUさんの口癖で、「またU君のネガティブ・パワーが最大値になってるよ」とよくからかわれていた。
 Uさんの怒りは、例えば、彼の愛する萌え系作品をカッターナイフを使ってディスクだけ盗んでいく者や、それらの作品をレンタルしてそのDVDをことごとく駄目にしてしまう者に向けられていた。そういう事件があったとき、Uさんは「今日は朝からぶち切れてます」「今ならエクスカリバー(『Fate』における必殺技)3連発のパワーが出せる」などとその怒りを表現した。彼の周りの空気はピリピリとし、彼がどのくらい本気で怒っているのかがよくわかった。
 心を許せない、大きくて理不尽な世間というもの。Uさんの怒りは、その世間にいつも囲繞されているという意識から来るのかもしれなかった。そしてその怒りが、彼を自分の愛する作品へとより深くもぐりこませているように僕には見えた。
 もっとも、その怒りが、Uさん自身の体に向かうこともあった。
 ある日、やはり朝からぶち切れていたUさんに理由を聞いてみると、鼻から目にかけてが痛くてしょうがないという。何か思い当たるところがあるかと尋ねると、ゲームから書き物まで、思い当たるところはありすぎるようだった。自業自得というところで、さすがのUさんも笑いながら切れていた。してみると彼の怒りの対象は、単なる世間というよりは、自分の身体も含めた、理不尽な世界そのものになるのかもしれなかった。
 世界と自分とのズレを調節するために怒りが発動し、その怒りは同時に彼が親密にしている作品世界への沈潜をうながす。そして作品世界に対する強い愛情が、さらに世界に対する怒りを強めさせる。この絶えざる循環が、「オマージュの人」の過剰な妄想力を引き出しているのではないだろうか。

オタク進化論

 「オマージュの人」について、今しばらく考えてみたい。
 彼は、はじめ自分の愛する作品についてその想いを延々と語る人である。そして作品世界に入り込み、その設定の中で妄想を繰り返すことによって、やがてオリジナルの物語を自分の欲望によって拡大しようとする。例えば長大なSS(*1)を書くのはあきらかにこのタイプである。ここに「その世界に沈潜し没入しなりきる」というオマージュの人の妄想力が発揮される。それを作品化するか否かはべつとして、オマージュの人は自分の気に入った世界を自分の気に入った方法で再生産しようとする。世界をズラすパロディの人に比べると、オマージュの人は世界を自分バージョンで再生産するタイプだと思う。
 僕が「オマージュの人」と言う時、いつも念頭にあるのは庵野秀明である。庵野は先行作品に対するオマージュをささげる監督として有名であり、彼の作品の中にはさまざまな先行作品の再生産が見て取れる。
 オタクの二つの原型として庵野秀明と竹熊健太郎を見るというのは、たいへんな作業であろうが、面白い仕事になるだろう。
 「オマージュの人、パロディの人」というこの考えは一月ほど前に思いつき、その原型になる文章を僕は自分のブログに書いた。するとさまざまなコメントをいただいた。
 無論、どのような人の中にも、パロディの人もオマージュの人も住んでいる。だからこの二つを厳密に分けてしまうことはできない、という点でわれわれの意見は一致した。そこで、鍋さんという方が次のような独創的な仮説を述べた。
 「パロディの人とオマージュの人は画然と分かれているわけではないということについて僕も同意見なのですが、オマージュの段階を経てからパロディの段階へ移行するという仮説が思い浮かびました。
 すなわち、最初に何かに熱狂的にはまることによってオタクになり、その後、ストレートにオマージュを捧げることに対する照れや、竹熊さんの言うような愛憎を伴う屈折などから、自分や対象を客観的に分析する視点をもつようになり、オマージュの人からパロディの人になるのではないか、ということです。
 これを生物学のアナロジーで言えば、オマージュの人からパロディの人が系統発生したのではないか、そして、オマージュの人が進化してパロディの人が現れたのではないか、ということで、これを検証してうまくまとめれば『オタク進化論』になるのではないか、てなことを考えました。『世代』という言葉もなにやら遺伝学っぽいですね」
 なるほど、と僕は思った。言われてみれば当たり前のことだが、どのようなオタクも先行作品と無関係に生まれることはないのだし、してみるとみんな何らかの形で先行作品へののめりこみの時期(オマージュ期)を体験しているはずである。
 つまり、オマージュの人というのは、あらゆるオタクの原型とも言えるわけである。
 その後オマージュを続けるのか、パロディに行くのか、それとも別な何かになるのか、というのを考えていくと、ある種の系統樹を作ることができるし、オタクの全体像が見えてくるに違いない。
 無論、オタク史全体を見渡して「オタク進化論」をまとめるというような力技が僕にできるはずはない。しかし、個体発生の中に系統発生が隠れているという進化論の有名な考え方からすれば、個々のオタクがオタクとしてどう進化するかという過程の中に、オタク全体の進化の過程も示されるはずである。無論厳密なものになろうはずもないが、全体像を得るためには有益なのではないか。
 また、情苦さんという方からは、非常に面白い問題提起をいただいた。コミケで売られている同人誌、あれはいったいオマージュなのかパロディなのか、というのである。
 これは難しい問題である。
 作品の大多数を占めるのは、昔なら「エロパロ」と呼ばれたものである。言葉からいえばパロディだということになるのだろうが、もはや性的な方面へずらすというあり方が定番化していてパロディの体をなしていない。かといって、オリジナル作品へのオマージュがささげられているのかといえばそうでないところもある。
 しかしこれは、「オタクとは何か?」というこの連載のテーマからすると、とても避けて通れない問いである。コミケにはまさに今を生きるオタクたちがやってくるのだし、彼らが求めているものが何なのかを問わないわけにはいかない。難しい問題だでおわりにできないのである。
 コミケの典型的な作品がどのような心理構造から作り出されるのか、そしてそれがどのような心理構造の人によって求められているのか。この二つのルポルタージュを通過した後、改めて「オマージュの人、パロディの人」について考える必要がある。
(つづく)

*1 アニメ作品やゲーム等の世界観・登場人物を使って、二次的に創作されたストーリーのこと。サイドストーリー、サブストーリーの略とも言われるが異説もある。

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