ミンマ・シェルパは30歳を過ぎて日本にやってきたわけだが、それまでもヒマラヤで登山隊のガイドをやったり、オーストラリアのスキー場でアルバイトをしたりと、多彩な経歴を持つ人物である。一時期は個人で貿易業を営んでいたこともある。カトマンドゥから米、野菜をバスやトラックに積み込んで出発する。タトパニという国境の村を通って、チベット側の町で運んできた作物を売る。それから今度は羊毛や布地、テレビ、時計、計算機、生活雑貨など中国製品を買い込んでカトマンドゥに戻っていた。
当時は部屋も借りてカトマンドゥと半々に暮らしていた、そのチベット国境の村タトパニへ私たちは小旅行に出かけた。今回は同行しなかったが、妻ツェリンの故郷でもある。
ヒマラヤ山脈を深くえぐるように流れる川、その流れに沿ってつづく泥道、その道に面して点々とつづく民家や商店。そんな谷間の寒村を、ミンマとぶらぶら散歩した。
粗末な食堂からおばちゃんがミンマを呼びとめた。あら久しぶりじゃない、ちょっと寄っていきなさいよ、とでもいったのだろう。
「少し座りましょう」とミンマが私をうながして店に入った。おばちゃんが半透明の酒を持ってくる。
「大倉さん、チャン知ってるでしょう? これはね、チャンの上に出てきたオツユです」
チャンとはどぶろくとよく似た白濁した酒である。各家庭で大きな樽に米を発酵させてつくるのだが、これはその上澄みだけをすくい取ったものであるという。
「普通のチャンよりね、4倍ぐらい高いね。こっちのほうがおいしい」
小一時間呑んで店を出る際、私が酒代を払おうとするとミンマは「いいです、いいです」という。
「お金、払わないの?」
「あのおばちゃんがね、『呑んでください』いったでしょ。だから払わなくていいね。本当はね、『ビール呑んでください』いったね。でも私は『チャンでいいです』いった」
自家製のチャンにくらべて、この山奥でビールは相当な高級品だ。店のおばちゃんは私たちに、それをタダで呑んでいけとすすめてくれたというわけだ。
道をさらに登っていくと、突然大型トラックの大渋滞が出現した。ネパール側からの輸出品を満載し、中国の税関手続きを待っているトラックの列である。この細い山道にちょっと異様な光景だった。トラックの脇を私たちは通り抜けていく。右手は川まで急な崖である。
「2年前かな、3年前かな、私の友だち、ここから車で落ちて死んじゃったね」
国境付近までくると、何をやっているのかわからないが、大勢の男たちが路上に出てにぎやかだ。ミンマの知り合いからひっきりなしに声がかかる。少し立ち話をして歩き出すと、すぐにまた別の人から声をかけられるという具合だ。
「ミンマさん、すごいね」
「ここは知らない人もいっぱいね。私の村に行けばみーんな知ってる。みーんな」
「みーんな」とは文字通りひとり残らず全員という意味らしい。
また店のなかからミンマが呼ばれた。雑貨屋にひとつだけテーブルがあり、そこで日焼けした中年男が一杯やっている。私たちも誘われてしばらくつきあった。
雑踏をかき分けるように歩いていくと、急流に橋がかかっていた。橋の手前にネパールのイミグレーションがあり、むこう側には中国のそれだ。
「あそこにチベットの町、見えるでしょ? 私がトレード(貿易)の仕事しているときね、あそこまで行ってた」
私たちはのんびりと引き返した。時折チベットからネパールへ物品を運ぶトラックがうしろからやってきて、渋滞中の対向車とギーギー接触しながら山道をくだっていく。
背後から男が妙な声をあげながら私たちに近づいてきて、ミンマにじゃれついた。さっき雑貨屋で呑んでいた男だ。
「あー、もうヨッパラッタ。ヨッパライですねえ」
ミンマが笑って私にいう。
彼らが一軒の民家にふらっと入るので私もつづくと、なんとむこう側の壁がない。
「ここはヨッパライの家。でもこわれちゃったね」
ヨッパライはへらへらと笑った。
「ミンマさん、いいのかな?」
「いいです。大丈夫」
戸惑う私を見てミンマは笑う。
「これ、ネパールね。いいでしょう? 日本ではちょっと無理ね、ハハハ」
宿を出るとすぐに、エンジ色の衣をまとった高齢の僧侶に出会った。ミンマは知っている人に会うと、ときには合掌、ときには握手、ときには軽く手をあげていたが、この僧侶には合掌しながら深々とこうべをたれた。私もミンマのうしろから一応手を合わせる。僧侶はミンマの手をいつくしむようにさすった。
この日も行く先々で人と会い、立ち話をし、あるいはチャンを呑んで過ごした。一体何をやっているのだろうと不思議になるが、とにかくみんなうろうろしているのだ。
夕方、同じ老僧とまたばったり会う。今度は「ついてきなさい」とミンマと私を連れて近くの民家に入った。奥の寝室まで進み、一方のベッドの上に僧は悠然とあぐらをかいた。私たちが反対側のベッドに腰をかけると、老僧はミンマにむかって何やら語りはじめた。
「誰の家なの? ラマ(僧侶)の家?」
私は外に出ると開口一番、ミンマに訊いた。
「ちがいます。女、いたでしょう。あの人の家ね」
「えー、じゃあ他人の家に勝手に入っていったわけ?」
「そうです」
「変じゃないの? それにあの部屋って夫婦のベッドルームでしょう?」
「ハハハ、日本人だったらびっくりするね」
ミンマがまたある家に立ち寄った。「おー、よくきたじゃないか」といった声がなかから飛んでくる。見ると、きのうのヨッパライだ。さあ、入れ、入れというわけで、私たちはカーペットの上に座った。ヨッパライは今日も酔っ払って楽しそうだ。
「これはね、熱燗です。バターの入ったロキシーの熱燗」
出された酒をミンマが説明してくれる。ロキシーも米が原料だがこちらは蒸留酒で、日本の酒でいえば焼酎に近い。これを鍋で熱し、バターを溶かしたものが私たちにふるまわれた。
「ヨッパライの家は、ほら、こわれちゃったでしょ。ここはヨッパライのお姉さんの家ね」
彼は居候ということらしい。しかしそのわりには昼間から呑んでご機嫌である。
「大倉さん、ちょっと待っててね」
グラス1杯をほしたところで、ミンマは何かを思い出したらしくそういって出ていった。
ヨッパライのお姉さんの家は、長方形のやけに大きな部屋がひとつあるだけだった。その三つのコーナーにはベッドがひとつずつ配置され、もうひとつのコーナーが台所スペースとなっている。
ヨッパライと私と、ほかにふたりの男たちは床で酒を呑み、台所にはふたりの女が立っている。ひとりはお姉さんだろう。彼女たちは男どもの様子を遠くから見ていて、グラスの残りが減ってくると、黒いあぶらぎった鍋を手に“バター熱燗”をつぎにこちらにやってきた。どこの子どもか知らないが、5、6人が出たり入ったりしてさわぐ。
7年ぶりに日本から帰ってきて一番うれしいのは、昼間でも友人が集まっている場所があちこちにあり、いつでも呑みながら歓談できることだとミンマは語っていた。「日本ではね、ちょっとできないでしょう?」と。それはきっとこんな光景なのだろうなと思う。
ヨッパライはさかんにネパール語で話しかけてきた。通訳が中座してしまっているが、「ダイ(兄)」という単語だけはききとれた。「兄貴、呑んでくれよ」「兄貴、遠慮はいらないよ」などといっていたのだろう。
女たちが揚げたてのジャガイモを持ってきた。ヨッパライはそれにバターをていねいにこすりつけ、ひとつひとつ私に手渡してくれる。
「ダイ、うまいよ」
私は知っているネパール語をふたつ並べた。すると、ただでさえにやけたヨッパライはさらに相好をくずして、おそらくこんなことをいった。
「おっ、ネパール語ができるじゃないか! さあダイ、もっと呑もうよ。お姉ちゃん、お客さんに酒をついであげてね」
ミンマはいっこうに戻ってこなかった。また別のところで誘われて呑んでいるのにちがいない。このままここにいたら、日が暮れる前に私は酩酊してしまいそうだ。
(了)
