Web草思
ネパールの熱燗 大倉直
第1回 ジャパンマネーのゆくえ
nepal01.jpg ネパール・カトマンドゥ──。
 私の泊まっているホテルにミンマ・シェルパは訪ねてきてくれた。ミンマが東京からここカトマンドゥに帰ってきて、3年数ヵ月が経過していた。
 日本滞在中も年々その腹はせり出してきていたが、帰国後さらに急激に太ったようだ。
 「どうしたのー?」
 私がふざけながら彼のおなかをさすると、
 「そう、ちょっとね」
 以前と変わらない控えめな笑顔でミンマは笑った。
 近くの店でふたりしてチャイを飲む。
 ミンマは30歳を過ぎて日本へ渡り、カトマンドゥに妻子を残したまま、7年間も不法労働者として東京の飲食店を転々と渡り歩いた人物である。私とは、来日後すぐに勤めた新橋のビアホールで知り合った。彼は調理場の、私はホールのアルバイト仲間だったのである。
 浅黒い肌をした、小柄な男だった。仕事ぶりはきわめて実直で、日本人コックたちに命じられたことを黙々と、手際よくこなしていく。コックらにはミーちゃん、ミーちゃんとかわいがられていた。
──それでミンマさん、いまは何をやっているんですか?
 日本で稼いだ“ジャパンマネー”をつかって、その後の人生をどのように切り開きつつあるのか。ミンマと再会したらまず訊ねてみたいことだった。
 「何もやってないね」
 私はミンマの顔を覗き込んだ。冗談をいっているわけではないらしい。
──え、仕事は?
 「まだね、何もやってない」
 日本でしばしば私たちはいっしょに酒を呑んだが、その席でミンマは帰国したら小さな旅行会社をつくるつもりだとよく語っていた。ヒマラヤのトレッキングを目あてに、ネパールには世界中から旅行者が集まってくる。彼らを相手にした商売をするというわけだった。
 「ネパールに帰ってきたときはね、そのつもりだったんだけど……」
 ところが、過激な共産主義の一派が農村部を中心にテロ活動を活発化させはじめ、ネパールを訪れる外国人観光客が激減するという事態が生じてきた。
 「トレッキングの会社はね、いまどこでも全部大変でしょ。だから私の会社つくるのはやめた」
──家のほうはどうなりました?
 「家もね、ちょっとバッドラック」
 ミンマは日本滞在中にすでに土地だけは購入していた。そして「大きい家つくります。お客さんの部屋もつくるから、大倉さんもね、遊びにきてね」などといっていたのだ。
 しかし彼の帰国後、そのあたり一帯に警察がトレーニング施設をつくる計画が出てきたのだそうだ。いずれ警察に買いあげられることになるが、ミンマが買った値段の半分ぐらいしか払ってくれないだろうという。
 「私の土地、本当はいま誰かに売ってしまいたいけどね。みんな警察のプラン知ってるでしょ、無理ね」
 まさに踏んだり蹴ったりという話なのだが、ミンマは別段がっかりしているふうもなく、不幸そうにも見えなかった。
──毎日何をやっているの?
 「午前はね、イングリッシュ・スクールね。でも仕事じゃない。ソーシャル・サービス(社会奉仕)ね」
 カトマンドゥから1日バスに揺られ、そこから山道を2日かけて登ったところにある山村で、ミンマは生まれ育った。村人はすべて農民で、じゃがいも、とうもろこし、小麦、そばなどが主たる産物である。電気、水道はなく、夜は灯油ランプ、外出するときは乾燥した笹に火をつけて歩いた。
 ミンマは2年前に、弟といっしょに英語教室をつくったのだという。留学経験のあるネパール人に講師を頼み、教室の利益で太陽発電の装置を買う。それを故郷へ運び、非常に安く村人たちに譲るという活動である。ミンマはわずかな報酬でそこの事務仕事をしているとのことだった。
 「まだ全部じゃないね。少しの家でね、ライトがつくようになった」
──テレビがある家は?
 「まだないね」
 午前中は郷里のためのボランティア活動、午後は何をするのだろうか。
 「友だちのところに行ってね、お酒いーっぱい呑んだり、カードで小さいギャンブルしたりね」
 ぽっこりと突き出した腹をさすって笑う。
 「どこかに行けばね、3人、4人の友だちがいるでしょ。すぐにどんどん集まってくるしね、そういう場所があっちこっちにある。それがネパールに帰ってきて、一番いいことね。そこでおしゃべりして、お酒呑んで、それが一番楽しいね」
 夜や週末ということではない。平日の昼間でもいつでも仲間とおしゃべりができるといっているのだ。
──みんな仕事は?
 「していない。働いてる人もいるけどね」
 仕事をしていないって、それで生活はどうするの? と訊いても、「ネパールはね、みーんなのんびり」という以上の答えはついに得られなかった。ミンマ自身、仕事らしい仕事もせずに3年間毎日「のんびり」してきたわけだ。
──日本で働いたお金はまだあるんですか。
 「もうね、だいたいなくなっちゃった」
 笑顔に屈託はない。
 東京でミンマは月平均20万円の給料をもらい、10万を東京での暮らしにつかい、10万を妻に送金した。送った総額はおよそ900万円である。そこから妻子の生活費、購入した土地代金、ミンマの帰国後は彼の生活や交際の費用を引くと、もうそれほど残っていないらしい。何しろ3年以上ろくに収入がないのだから、金は減る一方だ。
 それでもミンマは「帰ってくるのが1年早かったかなあ」とのんきなことをいう。もう1年働いたって、こっちで遊んでいたら同じことだよと私はいい、ふたりで笑った。
──それにミンマさん、日本で酒を呑みすぎたんじゃないの?
 「でも働いたら、お酒呑まなくちゃねえ。そうしないと働きたくないでしょ。でもちょっと多かったかな」
 私はミンマのそうした大らかなところが好きだった。そもそも彼が日本で“金がすべて”の生活を送っていたら、私たちがこれほど親しくなる機会もなかったはずだ。
──どういう気持で帰ることを決めたんですか。
 「もう長く日本にいたからね、そろそろ帰りたくなった。それからね、弁当屋の店長がいつもはいい人なのに、誰かに怒るとほかの誰とも話さないね。何か訊いても『わかりません』ってね。私はなんにも悪いことしてないのに」
 日本で数多くの仕事をしたミンマだが、その最後は弁当屋だった。
──店長のことが帰ってくる理由だったの?
 「それが全部じゃないけど、ああいやだ、もうネパールに帰っちゃおうかなって思った」
 7年以上暮らした日本を離れる日は、そんなふうにして訪れたらしい。
 「いまは小さいレストランをやろうかなあ、思ってるね。トゥアリスト(旅行者)がきてもいいし、ネパール人もくるような店。私の奥さん、そこで働くっていってるからね。私の奥さんはいまは毎日、テレビばーっかりね。デブになっちゃった」
 自分だって友人のところで酒を呑んでるというのに……、と私は笑う。
 「レストランは奥さんね。私は紙の会社、やってもいいね」
 ミンマの兄弟たちは、和紙によく似た手づくりの紙をつくる会社を経営している。原料から紙をすき、それを洒落たノートなどに加工して外国に輸出しているのだ。業績は順調で、20人ほどの従業員を抱えている。
──お兄さんたちといっしょに?
 「私の会社。私と誰かひとりアルバイトね。自分が社長になるほうがいいでしょ」
 そういってニッコリした。
 「本当はまた日本に行って1年ぐらい働きたいけど、いまはビザむずかしいね。ネパールにいると日本行きたい。日本にいるとネパール行きたい」

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