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ビバ・メヒカーナ 大倉直
最終回 メキシコ女の旅立ち
mexicana03.jpg どことなくおどおどしていた小娘は、十年ですっかりあか抜けた三十代の女性に変身していた。体形もぐっとスマートになったように見える。
 「私もオバサンになりました」
 とファナは日本語でいって笑った。
 「オサム、いつも悪い言葉。もうツカレマシタ」
 安藤修はメキシコシティで、日本のマンガ本屋とマンガ喫茶を経営する人物である。その修と別れることをファナが決めたのは、一年前のことだった。
 以前から修がブタだのデブだのといってファナをからかっていたのは、私もよく知っている。それは修なりの愛情表現だったのだろうが、その幼稚さにファナが愛想をつかしたのだ。
 「それからオサムはすぐ怒る。家のそうじをしてないとか、えーっと……」
 ファナは辞書を引いてからつづけた。
 「オサムはシンケイシツ」
 ファナが修と知り合ったのは、彼女が二十歳のときだった。
──ファナはそれまで、日本人と話したことあったの?
 「イイエ、オサムがはじめてです」
──それまで何か知ってた? 日本について。
 「何もない。たぶんキモノ、カラテぐらい」
 修との会話は基本的にスペイン語だったが、それでもファナの日本語は十年で格段の進歩をとげていた。
 「もっと話せるようになりたい。私はいま学校に通って日本語を勉強しています」
──修と別れたんだから、もう必要ないでしょう? また日本人のノビオ(恋人)がほしいの?
 「ハッハッハッ。いいえ、ちがいます。私、日本が大好き。だから勉強します」
 彼女は修といっしょに三回日本へ行ったことがある。
──たとえば何が?
 「食べ物も、洋服も、人も。居酒屋も好きです。納豆も大丈夫」
 好きな日本食ベスト・スリーは寿司、ラーメン、すき焼きである。
 私たちはカフェの一隅で話していたのだが、「もう少ししたら私の彼氏がきます」とファナがいった。彼女には新しいメキシコ人のボーイフレンドができていたのだ。
 「彼氏は私より五歳若い。いまは私のほうが強いです」
 かつて修に罵倒されている姿を知っているので、「いまは私のほうが強い」というのがなんとも実感がこもってきこえた。
 ややウェーブのかかった黒髪に、メガネをかけたすらっとした青年がやがて姿を見せた。彼は日本のマンガが好きで、修のマンガ本屋にしばしば顔を出していたことがファナと知り合うきっかけだった。「ファナが恋しい」と泣き言をいっていた修には皮肉な話だが、彼がこのふたりを結びつけたわけだ。
 ファナはいま日本語教室に通うのとは別に、高校の通信教育を受けているという。
 「私は高校行ってません。高校出ていないと、安い給料、疲れる仕事しかないでしょ。だから通信で勉強します。それが終わったら新しい仕事を探します」
 あとは数学の単位さえ取れば、いよいよ修了である。
 「歴史や英語はテキストを読めばいいけど、数学ひとりで勉強、むずかしい。いまはノビオが私の先生です」
 となりに座った恋人を見ながら、ファナは笑った。
 「チョク! 久しぶりやなあ。元気ぃ?」
 モニカの笑顔と、なんともかわいらしい関西弁は昔のままだった。
 タスコでアクセサリーのデザイナーをやっている西田孝志と再会したあと、メキシコシティに戻り、彼がかつて設計、新築したペンションに私は泊まった。
 玄関から入ったところが、宿泊者たちの自由に集えるラウンジとなっている。そこに置かれたソファ、テーブル、あるいは部屋のベッドなどは、見るからに孝志の趣味で選んだ重厚なものだった。また大きな吹き抜け、階段の配置なども、やはり孝志が練りに練ったデザインなのだろう。
 その三階にある自宅にモニカは暮らしていた。よちよち歩きの子どもを連れて、彼女がおりてきた。
 四年前に夫の孝志が突然この宿を去ったあと、モニカにも新しい恋が訪れた。わずか数ヵ月後だったという。メキシコシティでアルバイトをしながらこのペンションに長く住んでいた原沢という日本人と、交際をはじめたのだった。やがて再婚、そして女の子をもうけた。
 翌日、私はモニカとふたりで昼食を食べにいく。
──西やんと別れてまた日本人と結婚したのは、日本人の方がいいっていうこと?
 「いや、そんなん考えるもなかっただけ、ハハハ。でももし原沢さんと別れたら、次はメキシコ人とつき合うと思うわ」
──へえー、なんで? 日本人とメキシコ人のちがいって何?
 「日本人は冷たいと思うわ。西田のいやなところ、原沢さんのいやなところ、ちがうで。でも冷たいと思う、ふたりとも」
 今日の君はとびきり美しいねとか、君のシャツとってもすてきだよとか、そういう台詞をいってくれないという意味だろうか。
 「それも時々ききたい。やっぱり女やからな。でもそういうことだけやなくて……」
 日本語がうまいとはいえメキシコ人のモニカの口から「やっぱり女やからな」などといわれると、ついおかしくて笑ってしまう。
 「たとえば日本人は友だちと会うとき、自分ひとりで行くやろ。奥さんを連れていかへんやろ、日本人は。でも私はいっしょに行きたいな、やっぱり」
 たとえばそれが、孝志にも原沢にも共通する「冷たさ」だと彼女はいう。
 「そやけど、日本人でもメキシコ人でも長いこといっしょにおったら、いろいろケンカあるんやろな。私、メキシコ人とつき合ったことないからな、ハハハ」
 そうか、日本人としか交際したことがないのか。モニカは十六歳で孝志と出会い、十七で結婚しているのだ。
──メキシコ人の悪いところ、なんだと思う?
 「お酒をいっぱい呑むとかな、女と遊ぶとかな。あと怠け者も多いと思うわ。そやけど、しっかりしたメキシコ人としっかりした日本人やったら、しっかりしたメキシコ人の方がええと思うわ」
──なんで?
 「なんとなくそんな感じ、ハハハ」
 本当にモニカは絶えずケラケラと笑って楽しい人だ。
 昔といま、どちらがしあわせかと訊いたら、「そやなあ、いまの方がしあわせやな」という。
 「いまはペンション、私のものやろ。昔は西田とケンカしたら追い出されるかもしれない。いまは私が追い出したらええやろ。それ、ちがうやろ。私の方が原沢さんより強い立場やからな。ハハハ」

 ファナとモニカ、三十代に入ったふたりのメヒカーナ(メキシコ女性)は軽やかに新しい人生を歩きはじめていた。
(了)

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