Web草思
新・ヒトという生きもの 柳澤嘉一郎
第15回 おばあさんは間もなく帰ってくるだろう
リスクの高い人、低い人

 散歩にでたまま家に帰れなくなったアルツハイマーのおばあさんも、間もなく家に帰れることになるだろう。治療の見込みのなかったアルツハイマー病にも、ようやく治療の見込みがみえてきた。
 100年ほど前、アルツハイマー博士が発見したアルツハイマー病は、ごく稀な家族性の遺伝病だった。それが今、高齢になれば誰でもなりうる病気とされ、死因の上位をしめている。
 前回も述べたように、その病因は、脳の組織に沈着したアミロイド斑だという。脳の神経細胞にはAPP(アミロイド前駆体タンパク質)とよばれる物質があって、代謝の過程で分解、排出される。それが遺伝的にうまく分解されなかったり、あるいは、高齢になって分解されにくくなるとβアミロイドという分子が脳に溜まってくる。溜まったβアミロイドは凝集、沈着してアミロイド斑とよばれる塊をつくる。それが周りの神経細胞の機能を妨げ、死滅、脱落させるのだとされている。
 APPの分解には二通りある。その大部分はαセレクターゼとよばれる酵素によって切られて分解される。この場合にはβアミロイドは生じてこない。一方、わずかであるがβセレクターゼとγセレクターゼとよばれる二つの酵素によって分解されるものもある。この場合にβアミロイドが生じてくる。
 APPやこれらの酵素をつくる遺伝子に突然変異がおこったり、あるいは、高齢になってβ、γセレクターゼによる分解がおこりやすくなると、βアミロイド斑が溜まってアルツハイマー病になる。
 突然変異によるアルツハイマー病は若年性、家族性で、はっきりと遺伝する。ところが、高齢になって発症するものは誰にでも同じようにおこるもので遺伝とは無関係、と一般に思われている(ようだ)。だが、これにもやはり遺伝子が関わっている。高齢のアルツハイマー病にも、なりやすい人となりにくい人とがいる。
 高齢での発症にはいくつもの遺伝子が関与していて、若年性の場合のように、はっきりした遺伝性を示さない。けれども、なかにはAPOEとよばれる遺伝子のように、かなりはっきりと、そのリスクの上昇に関わっているものもある。それはもともと脂質の代謝に関わる遺伝子であるが、アルツハイマー病の発症にも関連している。
 遺伝子APOEがつくるアポリボタンパク質E(apoE)とよばれる物質は、主に肝臓でつくられて、コレステロールや脂肪酸をさまざまな臓器へ運ぶ役割を担っている。この物質は脳でもつくられていて、神経細胞に栄養を与えるアストロサイトとよばれる細胞などから分泌され、損傷した神経細胞の修復などに使われているらしい。
 apoEは299個のアミノ酸からなっている。種類が三つあって、それらはアミノ酸が1カ所だけで違っていて、E2、E3、E4とよばれている。大抵の人(ほぼ80%の人)はE3で、E2、E4の人は少ない。
 ヒトの細胞には相同染色体とよばれる同じ種類の染色体が2本ずつある。遺伝子はその2本にそれぞれに対になって存在する。したがって、E3の人は遺伝子APOEをε3/ε3という風にもっている。これを遺伝子型という。この人たちは高齢になっても脳にβアミロイドが溜まりにくい。この遺伝子型の人がアルツハイマー病になるのはわずか3%だという。
 一方、遺伝子型がε3/ε4の人はその10%が、遺伝子型がε4/ε4の人は、なんと90%の人がアルツハイマー病になるという。このように、高齢者のアルツハイマー病でも誰もが同じリスクで発症するのではなく、遺伝的になりやすい人と、なりにくい人とがいてリスクは大きく違っている。
 こうしたアルツハイマー発症のリスクに関わる遺伝子は他にもある。そして、それらの総合的な働きと生活環境の違いによって発症するか否かが分かれる。

治療できるかもしれない!

 ここで現在、アルツハイマー病の薬として発売されている薬について一寸触れておきたい。日本で唯一販売されている薬にアリセプトという薬がある。この薬は患者やその家族に期待されているが、治療に関わる医師たちによれば、その効果をあまり期待しないほうがいいという。
 アルツハイマー病になると、記憶の回路に主に働くアセチルコリンという神経伝達物質が減少する。アリセプトはこのアセチルコリンの分解を阻害してその量を増やし、記憶の喪失などを防ごうという薬である。
 実際に治療に関わっている医師たちは、この薬が効くのは患者の数%で、しかも初期の患者だけだという。そして、半年か1年服用すると効かなくなる。薬は一時その進行を止めるだけである。
 では、より有効な治療薬はないのだろうか。はっきりいって、まだない。が、現在のアルツハイマー発症のメカニズムの知見からすれば、治療薬の開発は可能だ。要は、脳にβアミロイドを蓄積させなければいい。それには、神経細胞のAPPの分解の仕方を変えることだ。
 一つの方法は、APPからβアミロイドを切り出すβセレクターゼか、γセレクターゼの働きを停める。あるいは、切り出されたβアミロイドを、溜まる前にどんどん分解させてもいいだろう。
 すでにβアミロイド斑が生じている場合は、それを分解する方法を見いだせばよい。難しいのは神経細胞が死滅、脱落している場合で、これを修復する方法は今のところ見当たらない。
 こうして現在、世界中でたくさんのアルツハイマー病の予防薬や治療薬が開発されつつある。06年現在、アメリカだけでも48種類もの抗アルツハイマー薬が開発されつつあるという。大変な数である。
 けれども、困ったことに理屈と現実は異なる。そこにはいくつもの克服しなければならないギャップがある。βセレクターゼやγセレクターゼを不活性化すればよいといっても、これらの酵素はAPPの分解だけでなく、からだで他の機能も果たしているのだ。
 たとえば、βセレクターゼは免疫機能の調整をしているし、γセレクターゼは細胞の分化にも関わっているという。単純に酵素を不活性化すると思わぬ副作用が生じてくるだろう。
 それでも研究者たちは、他の機能を失わせずにAPPの切り出しだけを不活性化するようなセレクターゼを人工的につくろうと努力している。そして、一部のものは、すでに成功して臨床治験に入っている。こうしたニュースに接すると「科学の凄さ」を実感する。

ワクチンの力、科学の凄さ

 一方、最近、変わった方法による治療薬が開発されてきた。ワクチン療法だ。これは無毒化、あるいは、弱毒化した病原体をからだに接種して、抗体をつくらせ、それによって病原体への抵抗性を高めるという昔から知られた方法である。
 D・シェンクたちは、ヒトのβアミロイド・タンパク質に似せた分子をつくり、これをワクチンとして、まずマウスに与えてみた(1999年)。このマウスは、遺伝子操作によってヒトのβアミロイド斑をつくるようにつくられた特別の系統で、生後12カ月ほどたつと脳にβアミロイド斑が生じてくる。
 生後間もなくのマウスにワクチンを皮下注射して、12カ月後、調べたところ、9匹のうち7匹はβアミロイド斑がみられなかった。次に、生後12カ月を過ぎてβアミロイド斑が生じていると思われる高齢のマウスに、ワクチンを注射してみた。すると、明らかに老人斑の消失した跡が見いだされた。結果は研究者たちを驚愕させた。
 その効果は、ワクチンとして注入されたβアミロイド様タンパク質が抗体をつくり、その一部が脳へ入ってβアミロイドと結合し、それを脳で免疫系を担うミクログリア細胞が分解したためだろうと考えられた。
 すぐにヒトでワクチン療法の臨床治験がはじめられた。軽、中度のアルツハイマーの患者360人が集められ、二つのグループに分けられた。うち298人にはβアミロイドのワクチンが、残りの62人には生理食塩水が、対照群として筋肉注射された。月1回のペースでほぼ2回注射された。
 抗βアミロイド抗体ができたか否か採血して調べてみると、298人のうち59人に抗体の生産が認められた。記憶力や言語行動などのテストが行われ、結果、明らかな回復がしめされた。
 治験は順調と思われた。ところが予期しない事態が生ずる。298人の被験者のうち18人が急性髄膜炎となったのだ。実験はただちに中止された。
 原因は、βアミロイド・ワクチンに反応したT細胞の自己免疫の結果と考えられた。ワクチンと一緒に注射した免疫増強剤が原因ともされた。結局、3人の患者が死亡。解剖の結果、患者の脳には既存した老人斑が消失した跡が認められたという。
 臨床治験に参加した患者たちは治験の中止後も引き続き観察された。それによると、抗体が検出された59人の患者では、その後も病気の進行が抑えられ、なかには、マラソンレースに参加した患者もいたという。

アルツハイマー予防サラダ?

 ヒトでのワクチン療法の臨床治験は途中で中止されたが、結果は人々に驚きとともに希望を与えた。研究者たちは、この結果をもとに、より副作用の少ない安全なワクチンづくりや投与法の開発をはじめた。
 ある研究者たちは、抗体づくりを、より緩やかに長続きさせるために、βアミロイド様の分子をワクチンとして投与せず、それをつくるDNAをウイルスDNAに組み込んで投与しようと試みた。また、別の研究者たちは、抗体の量を患者によって加減できるよう、抗体をつくってから患者に与えたら、と考えた。
 さらにワクチンの投与のより安全な方法として、筋肉注射に代わって、ワクチンを塗ったパッチを皮膚に貼ったり、あるいは、経口で与える方法を試みる研究者もいた。
 経口でβアミロイド様分子のDNAウイルスを与えた場合、それは腸の細胞にとり込まれて、そこで抗体を生産しはじめる。腸では自己免疫反応が起きにくいとされているから副作用はおきにくい。そして、抗体は血液にのって脳にはこばれる。
 脳の血管壁は大きな分子は透さないとされているが、じつは視床下部の付近に抗体を透すような箇所があって、ホルモンなどの働きの調節は、そこでなされているという。脳内に入った抗体は、そこでβアミロイド斑の形成を防ぐことだろう。
 副作用を減らすために、さらに凝った方法を考えた研究者もいる。βアミロイド様分子のDNAをピーマンなどの野菜に組み込んで、これを食べさせて腸で抗βアミロイド抗体をつくらせようというのだ。
 これらはすべて、まだマウスでの実験段階であるが、いずれもβアミロイド斑の形成を阻止したり、既成のβアミロイド斑を消失させたりする結果がえられている。マウスの学習行動のテストでも、よい結果がしめされている。あとはヒトでの臨床治験である。
 あるいは、おそらく、そのうちに医者がアルツハイマーを予防するピーマンやキュウリを売り出すかもしれない。処方してくれて、薬局でそれを求めるように、というかもしれない(多分、八百屋でなく)。求めてサラダにして食べていれば、アルツハイマーになる心配もなく、散歩にでかけたおばあさんも、迷わずに家に帰ってくるようになるかもしれない。
 ところで、「そんな先の話より、自分はとにかく今、アルツハイマーの予防法を知りたい」という人もいることだろう(私も含めて)。では、治療法はともかく、予防法はなにかあるのだろうか。
 アルツハイマーは遺伝病とされている一方、環境の影響もうけている病気である。医師のなかには、それは生活習慣病だという人もいる。生活習慣病なら生活習慣で予防できる筈だ。じゃあ実際できるのだろうか。どうすればいいのか?
 すみません。続きはまたまた次回にさせて下さい。スミマセン、いつまでも続けて。

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