Web草思
新・ヒトという生きもの 柳澤嘉一郎
第8回 なぜチューインガムを噛むのか
インテリはガムを噛まない?

 私にとって、チューインガムは進駐軍とともにやってきた。
 戦争が終わって間もなく、私の住む田舎町へ進駐軍がやってきた。何の変哲もない山あいの盆地の町だ。近くに軍事施設もなにもない。そこへ突然、数十台のジープと軍用トラック、そして戦車までも連ねてやってきたのだ。
 多分、彼らの力と存在感を敗戦国の隅々にまでアピールしたかったのだろう。田舎の町は騒然となった。子供たちは通りに飛び出して、電柱やゴミ箱の陰からトラックや戦車の上のアメリカ兵たちをじーっと見つめた。兵士たちはみんなチューインガムを噛んでいた。
 その後、東京へ出かける機会があった。街の雑踏のなかを米兵たちが歩いている。彼らは一様にガムを噛んでいた。それで、いつの間にか「アメリカ人はいつもガムを噛んでいる」というイメージが出来上がった。
 それから10年余りたって、アメリカに住むことになった。ニューヨークの街には至るところでチューインガムが売られていた。けれども、在籍した大学のキャンパスで、ガムを噛む学生を見かけることは、ほとんどなかった。
 ある時、キャンパスの自販機でチューインガムを買ってみた。噛めば、アメリカ人のような気分になれるかもしれない。研究室で仲間にすすめてみた。誰もが首を横に振る。で、「アメリカ人はいつもガムを噛んでいる」というイメージを、「(アメリカ人でも)インテリはガムを噛まない」と変えることにした。
 ブロードウェイで映画を見ていたら、初っぱな、チンピラ風の若者が「ガムを噛みながら」通りを歩いているシーンがでてきた。そこで、監督はなぜ、わざわざ、その俳優にガムを噛ませたのか、と考えた。観客に、その若者の所属する社会階層をまず示しておきたかったのだろうか。それとも、その時の若者の何か特別な気分を示唆したかったのか。
 いずれにしてもニューヨークで、私はガムに否定的なイメージをもつことになった。「まともな人はガムは噛まない」と思い込んだのである。この偏見は帰国後もつづいたから、電車のなかで、身なりのいい年配の女性がしきりにガムを噛んでいると、「教養が感じられないなア」などと思ったりした。
 ところが、その後、テレビを見ていて、またまた、ガムのイメージに変更を迫られた。テレビにニューヨークの証券取引所の風景が映っていた。取引が間もなく始まるところで大勢のトレーダーたちが開始を待っている。よく見ると、かなりの数のトレーダーたちが、しきりにガムを噛んでいるのだ。

ガムとストレス

 「ハテ?」それ以後、テレビを注意して見ていると、野球やサッカーの試合中の選手や監督はよくガムを噛んでいるのに気づいた。腕組みをした監督が目をフィールドへ釘付けにして夢中でガムを噛んでいる。ベンチでは控えの選手たちがしきりにガムを噛んでいる。スポーツだけではない。バグダッドの街が映る。と、街角に立っている米兵たちも、しっかりガムを噛んでいるのだ。
 そこで考えた。人がガムを噛むのは、強いストレス下で不安や緊張を取り除くためだ。きっとそうだ、と思った。それで、田舎町へやってきた進駐軍の兵士やバグダッドの街の米兵たちは、しきりにガムを噛むのだ。彼らは耐え難い不安に晒されている。
 試合を見守るサッカーの監督も胃に穴があく思いをしているに違いない。映画のなかでライバルの縄張りを歩くアンちゃんも緊張していたのだ。映画の監督はそれを観客に知らせたかったのだ。なるほど、みんな気分を落ち着けるためにチューインガムを噛んでいるのか(勿論、他の理由でガムを噛む人たちの方が圧倒的に多いだろうけれど)。
 だが、と考えた。ガムを噛むと、ほんとに不安や緊張が緩和されるだろうか。調べてみることにした。まず、chewing gum と stress をキーワードに論文を探してみた。あれやこれやとキーワードを変えて探していくうちに、「咀嚼(ガムを噛む)はストレスを緩和する」という論文を幾つか見つけた。顎を一定のリズムで動かすと 5-ヒドロキシトリプタミン(5-HT, セロトニン)という物質が脳内に分泌されて、不安や緊張を緩和するというのである。
 ではセロトニンとは、どんな物質だろうか。セロトニンは1948年、血液の血小板中に含まれる物質として単離された。出血のさい、セロトニンは血小板から流れでて、その止血作用を助ける。けれども、セロトニンを作っているのは血小板ではない。血液中から取り込んでいるのである。
 セロトニンは小腸のエンテロクロマフィンとよばれる細胞で産生されて、血液中に入ったものが血小板に取り込まれる。血液に入るセロトニンの量は小腸のセロトニン量の一割ほどである。
 では、小腸のセロトニンは何をしているのだろうか。それは消化管の壁の平滑筋に作用して、その動きをコントロールし、消化管内の食物が円滑に運ばれ排出されるように働いている。
 血液中のセロトニンも同じように、血管壁を構成する平滑筋に作用して、血管を収縮させたり拡張させたりして血流を調整している。そして、その一部が血小板にも取り込まれて蓄えられる。
 研究がすすむにつれ、セロトニンは消化管や血液中だけでなく脳や脊髄にもあることが分かってきた。からだの中のセロトニンの量はごく僅かで、成人でも10mgほどしかない。その大部分(90%)は消化管の粘膜中で、残りの8?9%が血液、主に血小板中にある。脳内のセロトニン量は全体のたった1?2%である。

もしもセロトニンが働かなかったら

 脳内にセロトニンが発見されたとき、最初は、小腸で作られたものが血液を介して脳に入ったものと考えられた。しかし、すぐに、セロトニンは脳血液関門を通過しないことが分かった。脳のセロトニンは神経細胞がトリプトファンというアミノ酸から合成しているのである。
 脳でセロトニンを作る神経細胞の数は数十万といわれ、大脳と脊髄を結ぶ脳幹の縫線核とよばれる部分に集まっている。これらの神経は、軸索とよばれる長い神経繊維を大脳皮質や小脳、さらに辺縁系や延髄、脊髄などへのばし、セロトニンを神経伝達物質として用いて、刺激を他の広域の神経細胞へと伝えている。
 神経には興奮性のものと抑制性のものがあって、丁度、車がアクセルとブレーキで思い通りに動くように、その二つの働きのバランスで神経活動を正常に機能させている。セロトニン神経は抑制性の神経で、興奮性の神経の働きをセーブしたり時には助けたりしている。
 セロトニン神経は非常に多くの生理機能、精神機能に影響をあたえている。セロトニンの産生が充分でなかったり、分泌の機構がうまく機能しないと刺激が充分に伝えられず、抑制性神経と興奮性神経の働きのバランスが崩れる。その結果、からだに様々な不調が生じてくる。
 温度や湿度などの物理的ストレス、さまざまな肉体的過労や精神的心労などがあると、こうした神経の働きのバランスが崩されるきっかけとなる。たとえば、小腸のセロトニンの働きが低下して神経のバランスが崩れると、平滑筋の運動に障害が起こって、突然ひどい腹痛を起こしたりする。こんな時、病院で繰り返し検査をうけても異常は何も見つからない。で、「どこも悪くない」といわれて患者は混乱する。
 血液中のセロトニンの機能が落ちると、血管に攣縮(れんしゅく)が起こる。心臓の冠動脈に攣縮が起これば狭心症のような症状が、脳の動脈で起これば脳梗塞のような症状が生じる。動脈硬化による狭心症や脳梗塞と違うので医師たちは戸惑う。逆に、脳の血管に拡張が起こると、ひどい偏頭痛となる。
 中枢神経でセロトニン神経の働きが低下すると、生存に必要な基本的な機能、すなわち呼吸、心拍、血圧、体温、痛み、温感、睡眠、摂食など、さまざまな生理機能に障害が生じる。自律神経にも障害が起こる。
 その結果、ストレスの後、息苦しくなったり、血圧が著しく変動したり、動悸がひどくなったり、微熱が続いたりする。原因不明の疼痛に長いあいだ苦しめられたりもする。睡眠も混乱して何日も眠りこけたり、長期間、食欲を全く失ったりもする。
 内臓を支配している自律神経にも障害が起こるから、そのせいでさらにさまざまな症状が現れる。吐き気に悩まされたり、嘔吐を繰り返したり、嚥下困難になったり、排便や排尿にも障害がでる。
 セロトニン神経は辺縁系にものびている。辺縁系には情動や記憶を司る領域があるから、セロトニン神経の働きが低下すると感情や情緒、記憶にも障害が現れる。抑うつ的で些細なことで落ち込んだり、不安を感じたり、パニックになったりする。そして、うつ病になったりする。
 こうしたさまざまな、からだの不調や障害、疾病は、受けたストレスの種類によって現れ方が異なる。また、体質的に弱いところがあったり、ストレスを受けた時に調子の悪いところがあると、そこにでてくる。

セロトニンは奇跡の薬か?

 それにしても、たった一種類のセロトニン分子の働きが、このように、さまざまな心身の状態に影響を及ぼすのは、なぜだろうか。一つには、セロトニンの刺激を受けとる受容体の種類が多いためだ。セロトニン受容体は14種類もあって、それらがセロトニンと結びつくと、それぞれ違った効果を組織や器官に伝えることになる。
 たとえば、受容体 5-HT2、5-HT1B は主に中枢神経にあって、ここにセロトニンが結びつくと、不安や抑うつ状態が誘起される。受容体 5-HT1D に結びつくと偏頭痛が、5-HT3 では嘔吐が起こる。神経の終末にある 5-HT1B、5-HT1D にセロトニンが結びつくと、セロトニンの産生、分泌が抑制される。これらの受容体はセロトニンが過剰にならないよう負のフィードバックをかけているのだ。
 からだの機構は複雑である。思いもよらぬ原因で、からだに深刻な不調や疾病が起こる。前述のような、さまざまな不調があって、どこの病院で検査しても、その原因が分からない時には、セロトニン神経の機能障害を疑った方がよいかもしれない。
 近年、セロトニンの受容体への働きを高めて、不安やうつ状態を改善する薬が開発された。SSRI(選択的セロトニン再取り込み阻害剤)とよばれている。それまで使用されていた三環系抗うつ剤に比べて副作用が少ないため現在、広く使われている。
 使用してみると、SSRIはうつ病だけでなく、不安神経症やパニック障害にもよく効くことが分かった。さらに、それ以外にも、予期しなかったさまざまな病気に効く。摂食障害や多動障害、不眠症や慢性疼痛、嘔吐、嚥下困難、夜尿症などである。このことは、からだの生理機能、精神機能にセロトニンがいかに広く関わっているかを教えてくれる。
 しばらく前から、アメリカでプロザックという商品名のSSRIが使われ始めた。プロザックは、うつ病のような疾病だけでなく、落ち着いて授業を受けられない多動性の子供たちや、競争社会から落ちこぼれたビジネスマンたちに元気を与える「奇跡の薬」として話題となった。そして、次に、当然ながら、その副作用が問題となった(日本ではパキシル、デプロメールなどの商品名のSSRIが販売されている)。
 SSRIを長期間服用すると、セロトニンの活性レベルが上がって、セロトニン症候群とよばれる症状が生ずる。幻覚が現れたり意識の混乱が起こったりする。筋肉が硬直したり痙攣したりもする。セロトニンの活性が低い時と同じように、吐き気や発汗も起こる。しかし、一番の問題は自殺率が上がることだ。そのため現在は子供への使用は禁じられている。セロトニンの活性は低すぎてもいけないが、高すぎてもいけないのだ。

チューインガムとセロトニン

 もう一度、チューインガムの話に戻ろう。ガムを噛むとセロトニンの産生、分泌が高まって、不安や緊張が軽減されると述べた。研究によると、セロトニンはリズミカルな運動によって産生、分泌が促されるという。ウォーキングやジョギングなどは手足をリズミカルに動かすから、セロトニンの分泌が促進され、神経の働きのバランスがよく保たれる。
 リズミカルな運動は手足に限らない。手の指でもよいし、顎でもよい。咀嚼は顎をリズミカルに動かす。しかし、食事どき以外に顎をリズミカルに動かすには、ガムでも噛まなければならない。ガムを噛むとセロトニンの産生、分泌が促進されて気持ちが落ち着くことになるのだ。緊張や不安を感じる時、人がしきりにガムを噛むのは多分、このためだろう(ついでに言えば、セロトニンの産生、分泌は明るい光に当たると促進されるという。セロトニン合成の材料となるトリプトファンをたくさん含む食事をしてもよい)。
 けれども、本当に、スポーツ選手たちは緊張と不安を解消するためにガムを噛んでいるのだろうか。本当に、ガムを噛めば、緊張や不安が緩和されるのだろうか。ガムを噛んでいる選手たちに、ぜひ訊いてみたい。
 もちろん、ガムを噛む人たちの大半は、別にストレス解消のために噛んでいるのではない。このことは、よく知っている。
 でも、人は大抵、独断と偏見でものを考える。

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