Web草思
新・ヒトという生きもの 柳澤嘉一郎
第7回 信頼をつくるホルモン
いいかい、誰も信じてはいけないヨ

 相手に吹きかけると信頼が得られるというホルモンが、しばらく前に見つかったという。ほんとうだろうか。
 「人を見たら泥棒と思え」という諺がある。けれども、少なくとも私は、「他人を信用してはいけませんヨ」と誰かに今まで言われた記憶はない。日本人は最初から他人を疑うということは、あまりしないような気がする。
 他人を信頼することに関して、日本とアメリカでアンケート調査をおこなった日本人の社会学者がいる。彼のアメリカでの経験と、そのアンケート調査の結果によれば、日本人はアメリカ人より他人を信頼しないという。これはしかし、私の経験とは逆の感じだ。
 アンケートは最近で、私の経験は4、50年も前のことだから、時代の違いもあるかもしれない。あるいは、調査のときに使ったであろう、「信頼」という言葉と「trust」という言葉に対して、それぞれの国の人たちの感じ方が違うのかもしれない。それに、経験というものも、それほど信用できるものではない。
 アメリカにいる間(1950?1970年代)、私はたびたびアメリカ人の友人からこんな話を聞かされた。ユダヤ人の家庭ではしばしば、「他人を信用してはいけませんヨ」と親が子供に言い聞かせるのだという。
 こんな風な話があった。野外で遊んでいたユダヤ人の親子が、たまたま崖の下を通りかかった。父親が言った。「あの高い崖から飛び降りられるかい」子供はビビって、「とても無理だヨ」すると父親は「大丈夫、下で受け止めてやるから」と両手を広げてみせた。
 そこで、子供は崖にはい上って、思い切って飛び降りた。と、突然、父親は差し伸べていた手をさっと引っ込めた。地面に落ちた子供は泣きだした。そこで、父親はこう言うのだという。「いいかい、この世の中、誰も信じてはいけないヨ」この話はユダヤの人たちを誹謗しているかのようにも聞こえる。しかし、私はユダヤ人の友人からもこの類の話を聞いた。

信じやすいヒト、疑り深いヒト

 他人を信じて生きるべきか、疑って暮らすべきか。どちらが良いかは、その人がおかれた状況次第だろう。しかし、一般的にいえば、社会は、それを構成する個人や組織の互いの信頼の上に成り立っている。
 組織や集団、国家の間で信頼が失われれば、互いに懐疑的になって紛争が絶えないだろう。ときには戦争も起こる。個人同士でも互いの信頼がなくなれば、諍いや争いがくり返されるだろう。信頼が失われれば社会は崩壊する。
 イラクやアフガニスタンのような混乱した社会でなく、日本のような安定した社会でも、人びとの信頼を失えば、どんな大企業もあっという間に崩れ去る。これは日常しばしば見聞きする通りである。個人でも信頼を失えば途端に暮らしが難しくなることだろう。
 信頼は築くのに長い時間と努力を必要とするが、崩れ去るのは一瞬である。そして、再びそれを回復するには、さらに長い時間と努力が必要とされるのだ。
 では、信頼はどのようにして築かれるのだろうか。心理学者に言わせると、信頼が築かれる過程は母子の間の絆の形成が原型だという。女性が赤ちゃんを産み胸に抱きしめて授乳するとき、この子のためなら何ごとも厭わない、という気持ちになるだろう。そして、赤ちゃんの方は母親の温もりのなかで安心しきる。
 この充足感と共感が相互の信頼を醸成し、絆が形成されるのだという。そして、この母子の絆が子供の成長後、他人への信頼感醸成の基盤となるという。母親と強固な絆を形成し得た子は、他人を容易に信頼するようになるが、形成できなかった子は他人を信頼しなくなる。これは心理学の通説のようだ。
 生物学の立場からいうと、信、不信は心の問題だから、基本的には脳の神経回路に関わることである。神経回路の形成のいわば基本的なデッサンは、遺伝子によって支配されているとされる。してみると、生まれつき他人を信じやすい人と信じにくい人とがいるのだろう。
 誕生後、このデッサンは環境によって色づけされ修正されて次第に変わっていく。最初の色づけは母親や家族との関係によってなされる。安全で安心して過ごせる環境であれば、他人を容易に信頼するような回路が形成されるが、不安や恐怖の環境にあれば懐疑と不信の回路が形成されていく。
 こうして遺伝と環境、成長過程の経験と学習の違いにより、人にはそれぞれ異なった神経回路が形成され、他人を信頼しやすい人や、なかなか信頼しない人が生じてくるのだろう。

母性ホルモンの意外なはたらき

 ところが信、不信は脳の回路だけでなく、脳から分泌される特定のホルモンによっても左右される、という論文が最近、発表されたのだ。それはオキシトシンとよばれるホルモンで、このホルモンを溶液に溶かして人に吹きかけると、吹きかけられた人は一時的に他人を信頼するようになるのだという。信じがたいような話である。
 ホルモンが神経回路の形成や、その働きに重要な働きをしていることは以前から分かっていた。よく知られているものにエストロジェン(女性ホルモン)がある。エストロジェンは神経回路の形成に重要な役割を果たす。が、オキシトシンは回路の働きに影響するらしい。
 ホルモンというのは、そもそも、内分泌器官から分泌されて、血液や体液を介して特定の標的器官に働いて、その代謝や機能を調節制御する物質である。種類もたくさんあって、現在ホルモンとよばれているものは50種類ほどもある。
 オキシトシンは新しく発見されたホルモンではない。生殖行動に関わるホルモンとして以前から知られていたものだ。女性では赤ちゃんを産むときや、お乳を飲ませるときに多量に分泌される。それは脳の下垂体の後葉から分泌されて、子宮の平滑筋や乳房の乳腺筋に特異的に作用して強い収縮をおこす。男性は女性に比べると分泌量が少ないが、性行動をとるときなどに分泌される。
 オキシトシンはアミノ酸が9個つながったペプチド・ホルモンで、構造が単純なために人工的に合成されて、分娩誘発剤などとして臨床分野で広く使われてきた。しかし、オキシトシンはいわゆるホルモンとして標的器官に働くだけでなく、脳内で神経伝達物質としても働いている。女性の母性行動や性周期、男性の性行動、さらには摂食や記憶などにも関わっているとされる。
 オキシトシンはヒトだけでなく、他のほ乳類にも存在し、ヒトと同じように機能している。メスのラットにオキシトシンを注射すると、一時的に母性行動を示す。たとえば、まだ子供を産んだことのないメスを、生まれたばかりの赤ちゃんのいる飼育箱に入れる。大抵のメスは赤ちゃんには少しも興味を示さず、踏みつけたりして歩き回っている。
 そこで、その脳にオキシトシンを注射する。すると、急に赤ちゃんの世話をし始める。咥えて一カ所に集めて抱いたりする。オキシトシンと一緒に女性ホルモンを注射すると、もっと著しい効果がみられる。
 ヒトもまたラットと同じで、母親が懸命に赤ちゃんの世話をするとき、とくに出産や授乳のときにはオキシトシンが多量に分泌される。そのとき、赤ちゃんにもオキシトシンが分泌される。スキンシップによって分泌が促されるのだという。このためオキシトシンは「母子の絆を形成するホルモン」とされ、また、人の「社会的行動に関連したホルモン」ともされてきた。
 ホルモンを受けとる標的器官や組織の細胞には、ホルモンと特異的に結合する受容体とよばれる分子が存在する。受容体はタンパク質で、遺伝子によってつくられる。したがって、受容体の遺伝子に損傷を与えると、受容体のない、あるいは、受容体が正常に機能しない突然変異体をつくることができる。
 遺伝子操作の技術を使って、最近、オキシトシンの受容体機能を欠くマウスをつくることに成功した。受容体が働かなければ、オキシトシンが正常に分泌されても反応せず、分泌されないのと同じ結果となる。
 このマウスは一見正常であるが行動にさまざまな異常が観察された。メスでは母性行動が失われ子供を保育しなくなる。子ネズミの方も受容体を欠くものは親を求めて泣くことがあまりない。オスではひどく攻撃的で相手かまわずに噛みつく。オキシトシンはオスの攻撃性を抑えているらしい(西森ら、2006年)
 このようにオキシトシンはほ乳類の生殖行動や社会的行動に関わるホルモンとして知られていたが、昨年(2005年)、今度は「信頼をつくるホルモン」とよばれて一躍、注目を浴びた。注目を浴びたのは「信頼」という言葉に人びとが魅力を感じたかららしい。

もしも信頼を引き起こせたら

 信頼という言葉は社会のさまざまな分野で使われる。分野によって、その使われ方、感じ方は多少違うようではあるが、たとえば、ビジネスの世界では、信頼は直接、金銭と結びついている。誰も信頼のおけない相手に多額の金を預けたり貸したりはしない。信頼して初めて貸す。そこで、金の貸し借りにからめたゲームが開発されている。それで信頼度をテストすることもできる。投資ゲームとよばれる。
 ゲームでは、まず参加者を投資家と銀行家に分ける。そして、互いに取引をさせて誰が一番儲けるかを競わせる。投資家は銀行家にお金を預けて何がしかの利子を得て儲ける。銀行家の方は預かった金に適当な利子をつけて返すべきであるが、返さずに着服してもよいものとしておく。
 ゲームが始まると、投資家たちは信頼できそうな銀行家を選んでお金を預ける。相手が信頼できそうであれば、できるだけ多額の金を預けてより利益を得ようとする。が、もう一つ信頼できないと思えば、とりあえずわずかな額を預けることになる。
 スイスの経済学者、E・フェール(2005年)は、100名以上の学生を集めて被験者とし、このゲームをやらせてみた。ただ、ゲームの前に学生たちを二つのグループに分けて、一方のグループの人たちの鼻にオキシトシンの入った溶液を吹きかけておいた。そして、もう一方には、オキシトシンの入らない溶液(偽薬)を吹きかけた。
 こうして、それぞれでゲームをやらせたところ、オキシトシンを吹きかけられた方のグループでは、高額な投資をする人の割合が多く45%もあった。少額の投資の割合は21%であった。一方、オキシトシンの偽薬を吹きかけられた方のグループは逆で、高額投資の割合が少なく21%。そして、少額投資が45%もあった。
 次に、フェールは、両方のグループの投資家たちに、銀行家たちとでなくコンピューターを介しての取引をさせてみた。すると、両グループとも高額投資と少額投資の割合がほぼ同じで、差違がみられなかった。投資家たちは銀行家に金を預けるとき、その風貌や話し方、態度などをみて相手の信頼度を判断し、それによって額を決めている、と考えられる。
 これらの結果から、フェールは、オキシトシンを嗅ぐと相手を信用、信頼しやすくなる、と結論した。反響は大きかった。マスコミはこの発表をニュースとして喧伝し、オキシトシンは今度は「信頼をつくるホルモン」ということになったのだ。反響が大きかったのは、思うに、多くの人たちが「これは使える」と感じたからだろう。
 政治家たちは、難しい話し合いの相手に、会談中オキシトシンの入った熱いハーブティを出す。その香りを嗅がせると話し合いが有利に展開する、と思ったのかもしれない。それに、もしかしたら、選挙戦でも使えるかもしれないし……。
 経営者たちは、オフィスにオキシトシンを撒いて、そこで取引を成立させることを考えたかもしれない。家庭では、熟年離婚の危機にある亭主たちが、女房に嗅がせて、よりを戻すことを期待したのかもしれなかった。
 けれども、生物学の立場からすると、この実験の結果にはいささか疑問がある。というのは、鼻に吹きかけたオキシトシンが脳内に入るとは思えないからだ。吹きかけられたオキシトシンの一部は鼻腔の毛細血管にとり込まれ、脳の血管内を流れることだろう。しかし、脳の血管には血液脳関門とよばれる障壁があって、血液内の物質が容易に脳内には入れない機構がある。
 前述のラットの実験で、生物学者たちがオキシトシンをわざわざ脳内に注射したのは、血管内に注射しても、それは脳内に到達できないと考えたからである。しかし、あるいは、大量のオキシトシンを鼻にスプレーして嗅がせれば、多少は脳内に入るのかもしれない。
 こんなことは、しかし、その気になれば簡単に実験で確かめることができる。嗅がせたオキシトシンが血中に入ることを確認し、もう一度、大勢の被験者を集めてフェールの実験の追試をしてみてほしい。もし、オキシトシンがほんとうに「信頼をつくるホルモン」だったら、これで長年の国際間の紛争も片づくかもしれない、などと夢想する。
 パレスチナ問題もイランや北朝鮮の核問題も、その他、国連がてこずっている、さまざまな国際紛争もすべて、オキシトシンを嗅がせてから当事者たちに話しあわせれば、解決の糸口がつかめるかもしれないのだ。
 私としては、まず身近なところから、ブッシュ大統領にぜひ嗅がせたい。そして、日本の周辺国の首脳たちにも嗅がせたい。もちろん、日本の政治家たちにも……。

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