Web草思
田中角栄を歩く 山岡淳一郎
第7回 糸と縄のもつれ──沖縄返還の「秘密のチャンネル」
 東京永田町、首相官邸の窓に打ちつける雨が、やや小降りになった。
 1969年11月17日、朝。陸上自衛隊のヘリコプターが轟音とともに官邸の庭先に舞い降りた。第62代内閣総理大臣・佐藤栄作は、寛子夫人とともにヘリに乗り込んだ。
 「沖縄返還」という戦後四半世紀に及ぶ国民の悲願が、佐藤の双肩にかかっている。
 4年前に沖縄を訪れた佐藤は、「沖縄の祖国復帰が実現しないかぎり、わが国の戦後が終わっていないことはよく承知しております」と演説し、沖縄返還を自らの使命に掲げていた。

佐藤=若泉とニクソン=キッシンジャー

 太平洋戦争末期、沖縄では民間人を巻き込んで最大規模の戦闘が展開された。日本人の死者は20万人以上、米軍側の死者は1万2500人余といわれる。血の代償として、米国は、サンフランシスコ条約で日本の沖縄における潜在主権は認めたものの、その施政権は手放さなかった。実質的に沖縄を支配した。朝鮮戦争で沖縄の軍事的重要性が高まると、半ば強引に米軍基地・施設を建設。米兵による事件や事故が続発し、沖縄の人々は「島ぐるみ闘争」と呼ばれる抵抗運動を行った。
 米国は、ベトナム戦争にのめりこむにつれ、兵站基地である沖縄にさらなる執着を示した。佐藤が沖縄で演説した当時、その施政権の返還は認められるはずがないとの見方が強かった。「佐藤は焼身自殺の道を選んだ」といわれたものだった。ライシャワー駐日大使は「このままでは、1970年までに沖縄問題が爆発するだろう。日本との関係を漂流するにまかせるのは安全な戦略ではない。何とか漕ぎ始めないといけない」と国務省の会議で発言したが、国防総省、軍事系議員たちは聞く耳をもたなかった。
 だが……日米でベトナム戦争への反発が高まり、佐藤の兄・岸信介とも親しいリチャード・ニクソンが大統領に就任して情勢が変わった。海軍士官からペプシコ社の弁護士を経て政界入りし、副大統領も務めたニクソンは、いわゆる「タカ派」とみられていた。グローバルな戦略に基づいて徹底的に国益を追求する外交通でもあった。ハーバード大学で教鞭をとっていた国際政治学者、ヘンリー・キッシンジャーを国家安全保障担当大統領補佐官に据え、国務省の官僚たちの頭越しに「秘密のチャンネル」で外交交渉を進めた。ニクソンの隠密好きは後に発覚する「ウォーターゲート事件」の盗聴行為でも明らかだろう。
 佐藤もまたニクソンに負けない秘密主義者であった。佐藤は、岸が設立した京都産業大学の国際政治学教授・若泉敬を密使に立てた。ニクソンと佐藤は、それぞれの性格もあって「秘密のチャンネル」での交渉に没入してゆく……。
 若泉とキッシンジャーは、互いを「ドクター・ジョーンズ」「ミスター・ヨシダ」と偽名で呼び合い、秘密裏に根回しを図った。焦点は「核」と「繊維」であった。

 佐藤は、左翼思潮とナショナリズムが混ざって沸騰する世論を背景に「核抜き本土並み」の返還を求めた。翌年に迫った安保条約の再延長で米軍基地を沖縄に存続させるにしても、核兵器の持込は認めない、との姿勢を崩したくはなかった。67年末の国会で「非核三原則(核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず)」を打ち出した佐藤にとって、核での譲歩は政治的な死をまねく。
 これに対し、ニクソンは、「タカ派」の影響力を使って沖縄返還の抵抗勢力である国防総省、軍事系議員を抑えこむ代わりに自らのアキレス腱である繊維問題で日本側に見返りを求めようとしていた。交渉ごとの大原則は、ギブ・アンド・テイクだ。彼は、前年の大統領選挙で米国南部の有権者を前に、日本からの製品流入で窮地に追い込まれた繊維産業を立て直すために何らかの措置をとる、と公約していた。日本側に輸出の自主規制を飲ませる腹だった。
 「糸(繊維問題)と縄(沖縄)を交換しよう」というわけだ。
 日本の世論は、神聖な領土の返還と貿易問題を取り引きするな、といきり立った。
 ぎりぎりまで「核」を交渉カードにとっておきたい米国は、「秘密のチャンネル」を介して、表面上は沖縄返還と繊維問題を切り離すことに同意した。そして、若泉とキッシンジャーは、核の緊急時の沖縄への持ち込みと繊維輸出自主規制を「密約」で認め合う手はずを整えた。サスペンス映画ばりの舞台裏を知っていたのは、佐藤、ニクソン、キッシンジャー、若泉の四人だけ。佐藤は首脳会談に同行する愛知揆一外相にも密約を洩らしはしなかった。
 その秘密主義が、後に繊維交渉をとてつもなく難しくさせるのではあるが……。

佐藤訪米阻止闘争

 午前9時20分、ヘリは雨をついて飛び立ち、2万5千人の機動隊が空前の厳戒態勢をしく羽田空港へと向かった。眼下には、つい数時間前まで「佐藤訪米阻止闘争」の大嵐が吹き荒れた東京の街が広がっている。
 前日、社会党、総評、中立労連などが構成する反安保全国実行委員会は、代々木公園で「安保条約廃棄・沖縄即時無条件全面返還・佐藤訪米阻止集会」を開き、約7万(警視庁調べ4万2千)の参加者を集めた。同実行委は、全国約120か所の主要都市で同じような集会やデモが行われて72万人が参加したと発表(警察庁調べ12万人)。成田知己社会党委員長は「佐藤総理のいう核抜き本土並みとは、米軍による本土への核持ち込み、基地自由使用という危険きわまりないトリック、落とし穴をもっている」と訴えた。
 佐藤訪米の「実力阻止」を叫ぶ過激な学生らは、午後3時過ぎから蒲田駅、品川駅、東京駅などで同時多発的なゲリラ活動を展開する。なかでも羽田に近い蒲田駅周辺は騒乱状態となった。京浜東北線に乗り込んだ学生約400人は、電車が蒲田駅に近づくと車内の非常コックを引いて停止させ、一斉に駅構内になだれ込んだ。
 蒲田駅周辺では、火炎ビンが飛び交い、路上は炎に包まれて二十数人の負傷者を出した。その闘争は、一般人を巻き込んだ。

 午後4時ごろ、国電蒲田駅に着いた下り電車から、白ヘルメット百五十人ほどが降りた。手に手に角材や鉄パイプ。ホームを五分ほどデモ行進したあと、喚声をあげて階段を駆けのぼった。試験管と空ビンをセロテープでだき合わせた触発性の火炎瓶をふりかざしている。一般客でこんでいた階段に悲鳴がはしった。赤ちゃんを抱いた母親が、泣声をあげて逃げまどい、危うくころげ落ちそうになったが、逆に若者たちは『邪魔だ』とどなりつけた。クギや鉄片を植えつけた角材を振上げ、一般客を突飛ばしながら改札口をかけ抜けると、東口前広場に出た。二度、三度、駅前ロータリーを駆けめぐる(中略)。……東口派出所を警備していた機動隊に向けて数本の火炎ビンが飛び、階段付近は炎と黒煙に包まれた。
(朝日新聞、1969年11月17日付)

 機動隊は、あたりが暗くなるのを待って、青の着色液を学生たちに放水した。
 装甲車から「着色者、全員逮捕!」の号令がかかると、路地に待機していた機動隊と挟み撃ちで学生を追い込む。壁にへばりつく学生に機動隊員がジュラルミンの盾を押しつけ、ぶん殴る。一人ずつ群れから引き剥がすように逮捕していった。
 東京駅ではホームでデモを始めた学生約百人が、いきなり昇降口から現れた機動隊に不意をつかれ、大混乱となった。
 「乗客が悲鳴をあげて逃げまどう。ホームにいた千人以上の学生や一般客が、なだれをうって階段に殺到する。たちまち機動隊員の姿だけになったホームや階段は、ヘルメットや角材にまじって、ハンドバッグや子どものクツなどが散乱していた。この騒ぎで南口付近にいた若い女性など数人が、人波に押されて階段や線路にころがり落ち、二人が重傷」(同前)。この1日で、東京で1640人(うち女217人)が逮捕され、77人がケガ。国電は257本が運休している。凄まじい光景が、都内の各所で展開されたのだった。
 雨に濡れる騒乱の市街を、ヘリはわずか七分で横切り、羽田空港に着いた。
 空港には、首相が訪米中の臨時代理となる官房長官の保利茂、福田赳夫蔵相、大平正芳通産相らの閣僚が集まっていた。若泉とキッシンジャーの裏交渉の経緯を知る者はいない。皆、返還交渉がまとまり、共同声明が発表されるよう、祈るような気持ちで佐藤を見送りにきたのだった。
 沖縄では屋良朝苗(やらちょうびょう)・琉球政府主席が、殺到する取材者や表敬訪問者を待たせ、首相の出発を中継するテレビを食い入るように見つめながら、しみじみと言った。
 「きのうからテレビで本土の学生の乱闘などを見ているのだが、せめて県民を含めて国民合意の線で首相が出発できたらなあという感想を持ちます。だけども、それだけ問題が複雑で困難なのでしょうね」
 佐藤を支持する沖縄経済界からも「喜べない」との声が上がっていた。
 「いま身をもって、それ(祖国復帰)を実現しようとしている首相に敬意を表し、期待している。だが正直のところ日の丸行列、ちょうちん行列をする気はどうもわかない。
 ただ民族の誇りを取戻しただけでなにがめでたいか。その後の私たちの生活はどうなるのか……。(中略)経済面での本土政府の施策は遅々として進まず、めぼしいものといったら厚生年金ができたくらいじゃないかな。民族の悲願達成ということで、今まで少々のことはがまんしてきたが、佐藤さんが帰ってきたら本土政府にどしどし注文をつけたい」と安里芳雄・琉球商工会議所専務理事はコメントした。(朝日新聞、69年11月16日付)
 誰もが交渉の成り行きを、固唾を呑んで見守る心境であった。

角栄の「読み」三つの理由

 そんな厳粛な空気が立ち込めるなか、田中角栄自民党幹事長は、まったく別の皮算用をしながら見送りの列に加わった。田中は、口をへの字に結んだまま、これで解散に持ち込める、師走の総選挙に打って出られる、と得心していた。選挙の采配は田中が振るう。すでに佐藤とは話がついていた。いつ解散総選挙を口にするか、だ。もちろん、田中も裏交渉を知っていたわけではないが、自分が自民党政調会長時代に「日本が核兵器の配備を認めれば、沖縄問題は解決する」と発言した方向で交渉がまとまる手応えをつかんでいた。民意を問うのはいま、と独特の勝負勘で決断しつつあった。
 田中は「何事も理由は三つ」をモットーに判断を下している。
 ここが選挙の勝機ととらえたのは、第一に過激派学生の行動で、民衆の心が「訪米阻止」を唱える左翼勢力から離れる、沖縄返還を手土みやげに戦えば民衆は札を入れる、と読んだからだ。田中の価値観の中心には故郷越後の人々と重なる保守的な民衆像がある。
 それは、この年の八月、田中が全精力を注いだ「大学運営臨時措置法案」の成立過程にもみてとれる。頻発する大学紛争を放置していては大学教育が立ち行かなくなると考えた田中は、「紛争大学の学長は副学長など補佐機関や審議、執行機関を設けることができる」「文部大臣は紛争が9か月以上経過した場合、教育・研究の停止(閉校措置)ができる」との骨子を盛り込む大学運営法案にいきつく。法案提出に向けて社会、公明、民社など野党各党と折衝を重ねたが、「大学改革に名を借りた治安立法」との反発が強く、衆議院で自民党は強行採決に踏み切った。野党は、議長や文部大臣の不信任決議案を連発し、牛歩戦術を用いて対抗する。なんと「四泊五日」の徹夜国会、本会議の実質開会時間48時間34分の記録を打ち立てて法案は可決、通過した。
 そして大学運営法案は、参議院に回される。こちらも「四泊五日」コースに持ち込まれた。しかし本会議の開会をめぐる与野党間の話し合いがつかず、重宗雄三参議院議長は、はたして強行採決をさせていいものかどうか逡巡した。佐藤首相の本意を測りかねたのだった。老練な重宗議長は参院議長室に立てこもり、なかなか本会議開会のベルを押さない。
 業を煮やした角栄は、烈火のごとく怒って「あのじじい、ぶったたいてやる」と議長室に駆け込んだ。現場に居合わせた秘書の早坂茂三は「田中が国会運営でこれほど激怒した場面を私はほかに知らない」と記している。

田中幹事長 おい! じいさん。なんでベルを鳴らさないんだ。早く鳴らせ。
重宗議長  角さん、あんた、オヤジ(佐藤首相)は無理してやることはないという腹じゃないのか。あんた、オヤジとちゃんと打ち合わせてやっているのか。
田中幹事長 何いってんだ、じいさん。お前さんたちはもう子供が全部、できあがっているから、そんな極楽トンボでいられるんだ。学生を子に持つ日本中の親たちはどうするんだ。自分たちの食うものも削って、倅や娘に仕送りしてるんだ。ところが、学校はゲバ棒で埋まっている。先生は教壇に立てない。勉強する気の学生は試験も受けられん。こんなことで卒業できるのか。就職できるのか。みんな真っ青になっているんだ。気の弱い学生は、大学にいきたくともいけない。下宿でヒザ抱えてるんだ。だから、じいさん。早くベルを鳴らせ。やらなきゃ、このオレが許さんゾ。
重宗議長  まあ、角サン、そうガミガミ言うな。
(『早坂茂三の「田中角栄」回想録』小学館)

 重宗議長は本会議の開会を宣言し、大学運営法案は起立採決によって可決、成立した。田中は終生「出稼ぎの兄にゃ」の原像を抱えていた。親からもらった15円を後生大事に腹巻に入れ、小さなトランクひとつ提げて上京した十五の春を忘れはしなかった。その情念が「食うものも削って、倅や娘に仕送りしてる」親へと向けられる。田中の怒りはイデオロギーを超えた「生活の実相」がかき立てたものであった。
 蒲田駅周辺での騒乱の際、地元の商店や飲食店で働く若者たちは自警団を組織し、過激学生に挑んでいる。「オレたちの営業妨害をするな」と、憤りを胸に……。団塊の世代といえども、皆が皆、学生運動に入れあげたわけではない。「金の卵」と持ち上げられ、中卒で東京下町の店や工場に集団就職してきた若者たちも大勢いた。彼らも、日々の労働を通して社会とのつながりを持つ、確固たる民衆だった。学生のリーダーが「市民の皆さん、一緒に立ち上がりましょう」と叫んでも自警団はなびかなかった。
 「そらぞらしいな。われわれだって、国の安全や沖縄問題に関心がないわけじゃない。だからって、こんなやり方があるもんか」と蒲田の自警団員は言っている。学生が騒ぐほど、民衆の心は離れる。左翼勢力に楔を打ち込むのはいま、と民衆の実像を知る田中は考えた。

 解散総選挙に至る二つ目の理由は、「70年代の体制選択」である。大学運営法案の成立にこだわったのも、それが「自民党の命運をかけた70年問題の鍵」と田中は認識していたためだ。大学紛争の拡大を防がねば、安保条約を延長できないと危惧していた。
 戦後、憲法で戦争を放棄した日本は安保条約で米国の軍事力の傘の下に入り、経済発展に邁進した。米国は、日本列島に軍事基地を配し、物理的にも日本を「反共の砦」とする。日本の経済発展はアジアの安定に不可欠であり、それが米国の国益にもかなうととらえてきた。この日米同盟の体制を維持するには「沖縄返還」を争点に民意を問わねばならない、と田中は発想した。政治理念を賭けた勝負に出たといえるだろう。
 第三の理由は、権力闘争に明け暮れる政治家の本能が命じるものだった。ライバルの福田赳夫の力を殺ぎたいのだ。
 福田蔵相は佐藤の後継ナンバーワンと自他ともに認める存在だったが、「沖縄に関しては不確定要素もあるし、国民の反応も未知数」と早期解散に消極的だった。これは慎重な性格のせいだともいえるが、政治家としての持ち時間の少なさの裏返しでもあった。
 明治生まれの福田は、田中より13歳も年長で世代的には佐藤に近い。安保、沖縄が争点の総選挙は、自民党が勝つにしろ、負けるにしろ、どちらにしても福田にはメリットが少なかった。仮に勝ったとすると、すでに最高権力の座について5年、自民党総裁三選を果たしている佐藤の「四選」が現実味を帯び、福田の後継は遠ざかる。もしも負けて佐藤内閣が倒れれば、蔵相福田の首も吹っ飛ぶ。ここは安保の自動延長まで波風立てずに振るまい、安保と沖縄返還を花道に佐藤が勇退、総理の座を禅譲してほしい、というのが本音だった。
 一方田中は、早期解散、総選挙で佐藤四選となれば福田の後継が弱まり、権力の座に近づける。佐藤は福田を次期総理に推すかもしれないが、党内で勢力を伸ばせば逆転の芽も出る。佐藤政権が長くなるほど、若いオレが有利だ、と田中は冷徹に計算した。
 見送りの一団にはさまざまな思いが錯綜していた。佐藤栄作を乗せた日航特別機は、69年11月17日午前10時4分、厳戒態勢で機動隊員ばかりが目立つ、一般客のいない羽田空港を飛び立った。
 翌18日の新聞各紙は「総選挙、年内投票」と一斉に報じた。幹事長の田中が解散、総選挙を認めるコメントを出したのが「ゴー・サイン」と受けとめられたのだった。

「ミスター・ヨシダ」の「事前協議」

 米国東部時間17日午前10時12分(日本時間18日午前零時12分)、佐藤首相は、すっきりと晴れ渡った初冬のワシントン空港に降り立った。1番ゲートからロビーに姿を現した佐藤は、報道陣に軽く目礼をして到着声明を読み上げた。
 「1970年代を迎えようとするこの時期に、米政府首脳と沖縄問題をはじめとする諸問題を率直に話し合い、新たな日米信頼関係、協力関係を築きたい」
 佐藤は足早に報道の輪から離れると、パトカーに先導されて在米大使館公邸に向かった。それから丸2日、佐藤は、一切の公式日程を組まず、公邸に籠もって愛知外相や外務官僚たちと首脳会談の準備に専念した。
 外務省の東郷文彦アメリカ局長と吉野文六駐米公使は、トレイザイス米国務次官補(経済担当)と会い、繊維問題に係わる予備折衝に入った。同時並行で日米両政府は、「核」と「繊維」を分離したい日本側の要請もあり、スイスのジュネーブで繊維に的を絞った予備会談を進めていた。ジュネーブでは日本側が「日本の繊維輸出で生じたアメリカ側の被害事実の確認」を前提にGATT(関税貿易に関する一般協定)による多角的交渉を主張。米国側は「被害の立証は技術的に困難」と応え、従来の二国間の包括規制を要求し、品目別に一定の自己規制水準を定める「トリガー方式」を提案する。双方の言い分は、真っ向から対立した。米国から同様の問題を突きつけられている欧州諸国は、日本が妥協すれば既成事実が生じるとあって、戦々恐々と見つめていた。
 ジュネーブの対立はワシントンでの東郷-トレイザイス予備折衝でも解消されなかった。米国側は、佐藤-ニクソン会談で問題解決の方向を示せ、と迫った。「核」も、返還時の「核抜き」は認めるにしても、日本の存亡に係わるような「緊急時の核持込み」で退歩の気配はない。外務当局者たちは、首脳会談後に発表する「日米共同コミュニケ(政府公式声明)」の表現、字句の追加、添削をめぐって脳漿をしぼる神経戦をくり広げるのだった。
 状況を少し俯瞰してみれば、日米の同盟関係がターニング・ポイントにさしかかっていたことに気づくだろう。両国は、安保条約で政治的、軍事的につながりを深める一方で、経済的には敵対する形へと様変わりしつつあった。
 日本は、毎年、首都圏の人口が30~40万人も増加する都市集中を背景に奇跡的な経済成長を続けていた。パキスタンの外交官が口にした「エコノミック・アニマル」という蔑称は、瞬く間に世界に広まった。かたや米国は、中国の東南アジアへの進出を阻む目的で介入したベトナム戦争が泥沼化し、反戦運動が燃え上がる。財政赤字が募って、国際通貨ドルに往年の勢いはなくなった。
 経済分野も血こそ流さないが力と力がぶつかりあう戦場である。
 各国が曲りなりにも民主主義的な権力分立の体制を敷き、自由な市場経済活動を認める以上、政治の同盟関係と経済のライバル関係が並存するのは避けられない。外へ経済力を伸張する日本と、ベトナムから手を引き、国内へ経済の重心を移したい米国。日米は、右手で政治的な握手をしつつ、経済を握る左手で相手のボディにパンチをぶち込む。そんな抜きさしならない関係の象徴が「糸と縄の交渉」であった。
 しかしながら、フォーカスをふたたび、日米首脳会談の「舞台」に絞り込んでみると、外務当局者たちが大見得を切りあって丁々発止とやりあうのを「カブキ・プレイ」と冷ややかに黙視する人物がいたのも事実だ。「秘密のチャンネル」の黒衣、キッシンジャー大統領補佐官である。
 キッシンジャーは、自著「ホワイトハウス・イヤーズ」(邦訳『キッシンジャー秘録』全5巻、小学館)で、じつにストレートに「ミスター・ヨシダ」こと若泉敬との「秘密のチャンネル」に言及している。その始まりについて、こう記す。やや長くなるが引用したい。

 私が、初めて交渉に関与するようになったのは、佐藤が例の日本的流儀に従って、彼と私の共通の友人で、日本政府内では公的地位をもっていなかった、ある人物 <若泉> を、偵察役として送り込んできたのがきっかけだった。今や、公的地位にいない人物と、当の問題に通じていない人物 <キッシンジャー> の間で折衝を始めようというわけであった。その使者にしても、私にしても、いつお払い箱になるかもしれなかった。やがて、二人はこみいった歌舞伎芝居の演出をするようになった。
 一九六九年七月十八日、くだんの佐藤の使者が私に会いにやってきた。以来、二人は、両国の官僚機構の頭越しに秘密のチャンネルをつくりあげた(ただし、この場合、私は問題に通じていなかったので、わが方の主役たちには細大漏らさず情報を伝えた)。佐藤としては、核、繊維両問題について、その基本的な原則問題でニクソンと了解に達したい意向だ、とのことだった。この基本的問題が片づきしだい、その細目の処理を双方の官僚に命じようというわけだった。私がニクソンに電話をかけ、佐藤の方針を伝えると、ニクソンはすっかりその気になって『それでやってみよう。国務省の面倒をみているわけにはいかない』といった。
(『キッシンジャー秘録』第2巻/< >内は筆者)

 キッシンジャーは、「秘密のチャンネル」といいながら、米国政府の主役たちには細大漏らさず情報を伝えている。佐藤-若泉が秘密を胸のうちにしまいこんだのに対して、何とあけすけといおうか……返す言葉もない。米国側が圧倒的に多くの情報を束ねた状態で交渉に臨んでいたことがわかる。この日米両国の情報の非対称性は、その後もずっと尾を引くことになる。
 では、日本にとって最大の関心事であった「核抜き返還」の筋書きは、どう作られたのだろうか。キッシンジャーは、自身と国務次官が、緊急時の持ち込みの理由付けとして安保条約の「事前協議」制度に着目したと述べている。緊急事態が起きたら、日米が「事前協議」をして沖縄に核を持ち込めばいいという発想だった。
 ところが、外務当局で交渉に当たった東郷文彦は、自著『日米外交三十年』(中央公論社)で共同コミュニケに「事前協議」の一句を入れたのは「わが方情報局苦心の作であり、放置する気にならなかった」と記す。さらに東郷は、「ホワイトハウス・イヤーズ」出版時にワシントンに勤務していたのでキッシンジャーを訪ね、「この人とは通常は先方の話を聞くことの方が多いが、この日ばかりはこちらが喋舌る方に廻って三十分余り交渉当時の話をし、右の一句の版権を明らかにした。博士は他日機会があるから必ず訂正しようと約束した」と誇らしげに書いている。因みに東郷は、同著で「ヨシダ」の存在も認めていない。
 「事前協議」方式を思いついたのが米国側か日本の外務省か、はたまた「ヨシダ」こと若泉なのか、断定しにくい。ただし、キッシンジャーとヨシダは、首脳会談が始まる前の裏交渉で「事前協議」というキーワードをすでに使っている。キッシンジャーは記す。

 「ヨシダ」と私は、しかるべき議事録が残せるように、念入りな筋書きを書き上げ、それぞれの首班にしっかり頭に入れて貰った。「ヨシダ」が佐藤の意向を確かめたところ、それで結構だとのことだった。まず、佐藤が口火を切って、核兵器の持ち込みにはいっさい反対するとの、かねてからの日本側の態度を表明する。これに対して、ニクソンが、アメリカ側の最大限の要求を盛り込んだ、極めて厳しい案を提出する。佐藤は数分間考え込んだあと、あらかじめ合意ずみの妥協案を提出する。
(前出『キッシンジャー秘録』第2巻)

「妥協案」をニクソンが受け入れて一件落着。どちらも押し付けられた形ではなく、議事録に汚点も残らないというシナリオが書かれていた。といっても、ここまでなら公式会談の記録の範囲内にとどまる。
 じつは、ほんとうの「密約」を交わす舞台が、会談終了後の一瞬の間をついて、大統領執務室の隣の「小部屋」に設えられたのである。

「小部屋」での「密約」

 佐藤の密使、若泉敬は、キッシンジャーと違って長い間秘密を守った。墓場まで持っていく覚悟だったのかもしれない。だが、秘密交渉から25年を経た1994年、『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』という二段組、630頁に及ぶ大著を文藝春秋より上梓し、「秘密のチャンネル」における自らの行為を描ききった。巻頭で「私自身の行った言動について 私は、良心に従って真実を述べる。私は、私自身の言動と そこで知り得た事実について 何事も隠さず 付け加えず 偽りを述べない」と宣誓し、署名捺印して始まるその本は、ずっしりと重い歴史の証言である。
 若泉は、冒頭で、沖縄の「同胞」とかの地に眠る無数の英霊を想うと、「鋭利な刃で五体を抉られるような気持に襲われたことすら一再ならずあった」と告白する。長い沈黙を破ったのは、「私が歴史に対し責任を負うことを公然と自らに課し、かつそのことを改めて確認するための営為」と規定している。
 この本の刊行から2年後、若泉は66歳で黄泉へと旅立った。死因は、癌性腹膜炎。『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』には緊急時の核兵器持ち込みの「事前協議」について、若泉がキッシンジャーとは別の意味でこだわっていたことが綴られている。
 「単なる事前通告でやられるのは困る」というのが若泉の本心だった。
 首脳会談の二週間前の朝、若泉は極秘に総理公邸を訪ねて佐藤と面談した。下田駐米大使から「数日後に米国から核問題に係わる返事をもらう」との報告を受けたという佐藤に、若泉は反論する。米国側が「核」の交渉カードを切るのは最後の最後とキッシンジャーとの裏交渉でつかんでいた。以下、若泉の著書からの抜粋。

 「総理、そんなはずはありません。返事は来ません。そのことは、最初からあれだけ私が申し上げているでしょう」
 「うーん。(やや間をおいて)核について、特別の取り決めとか、協定、条約などは一切結びたくないんだが……」
 「その原則はいいでしょう。私も賛成です。唯一の問題点は、いまや、核を抜いて返還させたあとの、再持ち込みと通過の権利を相手にどう保証するかに絞られています。緊急の非常事態をどのように定義するか、誰が判断するかが問題で、単なる事前通告でやられるのは困ります」
 「アメリカが力でもって決行しても、君、侵略にはならんだろう。そういう大変な危機の非常時が起れば、日本のためにも必要かもしれん。大統領が担っている責任の重さは、自分もよく理解できるつもりだ」
 「向こうがどうしても書いたもので保証してくれ、と固執して譲らない場合は、――その可能性が非常に高いのですが、一つの方法として、合意議事録にして残し、首脳二人がイニシャルだけサインするというのはどうですか。絶対に外部には出さず、他の誰にも話さず、ホワイトハウスと首相官邸の奥深くに一通ずつ、極秘に保管するということでは」
(前出『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』)

 ここが、「密約」を、若泉が佐藤に持ちかけた場面である。公式声明以外の「合意議事録」にサインをして残そうと薦めている。さらにやりとりが続く。佐藤は訊ねる。

 「向こうは絶対、外部には出さんだろうな」
 「それは、大丈夫です。強く念を押し、確認してきています。心配なのは、むしろ、こっちです」
 「それは大丈夫だよ。愛知にも言わんから。破ったっていいんだ。一切、言わん」
(同前)

 佐藤の「破ったっていいんだ」の一語も凄い。秘密の罠は、それが暴露されるかどうかのところに仕掛けられているのではない。秘密を共有する関係性のなかに存在する。秘密と言いつつ役者たちに情報を伝えるキッシンジャー、秘密だから「破ったっていいんだ」と居直る佐藤。国を背負って、こういうことをする政治家の業の深さに背筋が寒くなる。
 首相公邸で佐藤との面談を終えた若泉は、その足でアメリカに飛んだ。
 キッシンジャーと「密約」=合意議事録に両首脳がサインをする段取りを話し合った。首脳会談には両国の高官も同席するが、肝心な部分のやりとりは佐藤とニクソン、通訳だけで行われる。日米の高官たちは別室で待機する。両首脳サシでの話し合いとはいえ、密約を交わすには通訳が邪魔だった。完全に二人だけの空間を確保しなくてはならない。キッシンジャーがアイディアを披露した。

 「じつはオーバル・オフィス(大統領執務室。この部屋で首脳会談が開かれる―若泉注)に隣接して小さな部屋がある。大統領しか使わないんだが、そこにいろんな美術品が置いてある。そこで、会談の終わりごろ、『ふだん誰にもお見せしないんだが、今日は私の好きな美術品を特別にご覧いれましょう』と言って、佐藤氏を招き、大統領と二人が入ったらドアを閉める。そこに前もって別の入口から自分が入っていて、議事録を二枚出してイニシャルを記入してもらう。こういうのはどうだ」
 「なるほど、それはいいアイディアだ。それが自然な形でやれれば結構だ。これから電話では、この件は“小部屋”ということで、話すことにしよう」
 「やれやれ、これでサインの問題が片づいた」
(同前)

 若泉とキッシンジャーが書いたシナリオに沿って役者たちはそれぞれ演技した。
 日米首脳会談、初日。ワシントン時間11月19日午前10時、佐藤とニクソンはホワイトハウスの大統領執務室に入った。通訳しか付き添っていない。会談は1時間40分続いた。話し合いが終わると、日本のテレビ、ラジオは「1972年、核抜き、本土並みで沖縄返還が決定」と報じた。
 会談後、佐藤から直接説明を受けた木村官房副長官が、記者会見を開き、「沖縄問題を含めた話合いが行われ、しかも沖縄は本日をもって話合いが終わった」「1時間40分の間、両首脳はまったく二人だけで話合った。最後に愛知外相が呼ばれ、二、三分入った。われわれ他のものは、閣議室で控えていた」と発言した。
 果たして「小部屋」での「密約」は交わされたのか?
 日経新聞の同年11月20日付夕刊は、高官が待機していた閣議室から「キッシンジャー補佐官が途中で退席」とごく短く、伝えている。密約のサインの準備をしに「小部屋」入ったのだろう。若泉は、あくまでも黒衣の立場を貫き、会談現場には赴かず、東京に留まっていた。その夜、佐藤から国際電話を受けた。

 「約束どおりだった。万事うまくいった。有難う」
 待ちに待ったこの第一報。通話の状態もよく、総理の声は弾んでいた。私は、文字どおり安堵の胸をなで下ろした。
 「それは、本当によかったですね」
 私の声にも、おのずと歓喜の心と力がこもっていたように思う。続けて、
 「小部屋の方も、私の友人(キッシンジャー氏)の話のとおりでしたか」
 「そう、そのとおり。ただ一つ違っていたのは、サインの件だけどね。別室へ入ったら、予定どおり君の友人がいて、紙があった。それに眼を通して確かめた。ところが、先に、向こうの先生がフル・ネームでサインしてしまったもんだから、俺もそうしたんだ」
(同前)

 キッシンジャーは、この「小部屋」での「手続きに関する申し合わせ」と、極秘の「合意議事録」の英文草案を若泉に手渡した。若泉は、佐藤とニクソンがサインをしたであろう「合意議事録」の草案を自著の口絵写真に使っている。そこには「極めて重大な緊急事態が生じた際には、米国政府は、日本国政府と事前協議を行った上で、核兵器を持ち込むこと、及び沖縄を通過する権利が認められることを必要とするであろう」(合衆国大統領)、「日本国政府は、大統領が述べた極めて重大な緊急事態が生じた際における米国政府の必要を理解して、かかる事前協議が行われる場合には、遅滞なくそれらの必要をみたすであろう」(日本国総理大臣)としたためられている。
 もはや「小部屋」での密約は動かしがたい事実であろう。ジャーナリストの春名幹男が書いた『秘密のファイル CIAの対日工作』(共同通信)でも物証が示されている。春名は、キッシンジャーのスタッフだった人物が1997年に来日した際、「機密解除」された佐藤―ニクソン会談メモを見せられて、こう説明を受けたという。
 「(注)大統領は、カリフォルニア州サクラメンテの自分の家の写真を見せるため、首相を自分のプライベートオフィスに招いた。どちらの通訳も同席しなかった」
 会談メモはそんな(注)を挿入している。
 「これがまさに密約に署名した瞬間だよ」
 キッシンジャーと若泉の筋書きでは「美術品」をニクソンが見せるために「小部屋」に佐藤を招くとあったが、実際には「家の写真」を通訳から離れる口実に使ったようだ。

 首脳会談初日の夕方、キッシンジャーは国際電話で若泉に翌日の焦点「繊維問題」の対話を具体的に指示してきた。まず、ニクソンが、国内の厳しい状況を説明したうえで、「米国はGATTによる多国間会議で『包括的』な規制について国際的解決を図るつもりだが、その前提として日本の協力を求めたい」と切り出す。これを受けて、佐藤首相は次の五つのことを明言しろ、とキッシンジャーは要求してきた。

 1. 今年(69年)末までに日米二国間で本格的な討議と交渉を進めて協定として煮つめる。(ジュネーブでの予備会談を討議の場へと発展させても可)
 2. 自分(佐藤)も「包括的」規制を実現したい。
 3. 日米二国間の協定は極秘とし、一切公表しない。
 4. 米国が多国間会議を開くのであれば、総選挙後にしてほしい。
 5. 米国が多国間会議を始めたら、日本は日米間の秘密協定に沿って、関係諸国に働きかけを行う。

 キッシンジャーは、このとおり佐藤が話してくれれば共同声明に繊維の文字は一切入れない、と言った。逆からいえば、佐藤が要求を拒めば共同声明がどうなるかわからないぞ、と静かに脅したのである。
 米国、いやニクソンにとって、繊維問題こそが首脳会談の主題だった。ここまではっきり「成果」を求めたのは、すでに9月末時点で「秘密のチャンネル」を通じて米国側の繊維問題の責任者スタンズ商務長官から佐藤に一枚のペーパーが届けられていたからだった。そのペーパーには、輸出自己規制の適用範囲は「毛及び化学合成繊維の繊維製品、それらの混紡を含む」、期間は「1970年から始まる5年間」、さらに各製品に上限を定め、その上限に対する輸出の年間増加量まで示されていた。米国側は、このペーパーの数字まで明示した「包括的」自己規制を佐藤が認めたからこそ首脳会談に応じた、との立場を崩さなかった。スタンズのペーパーは、後々、繊維交渉を泥沼へとひきずりこんでいく。
 若泉は、すぐさま佐藤に電話を入れ、キッシンジャーからの要求を伝えた。佐藤は頭を抱え込んだ。「もうちょっと時間をくれ」と優柔不断な態度をとった。それをキッシンジャーに伝えると「先の筋書きで話が進まぬと大混乱になる」と恫喝を返される。
 思えば、奇妙な図である。当のニクソンと佐藤、キッシンジャーは、その間、公式晩餐会のディナーに舌鼓を打ち、美辞麗句を並べあって笑顔をふりまいている。タフなネゴシエーションは、回線事情の悪い国際電話で東京杉並の自宅にいた若泉を中継して行われていたのだ。若泉は、どんな思いで長い夜を過ごしたものだろうか……。
 日米首脳会談、2日目。現地時間11月20日午前10時過ぎより、2時間余りにわたって経済問題を中心に話し合いが行われた。繊維に話題は集中した。
 会談終了後、キッシンジャーは「満足していない」と電話で若泉にぶちまけた。「包括的」と「今年12月末まで」というキーワードに佐藤が言及しなかったのだ。ことここに及んでも、佐藤は口を濁している。首相が、かくも慎重になったのは繊維産業が明治維新後の近代化のシンボルでもあったからだ。日本は、生糸の商いから、繊維製品を貿易の基軸として産業の近代化を図ってきた。そのすそ野は全国各地に拡がり、無数の中小私企業が支えていた。いわば繊維は「産業の森」を形成している。一握りの大手が規制すればすむ話ではない。「包括的」自己規制を受け入れてしまえば、その「産業の森」は枯れ果てる怖れがあったのだ。
 若泉から先方の不満足を知らされた佐藤は、「官僚機構を使いこなすのが難しい」と返答している。沖縄の密約つき核抜き返還と繊維の間で、佐藤の心は千々に乱れた。
 翌21日、首脳会談は最終日を迎える。佐藤の秘書官だった楠田實が著した『佐藤政権・2797日』(行政問題研究所)によれば、会談の冒頭で佐藤は、「ジュネーブ交渉はできるだけ12月末までにケリをつけたい」「包括的解決という考え方にこだわらないでもらいたい」。その代り「帰国後、日本側代表団の構成を強化する」と伝えたという。
 しかし、キッシンジャーは「佐藤は、全責任を負うこと、約束を守ることは自分の『信条』であり、『誓約』とみてもらってよいこと、この目的のために誠意をもって、全力を尽くすつもりであることを明言した」と自著に記している。
 「包括的」、日本語にすればわずか三文字の表現をめぐって、日米の「糸」は絡まりあったまま首脳会談は終わった。こうして、公式、非公式、「秘密のチャンネル」さまざまな折衝が重ねられ、日米共同コミュニケは、発表された。
 沖縄の「核抜き」返還には「事前協議」の条項がつけられ、「繊維」に係わる字句はすべて削られていた。「核」と「繊維」は表面的には切り離されたのだった。
 外務省は、未だに沖縄返還と繊維交渉は別物との主張を崩していない。密約も否定、あるいは「ノーコメント」で通す。首脳会談後の繊維問題の紛糾についても、東郷文彦は「これは長い日米経済摩擦の歴史の一頁であり、繊維が沖縄との取引材料にされたなどと云うのは、言葉は悪いが下世話に云う何とかの勘繰りと云うものであろう」(前出『日米外交三十年』)と突き放す。外務省は、いったい何を守ろうとしているのだろうか……。

 東京永田町の自民党本部。田中角栄幹事長は、共同声明の発表直後、朝日新聞のインタビューを受けた。「事前協議」について注目すべき発言をしている。戦中、戦後を駆け抜けてきた田中らしい日米観の披瀝であった(11月23日付)

――佐藤首相は共同声明やプレス・クラブの演説などで、日米新時代とか新太平洋時代とかいっているが、これからの日米関係についての自民党としての具体的構想はあるのか。
田中 「日米新時代」などというと、すぐ「米国の肩代わり」とか、大国意識とかいったいわれのない批判を受ける恐れもでてくる。しかし、首相のことばは、そういう意味ではない。むしろ、戦後二十五年の終わりを告げるときがきて、新しいスタート台に立っているという気持なのだ。
 戦後の日本の安全や経済の繁栄は沖縄県民の犠牲のうえに立っていたともいえる。だから佐藤首相も「沖縄の祖国復帰が実現しなければ日本の戦後は終わらない」と悲痛なことばを吐いたのだ。いま、それが実現したことは、特筆大書されるべきだと思う。とくに共同声明を読んで感じたのは、沖縄の国政参加問題を一気に片づけられるということだ。むろん本土なみの国政参加だが、もし(師走の)総選挙をやるなら、そのあとの特別国会で当然議題にすべきものと思う。
――野党はおそらく「事前協議を米国の立場を害さずに運用する」というくだりをとらえ、これは核持込みや米軍の自由発進の歯止めをなくしたものだ、と批判すると思うが……。
田中 野党側は、こんなにすんなり決まるとは思わなかっただろう。もっとクレームがつくと思ったに違いない。ただ、議論しようと思えば、いくらでもできる。事前協議の運用では、日本がこれだけ経済発展したのに、野党も含めた国民的合意を無視して米国の利益だけが守られるなどということは、絶対にありえない。そこまで対米従属の考えをもつのは占領軍時代の被害妄想だ。(下線筆者)

 首脳会談を終えて帰国した佐藤首相は、間髪を入れず、衆議院の解散、総選挙を表明した。公邸の応接室に若泉を迎え入れた佐藤は、「ところで総理、“小部屋の紙”(日米秘密合意議事録)のことですが、あの取り扱いだけはくれぐれも注意してください」と言われて、こう答えたという。
 「うん。君、あれはちゃんと処理したよ」
 師走の27日に投票が行われた総選挙は、自民党が288議席を獲得して圧勝した。社会党は、「大なだれ」を打って議席を失い、100議席を割り込んだ。完敗である。「安保条約廃棄・沖縄即時無条件全面返還」という空手形を民意は見放したといえるだろう。
 田中幹事長の狙いどおりの結果に終わった。だが、この大勝利の悦びを田中がかみしめている余裕などない。太平洋の向こうから繊維輸出自己規制を求める大波が押し寄せてくる。佐藤は、通産大臣を大平から宮沢喜一に交代させて乗り切ろうとするが、手に負えない。意のままに進まぬ交渉にニクソンは「憎悪」の焔をたちのぼらせる。繊維問題は国政上の問題なのだ、と覚った佐藤は、二進も三進もいかなくなった局面で「汚れ役」を田中に押しつけた。田中を通産大臣に任命し、繊維交渉の全権を与えた。
 田中角栄、一世一代の修羅場に臨むのであった。

草思社