Web草思
田中角栄を歩く 山岡淳一郎
第6回 占領軍と官僚の狭間で……(後編) 都市の魔性
 田中角栄は生涯に46件の法案を議員立法で提案し、33件を成立させた。31歳から36歳の「下積み時代」に何と26件もの法案を提出している。党幹部、閣僚として深く係わった法案も含めれば、田中の尽力で日の目を見た法律は120本を越える。他の政治家が足元にも及ばない数である。
 戦前、戦中の明治憲法下では立法権も天皇に属しており、帝国議会は協賛機関にすぎなかった。実質的に立法権を握っていたのは藩閥、政党、軍部と結びついた官僚と特権階級だった。だが、敗戦を機に新憲法が公布され、主権在民、国会は立法の府に変わる。その気になれば国会議員は誰でも法案を提出できるようになった。
 「一土建業者」だった田中がこれだけの議員立法をものにした。彼が戦後民主主義の申し子といわれる所以である。
 と、教科書的にはひとまず説明できるだろう。
 しかし、冷静に考えれば、いかに田中が天才的な洞察力を発揮し、虐げられた民衆の怨念を背負って復興から建設へと情熱をたぎらせたにしても、ひとりで法案が作れるはずもない。建設委員会で「国土総合開発法(閣法)」の旗振り役となった1950年には「首都建設法」「建築士法」「京都国際文化観光都市建設法」「奈良国際文化観光都市建設法」を議員立法し、「住宅金融公庫法」「建築基準法」の立案にも首を突っ込んでいる。土木、建築に関する法律にはどん欲に片っ端から手をつけた。
 法案づくりは神経をすり減らす作業だ。過去の厖大な法令集を引きながら「又は」の一語をどこに入れるかにも脳漿をしぼる。「and」か「or」か、で大激論となる。法案策定のプロである官僚の手を借りなければ、とてもまとめきれるものではない。
 田中に議員立法が集中した背景には、GHQと向き合いつつ、法律をテコに自己増殖を狙う建設官僚たちの思惑があった。

「あの人に頼めば早いから」

 50年6月に朝鮮戦争が勃発すると日本の産業界は長いトンネルから抜け出た。敗戦後に講じられた、どんな経済政策よりも朝鮮戦争のインパクトは強烈だった。鉄鋼業界は大手から町の零細工場にいたるまで「金へん景気」に沸きかえる。軍用トラックの大量受注で自動車会社が息を吹き返す。繊維、化学産業がV字軌道を描いて立ち上がる。
 経済復興の手ごたえをつかんだ建設官僚たちは、使い勝手のいい田中を利用した。
 51年5月、田中は同僚16名とともに衆議院に「公営住宅法案」を提出している。住宅は300万戸以上足りなかった。自治体が国庫補助金を使って賃貸住宅を建設するこの法案は、可決、成立にむけて、いささか複雑な行程をたどる。
 衆議院で可決され、参議院に回されるのだが、その前後に厚生省から修正の横やりが入った。建設委員会と厚生委員会の合同審議が開かれ、一部の公営住宅の建設および管理に厚生省側の発言権を認めること、海外からの引揚者の応急住宅は厚生省の管轄にとどめること、といった修正ポイントが掲げられた。
 そして参議院の建設委員会では、法案づくりに汗を流した角栄ではなく、同じ田中でも社会党の田中一の提案で一部修正のうえ可決。即日、衆議院に回され、同意のもとに成立した。建設省と厚労省の対立、与野党間の面子の問題、GHQとの係わり……さまざまな要因が絡まりつく状況に官僚が田中角栄を担ぎ出す「意図」も透けて見える。
 当時、建設省住宅局企画課課長補佐として公営住宅法案を立案した川島博は、あきれるほどあっけらかんと田中に議員立法を依頼した理由を語っている。以下、『証言 日本の住宅政策』(大木圭、日本評論社)所収の発言より抜粋してみよう。
 「議員立法であれば内閣法制局の厳重な審査ではなくて、衆議院法制局の簡単な審査ですむし、時間も比較的かからない。なによりもGHQがノーマークでフリーパスにしてくれるんです。そこで田中角栄氏に頼んだんです」
 「(田中角栄は)土建屋ですから建設行政に理解があったのです。彼は、当時、田中土建工業の社長だったんです。(略)請負業ですから、たとえば昭和23年か24年の自治省のビルは前が五階で後ろが四階だったのですが、その四階部分を五階にする鉄骨の増築なんかも請け負ったんです」
 「当時から公共工事は産業の大きなバックボーンだったんです。当時は道路はあまりなく、ほとんどが災害復旧で河川工事が主でした。それに住宅建築が加わるのですから、建設業界としては大歓迎しますよ」
 「それで議員の間で建設族というのが生まれたんです。どこの橋を直してください、どこの道路を直してください、といってくる」
 「あの人(=田中角栄)に頼めば早いから。そこで各党にわたりをつけて、野党の頭もなでて、全会一致ということにしてもらったわけです。共産党もたしか賛成したはずですよ。要するに国会のまとめ役には最適だったんです」
 つまり建設省と厚生省との調整がつかず、政府案としての法案を出せない。そこで田中に頼む。田中は貧困層への住宅供給を党是とする社会党に参議院で花を持たせて可決させた、というわけだ。三十そこそこで老獪なまでの調整力を身につけていた。裏でカネが動いたのかどうか……そのあたりは定かではない。
 議員立法はGHQの受けもよかった。大統領制の米国では政府に法案提案権がなく、立法権は上下両院に委ねられている。議員は法案を提出するのが仕事である。議員立法こそ「本筋」の考え方が根強かった。議院内閣制で近代化を遂げた日本とは「歴史的現実」が大きく異なっていた。占領下ではGHQの目が光っていて法制化の仕事がやりにくかったのではないか? との質問に川島は次のように答えている(「前同」)
 「逆です。アメリカは大統領制のもとにおける議員優位主義のお国柄から、およそ政策というものは議員が立法化を行って、それにもとづいて公務員は忠実に実行する。これが正しい民主主義国家のあり方だという慣行がある。そういうアメリカの思想から見ると、日本はあまりにも法律が少なすぎる。だからアメリカはむしろ法律をつくることを奨励したわけです、それも議員立法の形で。
 ところが、日本の議員にもスタッフにも、残念ながら立法能力がない。それで戦後あわてて(経済)安定本部から派遣された職員で調査部を各委員会ごとにつくったわけですが、その職員たるやなにしろお茶くみというかクラークみたいな人ばかりで立案能力がない。それで政府各省のベテラン事務官が中心になって立案全部をやったんです」
 「……GHQのオーソライズには野党でも反対できない。反対したら、GHQに罷免されますから、非常に楽なわけですよ。今日のように野党相手の工作に奔走してクタクタになるというような手間が省けます」
 川島の証言には悪びれたところは少しもない。ここに戦前、戦中と戦後の「不連続の連続」が見出せる。わたしたちは、長い間、敗戦で軍部が消え、民主主義のもとに新たな国づくりが始まった、と教えられてきた。しかし、国民の生活を実質的に縛る諸制度は、戦前から連綿と続く官僚の系譜によって練り直されたのだった。GHQは、憲法、農地解放、教育、地方自治、労働など国のしくみの根幹には自ら手を突っ込んで大きく変えたが、法律レベルでは官僚に任せるしかなかった。スタッフに実務能力がなかったのである。
 戦前から戦後に生き延びた官僚群は、いわば「GHQの影法師」としてその威光を盾に制度の網を編んだ。
 たとえば、現在、建築確認制度の混乱で物議を醸している「建築基準法」の立法過程が象徴的だ。川島はこの法案づくりにも携わっている。
 「(建築基準法の提案は)こちらからいい出したんです。担当官はスタニックという人ですが、前身はなんだと聞いたら、ロサンゼルスの建材屋の番頭でしたが、なにも知らないんです。マッカーサーとか偉い人は教養人かもしれないけれど、建築などを担当するGHQのスタッフにはなり手がいないわけです」
 「貴国アメリカの制度に習ってこう変えたいともっていったのだから、オーケーですよ。向こうはわからないから」
 「建築基準法はアメリカではビルディング・コードといいますが、市町村の条例なんです。アメリカには国の統一法典はない。そこでロサンゼルスとかニューヨークとかの大都市のビルディング・コードをいくつか取り寄せて翻訳し、それをお手本にして基準法をつくったわけです」
 条例を手本にしたといっても、米国の自治体の建築許可を下支えする専門家の「アプルーバル(承認)」を日本独特の「建築確認」に翻案し、建築主事という名の役人の受け皿を増やすなど、官僚のやり口は巧妙だった。その後、建築基準法は事故や事件が起きるたびに改正され、屋上屋を重ね、まるで宮崎駿の『ハウルの城』のように歪な形になっている。

「電源開発法」の議員立法

 田中は議員立法に忙殺された。
 「角さん、ガリ版切ってよ」と官僚に頼まれ、「よっしゃ、よっしゃ」と額に汗を浮かべ、ちょび髭をヒクつかせながら謄写版に向かう。官僚が作成したメモを見ながら、鉄筆で原紙に一文字、一文字、草案を書き込んでいく。ガリ版刷りの原案ができると、GHQに走る者、各省折衝に向かう者、法制局に持ち込む者と官僚たちは四方八方に散る。そこでまた、脳みそをキリでうがつような駆け引きが展開され、手直しに次ぐ手直し。ひとつの法律を改正するにも文学全集を出すほどの作業量が生じた。
 そのなかで、田中は脂汗を滴らせながら、じっと官僚という生き物を観察した。
 こいつらは頭脳が肥大した化け物だ。明治維新の太政官布告以来、国家経営のノウハウが年代別、項目別に整然と頭のなかに叩き込まれている。まるで動く図書館のようだ。スイッチひとつ押せば、法律の背景から及ぼす影響までたちどころに回答が出てくる。こいつらをどう使いこなせばいいのか。田中は官僚に利用されながら、立場を反転する機会をうかがった。やつらに信頼され、やつらを働かせるには何をすればいいのか……。
 政治家、いや人間の情を操る叩き上げの経営者としてのひとつの回答が「体を張る。泥をかぶる」ことだった。52年、角栄はGHQを相手に最後の大喧嘩を吹っかける。
 「電源開発法」の議員立法である。
 この法律は、火力や水力の発電施設を整備して、「産業のコメ」である電力の供給を増やし、産業の振興を図る目的で立案された。ところが、朝鮮戦争の勃発で日本の軍事的、経済的存在価値が高まりつつあったが、GHQは真っ向から反対した。すでに再軍備の潜在的脅威となる重化学工業や精密機械工業を賠償施設として東南アジアに移す方針を打ち出していた。軍需産業に転換できる基幹産業の振興には難色を示す。
 田中は「公職追放するぞ」と脅かされながらも占領軍に抵抗した。御大・吉田茂のバックアップを受け、重工業の振興は経済発展のためであり、再軍備とは無関係と言い切って法案提出にこぎつける。時勢は田中に利した。七年に及ぶ米軍の占領が、52年4月、サンフランシスコ講和条約の発効で終止符を打った。ようやく日本は独立する。その年の7月、電源開発促進法は成立し、政府出資の特殊法人「電源開発株式会社」が設立されたのだった。
 電力不足の解消に向け、一気に大規模なダムの建設が進む。佐久間ダム(56年)、田子倉ダム(59年)、奥只見ダム(60年)、御母衣ダム(61年)と水力発電ダムが操業を開始。政官財の癒着による大疑獄も持ち上がる。石川達三の長編小説『金環蝕』(岩波現代文庫)にはダム建設にまつわる野望と欲にまみれた人間の姿、政治腐敗、国費の濫費が鮮やかに描かれている。経済発展の「光と影」のコントラストは、より一層強くなった。
 50年代半ばから70年代初めの石油ショックまで、工業発展に伴う電力需要は急拡大し、いつ電力不足、停電が起きても不思議ではなかったが、安定供給が維持された。電源開発法が経済の高度成長への発射台となったのは間違いないだろう。

「役人たらし」角栄

 角栄は一瞬たりとも立ち止まらない。「攻撃は最大の防御」を信じて疑わない。電力供給の見通しが立つと、新たな狼煙を上げた。
 「ともかく、電力拡大のめどはついた。それでは、次に、敗戦で崩壊した日本経済を復興させ、自立から成長に向かって牽引車になるものは何か。交通網である。明治以来、わが国の国民総生産は鉄道の建設テンポにだいたい比例して拡大してきた。鉄道に次ぐ第二の交通網は道路だ。道路とともに経済は発展する」
 田中は、道路法を改正した。大蔵省の反対を押し切って、道路の有料化、ガソリン税の導入で財源を確保。ガソリン税の導入では100日間の長期審議を、ほとんど一人で受けて立った。54年からの10年間、日本経済は平均10.4%の成長率を示した。これは、道路費の伸びにほぼ比例している。まさに道路とともに経済は発展している。攻めに徹したときの角栄の空恐ろしいほどの力強さを物語る数字である。
 そして、国土開発関連法案の策定を切り盛りするうちに田中は官僚を使いこなすコツをつかむ。いつの間にか立場は逆転していた。23年間田中の秘書を務めた早坂茂三は、インタビュー(『戦後国土政策の検証・下』総合研究開発機構)に応えて「オヤジ」の官僚操縦法を次のように要約している。
 「役人の目線の高さは、いつでも現行法体系の枠の中に閉じ込められている。そしてこれを超えようとする役人は危険な役人だ。ではどうするか。政治家が鳥になって、地べたから上に飛んで、上から下を見て、鳥瞰的、俯瞰的に全体を見渡して、政治の進むべき方向を具体的に、簡潔に、明快に、一点の誤解の余地もないように役人たちに示すことである。そうすれば、役人たちが一気に動き出す」
 「ふたつ目は、日本の役所は世界に冠たる割拠主義、セクト主義の総本山である。横の連絡ゼロ。省あって国なし、局あって省なし、課あって局なし、これが日本の役人だ。だから、連中を結びつけていくのが政治の役割だ」
 「役人の属性の三番目は、とにかく自分の経歴に瑕疵がつくこともいやがる。だから、役人に思い切って仕事をさせて、失敗したときの泥は全部、政治家がかぶる。これを保証すれば、彼らは動き出す」
 田中の通産大臣時代(71年)、秘書官として付いた小長啓一(元通産事務次官・アラビア石油社長)は、当時をこうふり返っている(『前同・下』)
 「あの頃、田中さんとの付き合いで、毎朝6時頃田中さんは起きて業界新聞を含めて7,8種の新聞を全部目を通していて──私どもが秘書官として田中さんの家へ行くのは大体7時半頃だったですけれども、全部新聞を読んでおられましたから、一面トップに通産関係でこんな記事が出ておったけれども、これはどういうことかねといきなり聞いてくるわけです。こっちはまだ読んでなかったときもありましてね。だんだん、これはということで私も7種類くらい全部とりまして、車のなかで全部読みまして、田中さんと会う前に一面トップで変なのが出たりしますと、担当局の責任者に話を聞いて、あらかじめタマを仕込んだうえで田中さんと会うと。そのへんで田中さんと付き合う要領を覚えまして。それから、長々と説明しちゃいかんと。三つの、1、2、3というくらいで要点を絞ってやるという手順もその頃、覚えさせられました」
 田中は秘書や官僚の報告に厳しい注文をつけた。
 早坂は「いつも紙一枚、その一番はじめに何々の件と案件名を書く。その次に対応を簡潔に書く、それから最後に理由を三つ、箇条書きにして書く。角栄は、どんな案件でも必ず理由は三つ存在する、またそれ以上の理由は必要ないと言って、われわれは厳しくしつけられたもんです」と述べている。
 一般からの陳情や政局運営、選挙、政策立案と厖大な案件を瞬時にさばいた角栄コンピューターは、「要点を簡潔に、理由は三つ」という独特の情報処理方法を貫いたようだ。「ミスター全総(全国総合開発計画)」と呼ばれた建設官僚、下河辺淳(元国土政務次官)は、仕えた歴代総理のなかで吉田に次いで田中が面白かったと回顧している。
 「岸さんとか、池田さんとか、佐藤さんというと、官僚にわかりやすい話なのです。それだけに、おもしろさを感じないのです。非常にきっちりとした政策論だし、六法全書に対して忠実ですし、それに対して田中さんとか吉田さんは、やりたいなら法律をかえればいいという人たちだから、随分ニュアンスは違うかもしれません」(『戦後国土計画への証言』日本経済評論社)
 田中は人後に落ちない「役人たらし」となった。

「都市政策大綱」──水は低きに流れ、人は高きにつく

 田中が「天下盗り」を意識したのはいつだったのか?
 生前のかれを知る人たちに尋ねても、あるいは汗牛充棟の田中文献を当たっても、明確にそのときを画するのは難しい。本人も語っていない。あれよ、あれよという間に政権の座に駆け上っていた、というのが大方の見方である。
 おそらく、39歳で岸内閣に郵政大臣で初入閣し、NHKのラジオ番組に出て「賭場に小判が乱れ飛ぶー」と浪花節をうなってミソをつけた頃は「天下盗り」など考えてもいなかっただろう。「越後から出稼ぎに来た兄にゃ」のまま政界を泳いでいる。池田内閣で自民党政調会長、大蔵大臣の椅子に座っても、帝大卒のエリートを支える役を任じていた。
 政界の裏表を知り尽くした元国会議員は「佐藤栄作が田中をしゃぶりつくしたんだよ。佐藤内閣の幹事長に就任した田中は、選挙を仕切った。汚れ役は、全部、田中に押しつけられた。そのなかで田中はカネの力を改めて知ったんだね。裏日本の寒村に生まれた政治家、田中角栄の核は『民衆への忠誠』だった。そこは間違いない。だが、親分の佐藤が、汚れたカネで権力を掌握していく。その旨みを知るうちに俺もいつか、と思ったんじゃないか。佐藤栄作というのは食えない人だよ」と言った。
 66年12月、自民党を中心に発覚した「黒い霧事件」の余波で田中は幹事長を更迭される。久しぶりの浪人生活である。党内の同期議員たちが、角栄を遊ばせておくのはもったいない、あいつは国土政策面で議員立法の経験がある、これを機に党内で田中を先頭に体系的な具体策をつくってはどうか、と声を上げた。
 秘書の早坂が、そうした党内の動きを角栄に伝えると、「よし、そのとおりだ。建設省の下河辺を中心に活きのいい役人を二、三十人集めろ」と号令が下った。ほどなく東京・平河町、砂防会館四階の田中事務所に官僚たちが集合した。田中は、一切メモも見ず、これまでの国土政策の流れと今後の政策課題について四時間ちかく滔々と弁じた。田中は独演会のなかで「過疎と過密の同時解消」「水は低きに流れ、人は高きにつく」と何度もくり返した。あの濁声が響き渡る。
 「地方の過疎、都会の過密、これはつながっている。いっぺんに解消せねば、手遅れになってしまう。ね、諸君もわかっておるだろう。水は低きに流れ、人は高きにつく。いいか、社会資本が整備され、環境が整った高きところに人は住むのだ。同じ日本人に生まれながら、東京に住んでいる人と北海道に住んでおる人に差があってはいかんのだ。東京では、真冬に酔っ払って道に寝転がっていても、救急車がきて助けてくれて、ひと晩、どこかで介抱されるかもしれん。翌日には身体安全で解放されるだろう。まぁ、お灸のひとつ、ふたつはすえられるだろうがね。しかし、同じ人間が、北海道で倒れていたら救急車は来てくれず、凍死する。それではダメだ。日本列島どこにいても、シビルミニマム(市民レベルで維持すべき最小限度の生活水準)が整っていなくてはならない。
 そうでなければ、東京へ、東京へ、集中現象は加速して、将来的には東京は高齢者人口のたまり場になる。そうなれば、社会保障負担からも耐えられなくなる。過疎、過密の同時解消をすべく、思い切った国土政策を断行しよう。諸君は、全身全霊、知恵を絞って打ち込んでくれ。全責任は、わしが持つ」
 67年3月、自民党都市政策調査会が発足した。与党が都市問題に本格的に取り組んだのは、このときが初めてだった。喋りだしたら止まらない田中会長は、早坂たちの配慮で最初と最後の総会にだけ顔を出した。その間、共同通信政治部記者から田中の私設秘書に転じた麓邦明と早坂が、おびただしい数の分科会に出席し、オヤジに代わって国会議員たちの質問に答えた。
 翌年2月、砂防会館に小型トラック一台分の資料が運び込まれ、麓と早坂は草稿執筆にとりかかった。徹夜に次ぐ徹夜。ふたりは63回、草稿を書き改め、眼底出血と血尿に悩まされながらまとめ上げた。5月、約6万語に及ぶ「都市政策大綱」が発表された。国土建設をライフワークとしてきた田中にとって「都市政策大綱」はひとつの到達点であった。
 その骨子は大きくわけて、次の5項目から成り立っている。
 (1)「新しい法体系と中央行政機構の設置」。(2)「職住近接の原則に基づき、立体高層化で都市を再開発」。(3)「広域ブロック拠点都市の育成」。(4)「国土改造の資金確保のための国民全体の資金と貯蓄の活用」。(5)「公益優先の基本理念のもとに土地利用の計画と手法を確立」。これらの項目のなかで、(5)の土地政策は、自民党の政策案としては画期的なものだった。公共の福祉の前では私権制限もやむなしとの考え方が盛り込まれたのである。5月28日付けの朝刊各紙は、一斉に都市政策大綱を報じた。とりわけ朝日新聞は、一面トップで要旨を紹介したうえに社説で「自民党都市政策に期待する」と持ち上げた。
 「……『過去二十年にわたる生産第一主義による高度成長が、社会環境の形成に均衡を失い、人間の住むところにふさわしい社会の建設を足ぶみさせた』と反省し、公益優先の基本理念のもとに、各種私権を制限し、公害の発生責任を明確にしたことなど、これまでの自民党のイメージをくつがえすほど、率直、大胆な内容を持っている。(略)むろん個々の政策についてはいろいろな批判がある。一例をあげれば過密と過疎を同時解決するために、都市再開発と地方開発を並行的に実施しようとしているが、大都市集中を強く抑制することなしに、都市問題が解決するのかという点である。(略)また民間デベロッパーに利子補給や融資を行って、都市改造をやらせるといっても、いまの不動産業者が、公益優先的立場にたって動いてくれるのかどうか……(略)。われわれは、政府・与党が勇気をもって実現に努めることを期待する」
 秘書の早坂は、この朝日の社説を見て「勝負あった。これで勝った」と快哉を叫んだ。土建屋角栄が、一皮もふた皮も向けた新感覚政治家のイメージをまとったのである。田中自身が「天下盗り」を強く意識したとすれば、この都市政策大綱が発表されたときではなかったか。現実の「天下盗り」まではさらに4年ちかくの歳月を要するが、権力の座に手をかけた角栄は早坂に「都市政策大綱は抽象的すぎた。もっと一般の人にわかりやすくして、俺の名前で本にしろ」と命じる。それが田中の一枚看板ともいえる「日本列島改造論」へとつながる。
 都市政策大綱は、紛れもなく田中の「天下盗り」の起点になった。
 と同時に国土建設に突き進んできた田中が、都市の魔性「土地問題」にとり憑かれる契機にもなった。朝日の社説をまつまでもなく、公益優先の掛け声は、欲望という名の列車の前ではひとたまりもなく弾き飛ばされる。そこに本当にブレーキをかけられるのか。田中は、都市を語ることで「公」と「私」の欲望が激しくもつれ合うパンドラの箱を開けてしまったのだ。田中自身は、当初、大綱の土地政策に生理的ともいえる拒否反応を示していた。経営者の血が反応したものだろう。早坂は語っている。
 「都市政策大綱を報告する際には、土地政策のくだりについて、角栄は大変、嫌がったね。もともと角栄は土地政策なるものが苦手であった。特に、公共の前に私権は譲らねばならない、公益優先という考え方には反発を示してました。しかし、公共事業を実施するには用地買収費が高いことがネックになるということで、我々が必死に説得して、最終的には納得させました」(『戦後国土政策の検証・下』)
 土地を開発して巨大な権力を手にした田中は、日本列島改造論をひっさげて政権を奪取する。しかし公的なコントロールの利かなくなった土地の値段は、火の粉を吹き上げて舞い上がる。やがて土地の魔性にとり憑かれた田中は、権力の座から転落する。
 土地に始まり、土地に終わった。
 日本列島改造論が描いた夢と、その失敗の間に横たわる土地問題とは、いったい何だったのだろうか。

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